比翼連理


端役の憧憬  







「おはよう」
「おはよう、ナマエ」
「あのね、ちょっと次の授業の文献で分からないところがあって教えて欲しいんだけど、いい?」
「いいわよ。どこ?」
「ここなんだけど、ちょっと文法がよく分からなくて」
「あぁ、そこはね――」

 授業が始まる前、図書館に併設されているカフェで予習をしているとそんな話し声が聞こえて来る。ここは自習をしている生徒が多いとは言えカフェなので、それなりに飛び交う音も多いのに、彼女の声だけはほかのノイズに負けることなく僕の耳に綺麗に届いていた。

「わ、そう言うことだったんだ」
「ちょっと古めかしい使い方になるから分からなくても仕方ないわよ」
「ありがとう、助かりました」

 そう言って目の前の友人にはにかむ彼女はとても可愛らしいと思う。彼女――ミョウジナマエは日本からの留学生だ。僕とはコースが違うから授業は別だけど、授業の前後にここで勉強している姿をよく見かけている。友人とのやり取りを聞いていると、主張が激しいわけでは無いが消極的というわけでもなく、その言動は日本人らしく控えめながらも日々真面目に取り組んでいるといったイメージで、僕の知る日本人のそれとほぼ一致していた。最初にここで会ったのは偶然で、それから何度か同じ時間に居合わせた結果、今では彼女の行動パターンがだいたい分かっているのでその時間帯は僕自身もこのカフェに居るようにしている。

「あら、貴方もここに居たの」

 今日も素敵だなと思いながら見つめていると、母親が通っているカフェの看板娘が僕に気付いたようで声を掛けてきた。その隣には彼女も一緒だ。
 
「やぁレディ。今から授業?」
「ええ。貴方はまだ?」
「うん。もう少しここで勉強しておくよ」

 そう。頑張って。
 そう言い残して横を通り過ぎる時、隣に居たナマエが僕の方を見てぺこりと頭を下げる。その時添えられた微笑みの威力と言ったら、僕の語彙では表現出来ないほどだった。彼女とはほぼ話したこともないのにあんな笑顔を向けられるなら、友人やそれ以上になった時の僕はどうなってしまうのか。考えただけで恐ろしい。はぁぁぁ、と溜息を吐き机に突っ伏した拍子に置いていたカップが倒れて課題の端を濡らす。いつもなら慌てて拭き取るところだけれど、それが彼女が好んで飲んでいるものだと思えば悪くは無い。白いページにジワジワと染み込んで行く彼女の色に僕は恍惚として見入っていた。
 


 ▽

 

「はあ……寝起きの顔やおはようって笑う彼女を見たい」
「ナマエで汚らわしい妄想しないで 」

 母親のお使いでオリジナルブレンドの紅茶を買いに来ていたついでに一息ついていると、黙っていれば整っている顔をこれでもかと歪める看板娘。

「最近やけにあのカフェで見ると思ったらナマエ狙いなの?そう言えば前まで飲んでた紅茶じゃなくなってるわよね。もうそれ完全にストーカーじゃない。通報するわよ」
「失礼だな、僕は何もしてないじゃないか。ただ彼女の好きな紅茶を飲みながら、あわよくば彼女がその角からひょっこり現れないかなと思ってるだけだよ」

 魔物でもナーサリーライムに出てくる魔女でも誰でもいいから彼女を連れてきてくれたらいいのに。そんな本心を伝えてしまえば、本当に目の前の看板娘が999をダイヤルしそうなので止めておいた。彼女に会えなくなるのは困るからね。
 それは置いておいて、まず現実問題として挙がるのが僕と彼女とは顔見知り程度の間柄と言うこと。せめて友人レベルに昇格しないとその先は望めないと思う。日本人は奥ゆかしいと言うから、その辺の段階を踏むのは大事なことだろう。彼女の好みはどんな人なんだろう。あまり派手なタイプは彼女に似合わない気がするな。となれば彼女と同じで穏やかで優しいタイプか。僕もそんなに派手なタイプではないし、第一段階はクリア出来るかもしれない。
 スコーンに手を伸ばしながらナマエの隣に立つ自分を想像してみると、そんなに悪くない気はするがどうだろう。でもあんなに素敵な彼女の横にはもっと別の人が似合うのかもしれないと思う気持ちが無いわけでは無い。
 そう、例えばあんな綺麗な赤髪を靡かせた、中性的な顔立ちの男とか。背は彼女よりも高くて、キスをするなら背伸びをするし、男はそんな健気な彼女が可愛くてそれを毎回楽しんでいる感じ。よく出来ましたと言う風に頭を撫でられたら彼女は嬉しそうに僕が見た事のないような顔で笑うんだろう。そんなの、僕に勝ち目がない。

「って……ちょっと待って、誰?!」

 思わず飲んでいた紅茶が器官に入り涙目になりつつも、目の前の情報に頭がついていかない。僕の妄想だったはずの風景はガラス一枚隔たれた通りで行われていた現実だ。

「うるさいし汚いわよ!誰って……レッドパンサーじゃない。ナマエの愛しい愛しい恋人よ」 

 知らなかったの?
 呆れを隠すことなく言ってのける看板娘。恋人……?彼女に?そんな人が……??

