喧嘩別れした天パのいる町へ人事異動でUターンした社畜の話 | ナノ

似た男


――――――車の免許を取ったのは、地球を出てからだった。

狭い車道に、白線で区切られただけの歩道。とうりゃんせのメロディが流れる懐かしい横断歩道。昔、私をバイクの後ろに乗せてこの道を走っていたあの人は、焦げ茶色の軽トラックを一人で乗り回している今の私を見たら驚愕するだろう。真ん中横一直線にベージュの太いラインが入っていて、そこに赤褐色の星マーク。四角で囲まれているそれは、うちの会社のロゴマークだ。

〈ホシカク珈琲〉

何十、何百。いや、もう何千か。このロゴを背負った日数は。社用車であるこのキッチンカ―の運転はもう慣れたもので、狭い道でも何車線もある都会の道路でも、どこでも気負わず運転できる自信はある。なんせ、他の星では初見の道路を運転しなければならなかったから。
しかしこの星、地球の場合は違う。昔は無かった建物の目新しさに毎日胸を躍らされる、とか。昔と変わらない街並みに安心する、とか。この時間帯はまだ車が混み始めるには早いのにこうして裏道を通っているのは、そういった懐かしい気持ちを糧にしないと仕事へのモチベーションを上げられそうにないからだ。

馴染みのある公園が見えてきたところで、もともと遅かったスピードをさらに緩めていく。大きく開けている入り口に車を停めて、シートベルトを外す。もうこの場所に車を停める事にはもう慣れた。春には満開の桜並木も見られるこの公園には、至る所に彩りが植えられている。夏は眩しい緑。秋は暖かい赤や黄色が視界を賑わせる。
少し遠くに見えている葉の落ちた木々は、これから徐々に厳しくなる冬の寒さを知らせている。こんな季節は、自然と温かい飲み物を求めるのが人間の本能というものだ。

いつも、開店準備のために15分前には到着するようにしている。運転席から降りて、車体横面の跳ね上げ扉を開けて固定する。これが屋根と替わりになる。さらに、固定されていた販売カウンターをパタンと手前に広げる。先ほど開けた跳ね上げ扉の中には、下側3分の1程の隙間を開けた大きな窓がついている。実はこの窓には、秘密がある。
今、外から窓越しに社内の様子は何も見えていない。しかし車体反対側に回って入り口から車内へと乗り込むと、あら不思議。なんと、その大きな窓から外の様子が良く見える。
いわゆる、マジックミラーのようなものだ。とはいえ本来のマジックミラーとは異なり、明暗や光の具合に一切関係なく絶対に車内側からしか見えないという優れ物だ。車内から唯一見えないとすれば、窓の外面に張っている一枚の貼り紙くらいだ。

〈ホットコーヒー200円。お時間1分程頂戴します〉

貼り紙にはそう書かれている。メニューはこれ一択。カスタムなんてものは何も無いため、接客は最小限で済む。それ故にこのマジックミラーもどきで顔を隠しても、手元しか見えないよう程度の窓の隙間からでも、接客に支障は出ていない。今のところクレームを言われたことはないが顔が見えない分、精一杯愛想良く聞こえる話し方は意識しているつもりだ。

(……いや、そういえば)

地球に来て初っ端から、妙なイチャモンを付けられたのだった。後にも先にも、“犬の散歩ルートを邪魔するな”なんていうクレームはあれ一回のみであって欲しい。

営業初日、場所はちょうど今いるこの公園。オフィス街とかぶき町の間にあるこの公園は地球を出る前から馴染みのある場所で、迷うことなく来れた。そこまでは幸先が良かったのだが、問題はワゴン車を停めた後だった。
開店準備をしようと車から降りた私に『この時間はメルちゃんの散歩ルートなんじゃワレェ!』と言って来たその男は、額から頬に掛けての大きな傷、きっちり固められた七三ヘアー。朧気ではあるがその特徴的な見た目には覚えがあった。確か黒駒の……マグロ?太刀魚?名前は忘れたけれど、確か溝鼠組の人。ヤクザらしく『そもそもネェちゃんショバ代払っとんのか?!』という常套句を投げかけて来たのだが、当時の時刻は朝の5時45分。そんな健康的な朝型ヤクザがいて堪るもんか。それにきゅるんと可愛らしい目をした小型犬を従えて言われても何の威圧感も感じなくて、少し笑いそうになってしまったくらいだ。

