比翼連理


千切豹馬の夢現  







 見慣れない道の上。
 俺の前には一匹の黒猫がまるで先導するかのようにしっぽを揺らしながら歩いている。あの時の黒猫か?そう、高校の帰り道に出会った猫を思い出していると、くるりと猫が振り返った。あの時の黒猫じゃない。顔が見えたことでそれは分かったけれど、それ同時に覚える既視感。あの黒猫以外に俺に猫の知り合いは居ないはずなんだけど。でも絶対どっかで見たことある気がするんだよな。

 ニャオン

 考え込んでいたらしい俺を呼ぶように猫が一鳴きする。ちょこんと行儀よく座った猫はまるで俺が答えに辿り着くのを待っているようだった。俺をじっと見つめるのは穏やかそうに見えて芯の強そうな瞳。それ同じような瞳を持つ人物を俺は知っている。もしかして。

「ナマエ?」

 俺の言葉に猫は嬉しそうにしっぽを揺らし、待ってましたとばかりに俺の足元へと擦り寄ってきた。なぜかは分からないけれどどうやらこの猫はナマエらしい。しゃがんでその手触りの良さそうな毛に手を滑らすと、まるでナマエの髪の毛を触っているかのような手触りでやっぱりこいつはナマエなんだと感覚で理解する。

「気持ちいーの?」

 頭を撫でているとゴロゴロと喉を鳴らす猫。確か猫が喉を鳴らす時って機嫌がいい時って言ってたっけ。そういやナマエも頭撫でてやると嬉しそうな顔するんだよな。だからついこうやって頭を撫でてしまう。まぁなんてあいつのせいにしてるけど、本当は俺がナマエの髪を触るのが好きなだけなんだけど。だからあいつのヘアアレンジは基本的に俺がやる。嬉しそうに笑ってくれるのはもちろん嬉しいけど、俺がしたってのが視覚的にわかるのがいいんだよな。ナマエも俺がやったって素直に言ってくれるし。あとはそれを解く時も好きだったりする。完全なものを俺だけが暴けるって言うか、素に戻せるって言うか。まぁそれは流石にヤバいかなって思うから言いはしねーけど。

 ニャーオ……

「なんでもないって」

 何かを察したのか、俺を見上げて来る姿に苦笑する。察しがいいところもあいつらしい。悪かったと謝りながら、身体の方まで撫でていく。あー、マジで手触りいいな。このままずっと撫でてたいかも。マイナスイオン出てんじゃねーかこれ。

「ひょーま」
「へ?」

 急に聞こえたの舌ったらずだけれど、聞き間違えるはずのない声。

「お前、喋れて……」
「ひょうま」

 今度はもっと鮮明に聞こえる。その瞬間、ふわりと感じる浮遊感と共に理解した。あぁ、そーいうこと。


 ▽


「豹馬」

 目を開けると目の前には猫――ではなくちゃんと人間の姿のナマエ。どうやら俺は本を読みながらソファでうたた寝をしていたらしい。

「風邪引いちゃうよ。もう遅いしベッド行った方が」
「ナマエ」
「わっ……」

 俺を覗き込んでいたナマエの手を引くと簡単に俺の方に倒れ込んでくる。どうしたの、と言うナマエの言葉もそこそこに彼女の髪の毛に指を絡ませると、先程までの続きのような手触りに自然と口角が上がった。

「豹馬、もしかして寝ぼけてる?」
「いや?」
「そう……?」

 戸惑うナマエも、俺が撫でる手を止めないとわかると諦めたように身体を預けて大人しくなる。そして徐々に彼女の身体から力が抜けていくのを感じて、つい芽生える悪戯心。

「ニャアって言ってみ?」
 
 え……と流石に少し引き気味のナマエ。まぁそりゃそうか、と特に答えを期待するでもなくそのまま頭を撫で続ける。

「……ニャア」

 聞こえるか聞こえないか、なんなら俺の都合のいい幻聴かと思うほどの声量で囁かれた声に思わず時が止まった。そうだった、ナマエはこういうやつだよな。
 ……でもこれはマジでやばい、反則級。どれくらいやばいかと言うと、軽い気持ちで言うもんじゃねーなと俺が珍しく自分の行いを反省するレベル。胸に顔を埋めているから爆弾を落とした張本人の表情は見えないのが残念だけど、眼下に見える耳が真っ赤になっているのが先程の言葉が幻聴でないことを物語っているだけで十分だと思うことにした。明日早かったっけ。ちらりと時計を見ると普段なら寝る時間になっているけれど、明日は調整日だし多少遅くなったところでパフォーマンスに影響は無いだろう。つーか、これをこのまま寝る方が明日に影響が出るってことで。