「こんにちは」

 整理が追いつかない頭を抱えているとカウベルが涼しい音を立て、続いていつも逃すことなく聞いている透き通るような彼女の声が店内に響く。

「いらっしゃい、ナマエ。レッドパンサーも」
「どーも」

 レッドパンサーと呼ばれた男はどこかで見たことがあるが名前が思い出せない。こっそりとスマートフォンでレッドパンサーと入力すると出てくるのはイングランドに住む者なら知らない人はいないチームのユニフォームを身にまとった男の姿。それは数メートル先で彼女の隣に立つ男――千切豹馬と呼ばれる男の愛称だった。

「うちの店の前でイチャつくのはほどほどにして頂戴」
「えっ!ご、ごめん……」
「ナマエは謝らなくていいわよ。どうせそっちの待ての出来ない男のせいなんでしょうから。ナマエはいつものセットでいい?」
「う、うん。ここの紅茶もプリンも大好き」
「ありがとう。レッドパンサーは?」
「俺はコーヒーで。プリンはナマエの一口貰うから大丈夫」
「オーケー」
 
 このカフェのオススメは紅茶なのに堂々とコーヒーを頼む男は僕の知る控えめな日本人のイメージとはかけ離れていた。いや、英国人もコーヒー好きは多いし、ここはコーヒーの取り扱いもあるからそれ自体に問題は無いんだけど。それよりも問題はその後だろう。「ナマエのを一口貰う?」だって?どれだけ徳を積めばそんな羨ましい台詞を言えるんだ。恋人になるってそんな特典まであるのか??と言うか押しの強そうな男だから、もしかしたら彼女は断りきれなくて付き合っているのかもしれない。真面目で優しい彼女は騙されやすそうだから僕が守ってあげたいと、いつか彼女を助けてあげる時のためのイメージトレーニングは欠かしていなかった。

「ん、やっぱり美味しい。……あ」
「どした?」
「あそこに座ってる人、よく大学のカフェで会うんだ」
「!!」

 思いもしなかった彼女の言葉に、認知されていたんだと思わず彼女の方を振り返ってしまい、その瞬間に目が合った。彼女ではなくレッドパンサーの方と。「ふぅん」と大して気にしていなさそうな返答とは裏腹にその視線は鋭く、まるで空腹の豹の檻の中に丸腰で入れられたような感覚に襲われる。ぺこりといつものように微笑を浮かべた彼女が頭を下げてくれるのに、その横の男の視線のせいで生きた心地がしない。こんな視線を受けるなんて想定はイメージトレーニングに入っていなかった。その視線からやっと開放されたのは彼女が話を続けた時。時間としたらそんなに大したものではないはずなのに、冷や汗が止まらない。

「彼女の知り合いとは聞いてたんだけど、ここのお客さんだったんだなって」
「まぁここのカフェ結構有名らしいしな」

 バクバクと未だうるさい心臓を落ち着かせるためにカップを口元まで運ぶと、彼女の好きなものと同じ銘柄が僕の喉からじんわりと身体を巡っていく。これ以上彼女とその恋人の会話を聞かない方がいいと脳が警告を出しているのに、それでも僕の訓練された耳はどうしても彼女の声を拾うことをやめてくれないらしい。

「あ、ナマエ。一口ちょーだい」
「うん、いいよ。はいどうぞ」
「食べさせて」
「……豹馬さんの手は何のためにあるんですかねー」
「可愛い彼女を抱き締めるためだと思いまーす」

 ほら、やっぱり聞かない方がいいじゃないか。
 押しに弱い彼女が騙されているから?そんなことが有り得ないのは、店の前で頭を撫でられた彼女の顔を見た時点で本当は分かっていた。イメージトレーニングなんて何の役にも立たないことも。
 もしも。例えばの話。ここで心のままに彼女の前に走り込んでこの思いを伝えたとして。彼女の心が僕に傾く確率は皆無だろう。そんな僕の行動は優しい彼女を困らせるだけだし、彼女とのあんなことやこんなことを考えていて舞い上がっていたのは僕だけだと言う現実を突きつけられる上に、関係が今より悪い方向に行く未来しか見えない。だから僕は――

「ごちそうさまでした」

 そう言い残して店を後にする。お使いの商品と一緒に先にお金を払っておいてよかった。そうじゃなきゃ、僕が大好きな彼女の、僕が知らないような声色をもっとたくさん拾ってしまうから。

「あっついなぁ……」

 気温が上がって焼ける石畳の上を歩きながら考える。この暑さでおかしくなりそうな僕を見かねたナーサリーライムの魔女が魔法で彼女を連れてきてくれないかな。そしてめでたく彼女は僕を好きになりました――なんて都合のいい話あるはずがないか。だって彼女と僕は友人ですらなくて、彼女のことを僕はなにも知らない。彼女はこんな子なんだろうとか、好きなものはこんなものなんだろうとか予想することはあっても、その答え合わせをする機会はきっと訪れない。クレームプリンが好きだと言うのも今日初めて知ったし、あんなに幸せそうな笑顔も、拗ねるような声も、店を出る直前に見た少し恥ずかしそうに頬を赤らめる姿も、僕は何も知らなかった。僕が知っているのはあのカフェで彼女が飲む紅茶の銘柄だけなのだから。


 
 
  


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