(……だいぶ肝据わったよなぁ、私)

くすり、と思い出し笑いを零しながら、棚に手を伸ばす。手動のコーヒーミル、ドリッパー、サーバーなど、必要な物を棚から取り出していく。作業机の上の注ぎ口の細い湯沸かしポットのスイッチを入れる。

(今はもう、一人……だもんなぁ)

この町で厄介事に巻き込まれる前に守ってもらっていたのは、もう遠い昔の話だ。今は一人でどうにかしないといけない。会社の名誉と、自分の身。その両方を守るためにはどうすべきか。現在の私は、常に考えながら行動しなければならない一会社員なのだ。

「おい」

コポコポ、と湯沸かしポットが鳴り始めた頃、窓越しに少し横柄な掛け声が聞こえた。初見なら偉そうだなと思うかもしれないが、人となりに触れてしまえばどうってことはない。現在時刻は5時50分。開店の6時にはまだ早いというのに無遠慮に門を叩くこの緑掛かった黒髪の男は、毎回この公園の出店の際にはお馴染みとなっている。

「どうぞ、裏回ってきてください」

その声掛けの後、くるりと横を向いて窓枠から見えなくなるのを確認して私はキッチンカーの入口扉を開けた。

「よお」
「おはようございます、土方さん」

車内は元々、二人で作業できる程度の広さがある。しかも珈琲以外何も販売していないので無駄なものが無く、意外とゆったりした空間となっている。
私の座っていた丸椅子を差し出すと、車内に乗り込み黙って座る土方さん。灰掛かった淡い青色の羽織に、褐色より一層深い紺色に見える藍染めの着流し。その渋い配色の着こなしは絞まって見え、彼のクールな雰囲気にとても調和している。彼は着流しに忍ばさせている右手をごそごそとした後、握りこぶしを作って私に差し出してきた。

「ん」

手のひらでそれを受け取るとチャリンと100円玉が二枚静かに音を立てた。

「200円ちょうどですね。お待ち下さい」

彼はいつも釣銭が要らないように、きっちり200円出す。それがここに来るためにわざわざ用意されているものだとしたら、見た目に似合わずとても可愛げのある人だと思う。だってこんなにも、一歩間違えばチンピラに見えそうだというのに。

「おい、誰がチンピラだ」
「え?」
「声に出てる」
「あら、すみません無意識でした」
「そら本音だって言ってるようなもんだろうが」
「まぁ否定はしません。基本的にチンピラオーラを纏ってますよね」
「んだとコラ」
「ほら、そういうところですよ。制服姿見てなかったら絶対に警察だなんて思えない」
「うるせぇ」

彼は“真選組”という警察組織らしく、初めて会った時は制服を着ていた。その黒い制服は私が江戸を去る前には見たことが無いもので、その目つきの悪さに一瞬チンピラかと思ってしまった。

「あの時、ただでさえチンピラに絡まれてるのにもう一人増えたのかと思って焦りましたよ」
「ちゃんと仕事してやっただろうが」

彼との出会いは、私の地球での初仕事の日だ。彼の言葉の通り、警察として現れた彼は救世主だった。黒駒の何某と揉めていたところに『朝っぱらから何揉めてんだ』と声を掛けて来た。黒地の布に金糸の刺繍が施された軍服を纏っている彼の登場に、睨みを利かせるものの大人しくなった溝鼠組の人は、『なんも。ただ世間話しとっただけです』と言って去っていったのだ。
会社の名誉と、自分の身。その両方を守ることが出来たのは彼の登場のお陰だった。“警察”という立場の人間の登場により、私が何もしなくても事態が収束したから。

