比翼連理


御影玲王の所感  






「ありがとう、本当に助かったよ。お礼はまた今度なんでもするから」

 自宅の玄関に置き忘れられていた本を届けると、珍しく切羽詰まった状態で言われたそんな台詞。なんでもって言われると迷うよな。今後あるかわからない折角の機会だからよく考えて大切に使わねーと。どうすっかな。なんて考え事をしながら差し掛かったでかいシロナガスクジラの原寸模型の横、見知った横顔を見付けて思わず足を止めた。

「よ、ナマエちゃん。久しぶり」
「え……あ、御影さん?!」

 俺の呼び掛けに、まさかこんなところで、と言わんばかりに目を丸くして驚いているのは我らのお嬢である千切豹馬の幼馴染みであり、現在は妻と言う立場にあるナマエちゃんだった。思わず上がった声に慌てて口を塞ぐ姿はなんとも微笑ましい。きょろきょろと辺りを見回した後、周りの客に迷惑が掛かっていなかったと分かると今度は小声で「お久しぶりです」と頭を下げた。

「どうしてここに……?」
「あぁ、ここあいつの両親の職場でさ。あいつが通ってる大学とも共同研究してるんだけど、今日は忘れ物を届けに来た帰り」
「そうだったんですね。あの有名な御影さんをお届け物係に出来るのは奥様しか居なさそう」

 そう言ってくすりと笑う彼女だったが、残念ながらその考えは外れている。

「残念、千切にもさせられたことあるよ」
「あー……ご迷惑をおかけしてすみません」
「いやいやナマエちゃんが謝ることじゃねぇって。てか一人?千切は?あいつも今日オフだよな」

 話題にのぼった男について尋ねれば、一緒に来ては居るが丁度チームスタッフから連絡が入って席を外しているとのことだった。ナマエちゃんに対してだけは過保護な男が、彼女を一人でここまで来させるのは考えにくいと思っていた俺の予想はどうやら間違っていなかったらしい。

「なるほどね。今日は博物館デート?」
「豹馬と約束してた猫カフェに来たんですけど、予約が午前中だったので折角こっちに来たなら見ておきたいって私が誘ったんです」
「へぇ。ナマエちゃんってこういうの好きなんだ?」
「はい。自然……特に生き物とか海とか好きで、家でもサッカーとニュース以外だと自然系のドキュメンタリー番組ばっかり見てるんです」
 
 英語が分からなくてもなんとなく楽しめるからって理由もあるんですけどね。
 そう言って恥ずかしそうに眉を下げて笑うナマエちゃんは、自宅で見ていると言う番組名をいくつか挙げていく。その中に義両親が携わったと聞いている番組名が入っていたのでそう伝えると、一瞬驚いた表情になった後「楽しく拝見していますとお伝えください」と目を輝かせていた。その姿を見て素直に良い子だよなと思う。それと同時に本当にあのワガママお嬢が相手でいいのかと思ったこともあるが、こと夫に関しては彼女の許容範囲が太平洋より広くマリアナ海溝のチャレンジャー海淵より深くなり、千切に関してのみ彼女の良識は欠如する。「豹馬が言ったから」「豹馬だから」は魔法の言葉ではないと教えてあげた方がいいんだろうかと本気で思ったことも一度や二度では無い 。なのである意味では彼女自身があの男のマイペースさを助長している要因の一つなのかもなと思うほどだった。
 とは言え、千切が絡まなければナマエちゃんは真面目で穏やかで人当たりも良く、たぶん目の前で困っている人が居たら見捨てられないタイプなんだろう。これだけ聞いたら悪い男に唆されそうな感じだけど、人との距離が近すぎるってわけじゃないんだよな。現にこうして俺と話していても一定の距離はある。かと言ってあからさまに遠いのではなく、お互いの表情がよく分かる範囲内ではありつつも、手を伸ばしても届きはしない絶妙な距離。同級生の俺に対しても未だに敬語なところも併せて上手く線引しているなと感心した。

「今度うちに、」
「はいストップ。なんかやたら近いやつ居んなと思ったら玲王じゃん。なんでここに居んの?しかもうちのナマエ口説いてるとか笑えねーんだけど?」

 今度うちに来てあいつと話せば楽しいかもな。
 そう言い切る前にナマエちゃんの目を手で覆って後ろから抱き寄せ、ご丁寧に猛獣のような獰猛さで睨んでくるのは他でもない彼女の最愛の夫である千切だった。目にも止まらぬカットインは流石リーグでのスプリント最高速度ランク上位に入っている男……と思っている間に、ナマエちゃんが先に千切の誤解を解くために声を上げる。

「豹馬、御影さんは奥様の忘れ物を届けに来たんだって」
「へぇ」
「それにあんな美人な奥様が居るのに私なんか口説かないよ」
「それはわかんねーじゃん」
「わかるってば……」