「えっと、豹馬……?」
「先謝っとくわ。 ごめん、明日朝ゆっくり寝てくれていいから」
「え、それって……きゃっ?!」

 俺の言葉をナマエが理解するが早いか、抵抗される前にそのまま抱き上げる。その時見えたナマエの顔は耳と同じかそれ以上に真っ赤になっていて、恥ずかしそうに逸らす視線も、かと言って暴れはせずに大人しく俺の首に腕を回す素直さも、彼女の全てが俺の興奮を煽る以外の何物でもなかった。





 疲れ果てたように眠るナマエの額に張り付く前髪を除けながら、事前に謝ったとは言えがっつきすぎたかと苦笑する。アスリートである自分の体力に付き合わすのは毎回申し訳ないなと思わないこともないけれど、好きな子を目の前にして我慢しろと言う方が無理な話だ。それにいつもどちらかと言えばどちらかと言えば理性的でいろいろ考えて振る舞うことの多いナマエが、理性を無くして本能のまま全てを曝け出してる姿を全世界でただ一人、唯一俺だけが見れるあの時間がどうしようもなく好きだった。

 ついさっきまで俺の名前を呼んで、好きだと、愛していると言っていた唇にヘッドボードに置いているリップクリームを滑らせる。キスのし過ぎで荒れた唇を見て以来、申し訳程度にやり始めたこの行為も今では楽しみの一つになっていた。荒れるからキスしたくないってナマエが言うとは思わないけど、ケアできることはしておくに越したことはないしな。ん、今日もいい感じ。誰に言うでもなく頷いて、潤いを取り戻したナマエの唇につい自分のそれを重ねそうになって思いとどまる。それじゃ塗った意味が無くなるか、と唇ではなく額に触れるだけのキスをひとつ落とすだけにした。

 ルームランプに浮かび上がる白い肌に残る紅。見える所はダメだと言われるけれど、髪をアップにした時に見えるか見えないかのギリギリの位置にひとつだけ付けるのはあの日――高校の卒業式前日から変わっていない。

 ナマエがこっちに来て数年。大学をこちらで過ごしたこともあって意外と知り合いは多い。例えばキングのファンを公言しているカフェの子。そう言えばマジな意味で好きなのかと思ってたから、彼氏が居るのをあの後で知ってちょっと驚いた。本当にただ純粋なファンだったらしい。そんな彼女を始め、こっちでの学友の中に仲が良い子も一定数は居る。会話に挙がるのは女の子ばかりだが、共学だから男も居るはずで。高校までとは違って一緒に居て牽制するわけにも行かず、かと言って大学まで迎えに行くと言っても「練習で疲れてる豹馬にそんなことさせられない」と断られ続けて苦労した。最終的に「牽制」と素直に伝えて、そんなの必要ないのに……と眉を下げるナマエを半ば無理やり迎えに行ったのが懐かしい。その時に会ったカフェの看板娘に「こいつに手出しそうなヤツが居たら教えて」と頼んだ結果、呆れられつつも協力を得ることが出来てやっと少し安心することが出来たのだった。

 本当なら家に居て、俺のことだけ見てて欲しい。この家という檻の中でずっと俺だけを待っていて欲しい。だけどナマエに全部置いてこっちに来させた負い目が全く無いわけでは無い。それを言えばナマエは否定するのもわかった上で、俺はやっぱりその考えを完全に捨て去ることは出来ないのだ。だからナマエがこっちで彼女自身の力で得た立ち位置を否定するようなことはしたくなかった。勿論、さっきのような必要最低限の牽制とかは別として。

「お前がもっと我儘言うなら楽なのにな」

 起きている彼女にそう言ったところで返ってくる言葉は火を見るより明らかだし、無理やり言わせた言葉にはなんの意味もないのもわかってるからこんな時しか言わないけれど。

「ずるい男でごめんな」

 よくナマエが「豹馬はずるい」と言うけれど、全くもってその通り。ナマエが聞けば彼女の言うそれと俺の思うものはきっと意味が違うと言うと思う。でもやっぱりずるいことには間違いない。ナマエの性格も、思考も、全て理解した上で「サッカーもナマエを手放したくない」と言う俺の人生最大の我儘を貫き通しているんだから。

 ナマエの寝顔を堪能していれば訪れる睡魔に抗うことはせずにルームランプの明かりを落とす。抱き寄せたナマエの髪に指を通すと、汗で少し湿っているはずのにそんな手触りさえ心地良いと感じてしまうのだから、相変わらず相当絆されているなと再び苦笑して夢の中へと意識を飛ばすのだった。 


 


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