「そうですね、お陰様で今日も平和に営業できております」

ここでようやく、私は背を向けていた土方さんの方をちらりと振り返った。しかし、またすぐに背を向ける。

――先程から話しながらではあるが、実はずっと手はコーヒーを入れることに集中していた。ゴリゴリと手動のミルで豆を挽いた後、今はあらかじめ準備していた湯沸かしポットを注いでドリップしているところ。ちなみに2杯分入れているが1杯は私の分だ。
これらの手動で淹れるための道具は全て私物で、本来販売時に用いているのは電動のコーヒーマシンだ。豆挽きからドリップまでこなして、わずか1分。味も手動で入れた時と遜色なし。普段インスタントコーヒーしか飲まない人からしたら信じられないかもしれないが、これは驚異のスピードなのだ。どうやってそんな短時間でドリップなんてしてるのか私にもわからないのだが、弊社オリジナルのこのコーヒーマシンは門外不出の秘密兵器と言っても過言ではない。……では何故、そのありがたい絡繰を使用せずにコーヒーを淹れているのか。

「あぁー……今日もいい匂い」

ミルを回し始めた時から車内にはコーヒー豆の良い香りが広がっている。それにさらにお湯を注げばゆるりと立ち上る蒸気が鼻腔へ幸福感を運んでくる。自分の手で淹れた時にしか味わえないこれらの感覚が、昔から好きだから。

「コーヒー中毒」

営業前にこの香りを車内に充満させたいがためだけに、私は自分用に手動で淹れている。今までどの星でも、ずっとそうしてきた。それはもちろん、地球での仕事初日も同じ。あの時は時間が無かったのでマシンに頼ったが、私は助けてもらったお礼に土方さんにコーヒーを渡した。

「土方さんだってニコチン中毒でしょう」
「ここでは吸ってねえだろうが」

そんなの当然だ。キッチンカ―の中でそんなもの吸おうものなら摘まみ出す。とは言え、こちらのとある事情で車内に入ってもらっているので強くは言えないけれど。まぁここで吸おうとする素振りすら見たことはないので、さすがに一般常識はある人なんだと思う。そんな事を考えながら、ドリップし終えたコーヒーを紙コップ2つにゆっくりと注ぐ。

「はい、どうぞ」
「ん」
「……律儀に小銭ぴったり用意して私の淹れたコーヒーを飲みに来てくれるチンピラ、ギャップ萌えで可愛いですねぇ」
「あぁん?アホか」

黒駒の何某とのひと悶着のあと、『しばらくここで営業すんのか?』と聞かれた。
地球での販売場所は5箇所。そこを同じ順番で回っている。本来平日5日間のみの営業であれば同じ場所、同じ曜日になるのだが土日も営業している。そのため曜日が毎週ズレていく。リピート客が付かないなんて移動販売として致命的なのでは、と思うかもしれないがそうではない。あくまで多くの人に“ばら撒く”ことが目的なので問題ないのだ。
そこまで詳しく説明するわけにもいかず、『日替わり営業だ』という事を伝えると『次はいつだ』と問われた。5日後、彼はその公園に来た。帰り際に『次はいつだ』と問い、また5日後現れる。その繰り返しが続き、彼と会うのは今日で6回目。

「屯所から近えから来てるだけだっつってんだろ」

彼は毎回、5時50分に来る。それは初日に会った時と同じくらいの時間。

「ふふ、朝の鍛錬前にいつもありがとうございます」

毎回短時間ではあるが、開店までの10分ほど、私の朝のコーヒータイムのお供をしてもらっている。その会話の中で以前、『このあと屯所に戻って剣の朝稽古がある』という事を聞いた。

(……たぶん、様子を見に来てくれてるんだよなぁ)