 千切の腕の中でそんなやり取りをしているナマエちゃん。ゼロ距離で千切に安心したように身を委ねているその姿と、俺と話していた時より幾分か和らいだ声色に、やっぱりこの二人は比翼の鳥で連理の枝でオレンジの片割れなんだよなと改めて思うのだった。


 

 


「うぇ……」
「えっぐ……」
「まじかよ……」

 思わず口から漏れたのは三者三様のそんな言葉。興奮した解説者がゴールを連呼するのと正反対に、テレビの前の俺たちは水を打ったように静まり返っていた。
 
 国際Aマッチデーである今週はリーグ戦も休みと言うことで、俺らの馴染みの選手も多く居るイングランドの代表戦を一緒に見ようと千切から連絡が来たのは昨日の話。突然すぎねーかとは思いつつ、元々一人でも見る予定ではあったしなと了承すれば「凪も連れてくから」と言って一方的に通話は切れた。画面に表示された紅茶の蒸らし時間にすら満たない通話時間を見れば、もはや笑いしか浮かんでこない。マジで用件だけだったな。そんなとこまでスピード狂なのかよ、あのお嬢は。
 
 そして宣言通り、今日の夕方に千切は凪を連れて俺の家へとやって来た。凪とかこう言うの面倒くさがりそうなのに、なんだかんだで自分たちが世話になったマスターであり、現チームメイトのプリンスが出る試合は気になるんだろうな。因みになんで俺の家かと言うと、それも千切が「玲王の家が一番テレビでかいじゃん」と言ったから。確かに間違ってはねーけど、お前のところも結構サイズあるだろと返せばサラリと「だって家片付けるのめんどくせーもん」とのたまった。流石我らがお嬢。成人してしばらく経つけど、その辺は清々しいほどに何も変わっていない。
 
 そんなわけで適当に飲み食いしながら試合を見ていた俺たちは、前半開始早々に食べる手を止める事態になっている。

「は、あの位置から決めるとか化け物かよ」
「マークについてたディフェンス全部なぎ倒してたな」
「パスに対する反応速度もヤバいね」

 俺の言葉に千切と凪もそれぞれの視点から感想を口にしていく。リプレイ映像が流れる中、それは何度見ても完璧なゴールだった。

【プリンスとどちらが決めるかと思いましたが、やはり最初はこの選手でしたね!】
【今季もリーグ戦トップのゴール数ですからね】
【あ、パーフェクトヒーローの悔しそうな顔がカメラにしっかり映っています】 

 パサーに対して「さっきのは俺だっただろ?!」とでも言うように大袈裟なアピールしているプリンスの姿を面白そうに伝えている解説者。その横では先程ゴールを決めた男――ゲットゴールジャンキーの二つ名を持つアダム・ブレイクがニヤリと不敵に笑って何かを言っていた。多分あれはプリンスを煽ってるんだろうな。その証拠にリスタートのためポジションへ戻るプリンスがブレイクに向かって何やら吠えてるのが映っている。それを見つけてグラスを煽りながら笑っている千切。因みにシーズン中なので当然ながらノンアルコールではあるが、来て早々に「美味そうな酒あるじゃん。オフになったら開けようぜ」とリビング横にあるワインセラーの中身に目を付けた上に勝手にキープしていた。その間にも凪はソファで寝転がれるスペースを見付けていたしマジでマイペースすぎるんだよな、このコンビ。まぁそれを許す俺も俺なんだけど。

「プリンス今日もいろんな意味で絶好調じゃん」
「あの人、チームでもいつもあんなだよ」
「選手としても指導者としても確かに優秀なはずなんだけどな」
「ま、あれじゃね」
「あー、それはそう」
「確かにな」
  
「「「残念なイケメン」」」

 




「結局今回のゴールはプリンスとブレイクの引き分けか」
「プリンスの二点目、マジで神」
「あんな弾道誰も予想できねーよ」

 結局試合は4-0でイングランドの勝利。相手はランキングでそこまで差があるわけではなかったが、蓋を開けてみればプリンスとブレイクによるゴールラッシュで終始イングランド優勢の中試合は終了した。試合が終わってハイライトが流れる中、ブレイクの二点目のシーンが映っている。プリンスの本人でも予測不可能な超速で無秩序軌道を描き落ちるあのゴールが見事に決まった時は確かに叫んだが、今日の試合で言えば後半アディショナルタイムでブレイクの決めたゴールの方が鳥肌モノだった。

「でもマジでブレイクやべーわ」
「性格?」
「いやまぁそれはそうなんだけど」

 今回はゴールの方な。
 そう返せば千切は面白くなさそうにその長い髪に指を絡ませている。プロジェクト中に初めて出会った時の印象は確かに悪い。最悪と言っても過言じゃなかった。同じリーグでプレーすることになってからも女好きで下品な物言いの男のプライベートは日頃からゴシップに溢れているし、先週もどこぞの俳優の女を略奪しただとかなんとか聞いた気がする。にしてもなんだ?千切の機嫌のスイッチがどこにあるかは日頃からわかりにくいけど、最初の方は普通だったよな。別に直近でブレイクのチームと試合して負けたとかじゃねぇはずだし。

「アイツとなんかあった?」
「……別に」

 いやそれ何もねぇヤツの反応じゃねーだろ。
 そう突っ込みたくなるのを我慢して隣へと視線を移せば、早々とソファに寝転がってスマホを弄り始めていた凪が俺は何も知らないと言うように、緩慢な動作で首を横に振った。ついでに、玲王よろしくと手をひらりと一振りして視線をスマホへ戻す。……全く、仕方ねぇな。溜息を小さく一つ吐いて思考を巡らせる。千切と直接なんかあったわけじゃなくて、チーム関連でもない。同じリーグに所属していると言うだけでそんなに関係があるわけでもない男に対して千切がここまで不機嫌になる理由――

「……もしかしてナマエちゃん?」

 その言葉に千切の指が止まる。ビンゴ。千切本人とチーム以外だとそこしかないと思ったけど、でもなんでナマエちゃん?試合を見に行っているとは聞いていたが、広いスタジアムで会う機会なんてほぼないに等しいだろ。

「ナマエがちょっと前に喫茶店で手伝いしてたんだけど」
「あー、前にお前がめちゃくちゃ嫌そうにしてたあれな」

 確か友人の家がやってる喫茶店。そこで数日間働くと言っていたのを急に電話してきた千切に聞かされたのを思い出す。「変なのに目を付けられるに決まってる」「サービスで優しくされただけなのにそれを勘違いするやつ居るじゃん?」とか言っていたから「なら働くの止めろって言えばいいじゃん」と返せば「は?ナマエのやりたいこと制限させんの?」とか意味不明にキレられた。あれはマジで理不尽すぎだと思う。
   
「そ。そこにたまたまアイツが来たって」
「あー、千切の悪い予想が当たったってわけか」

 しかも予想より遥かに面倒くさい相手。

「なんかされた?」
「いや、口説かれはしたらしいけどそこでは何も。寧ろナマエが啖呵切ったって」
「マジか」
「ただ友人情報だとそれでナマエのこと気に入ったって感じだったらしい」
「あー……」

 普段そんなイメージのないナマエちゃんが啖呵を切るくらいだから多分千切のことかチームのことで煽られたんだろう。彼女から唯一良識が欠如するのは愛すべき夫絡みの時のみに限られる。けど、それが逆効果だったってわけか。でもって相手は大人しそうな子が見せるささやかな抵抗に燃え上がるタイプだったと。それは確かに面倒なことになりそうだ。

「あいつとの試合の時は現地行かせない方がいいんじゃねーの?」
「アウェーは家で見てることが多いからそれでいいかとは思ってる」
「あと、ナマエちゃんに直接伝えはしたんだよな?」
「した。だからナマエから近付くことはないはず」
「まぁならとりあえずは大丈夫そうではあるか……」

 広い国内、所属チームが違えばそうそう出会うことはない。ナマエちゃんが異性に対して線引きが出来る方なのは、千切を介して知り合って数年経った今でも同い年の俺たちを「御影さん」「凪さん」と呼び丁寧語も抜けない会話を通してわかっている。それに加えて千切の言うことは絶対な彼女のことだ、会うなと言われたなら本当に会わないような行動を心掛けるんだろう。

「でももしなんか耳に入ったらすぐ伝えるわ」
「よろしく」

 そんなやりとりをして話は終わる。テーブルの上のワインクーラーに入れていたノンアルのシャンパンは試合に夢中になっている間に氷が溶けて飲めそうにもない。新しいの出すか。そう思って立ち上がろうとしたところでふと思う。こいつらうちに泊まんの?見た感じなんの荷物も持っていない二人。だがここからそれぞれの家まで帰るには結構な距離がある。まぁ泊まるなら泊まるでゲストルームはいつでも使えるようにしてあるからそこに放り込めばいいんだけど。そんなことを思っていれば、千切が急に立ち上がる。どうした。

「あー、なんか走りたくなってきた。玲王50メートル走しよーぜ」
「いやなんでだよ。しねぇよ」
「むしゃくしゃしたんだよ」
「それなら勝手に走ってこい。このワガママお嬢が」
「は?相手ぶち抜かねーと楽しくねーじゃん」
「抜くの前提かよ。でも流石にお前とのスピード勝負は結果見えてんだろ」
「コピーしろよ」
「お前簡単に言うけどあれは、」
「凪走ろーぜ」
「おいこら聞けよ」
「えー。走るのとかやだ、めんどくさい。てか話し終わったならそろそろ寝ていい?ふかふかのベッドよろ〜」
「確かに。てなわけで、玲王部屋と着替えとかよろしく」
「お前らマジ自由な……」

 知ってたけど。
 今度は隠すことなく大きな溜息を吐き出した。今日は騒がしくなりそうだから両親の家に泊まると言っていたあいつの判断は間違っていなかったらしい。でもなんだかんだ言いつつも、こいつらとのこう言う取り留めのない会話は存外悪くないと思う自分が居るのもまた事実なのだった。

 


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