しかし、それを言ったところできっと否定されるだろう。言わないのが正解だと思う。こういう不器用な優しさの人は、私にとっては心地が良い。

「そういやあ、」

一口、二口ほどコーヒーを流し込んだところで、彼がこう口にした。

「なんか噂になってるらしいじゃねえか、この店」
「あら、どこで聞きましたか?その話」
「キャバクラ通いしてる上司」
「土方さんが通ってるというわけでは……ないですね。睨まないで下さいよ怖い怖い」
「全く怖がってねえくせに」

確かに、全くもって怖くない。どちらかというと、変に物腰が柔らかかったり笑顔を貼りつけている人よりもよっぽど話しやすいと思っている。

「お前、志村妙と知り合いなんだってな」
「あぁ、お妙ちゃん。土方さんお知り合いなんですか?」
「上司がスト……上司の想い人がそのキャバ嬢でなぁ」
「今ストーカーって言おうとしてませんでしたか?」
「その女の働いてるキャバクラで、客の中でちょいちょい話題に上がる美味いと評判のコーヒー屋があってだな」
「へぇ」
「最初は知らないって言ってたあの女が、途中から妙に情報通になったんだと」
「はぁ」
「そんで、『マルチ商法に引っかかったんじゃねえか』って心配になったらしいうちの上司が調べたら、お前んとこの店だったってオチだ」
「失礼ですね。確かに彼女とはあくまでビジネスパートナーですけど、そんな怪しい関係じゃありません」

彼女とは“とある人”を通して知り合ったが、何もやましいことはない。キャバ嬢にとって情報は商売道具。こちらにも利点があるが故、Win-Winの関係として情報提供をしているのだから。

「ちなみにその噂だが、何でも別嬪がやってるんじゃねえか、とか何とか言われてるらしいぞ。……そんな噂立てるために顔隠して売ってんのか?」

(……聞き捨てならないな)

そんな事、言われたくはない。思わずムッ、と眉間に力が入ってしまう。

「人は見えないものを好き勝手言いたがるし、噂というのは尾ひれが付いてしまうものです。それは仕方ありません。でもそんなくだらない噂のためではありません。これは会社の方針です」
「顔隠すのが方針?」
「土方さん」
「何だ」
「うちのコーヒー、美味しいでしょ?思わずこんな早朝から飲みに通ってしまうくらい」
「……まぁ美味いのは否定しねえが」
「美味しいんですよ、うちのコーヒー。だからこそ、余計な情報を入れたくない。うちは人伝の口コミ戦略が全てなので」

――――――今朝買ったコーヒーが美味しかったから、明日も買ってみよう。

その話を聞いた人は、“自分も明日は買ってみよう”、と思うかもしれない。しかし翌日、その店が無い。一度話題はそこで立ち消えるが、次週ひょっこりとまた同じ場所に現れる。初めて買った人、偶然また出会えた人。そうやってまた同じ話題が細々と繰り返される。社交場でその話をすれば、別の場所で見たという人もいるだろう。そこでまた“噂”の種が芽吹く。そこで必要な視覚情報はキッチンカ―と紙コップのロゴマークのみ。それ以外は全て黒子の様に影を潜めなければ、本来伝えたい情報が薄れてしまう。

「――――つまり、視覚情報が邪魔ってわけか?」
「その通りです。“美味しい”って。そんなシンプルな感想をスタートにしてもらわないと困るんです」

うちの会社は、広告等を何一つ打っていない。現地へ赴き新規開拓していく。宇宙規模の広告を打てるほどの莫大な資金力を持っていながらそんな古い営業スタイルを貫いているのは、確かな実績の積み重ねがあるから。

「そもそもこの移動販売は布石で、宣伝目的でやってるんです」
「なるほどな。妙にコスパが良いと思っちゃあいたが」
「何カ所か転々としてばら撒く。そして口コミを広めてもらう。そこに付随した噂の尾ひれ背びれは、今後の販売方針の参考にします」
「その口コミやら噂が入って来るには、客と絡む必要があんだろ。聞いた話だと、そんな濃い接客してるとも思えねえが」

車内に入ったことのある土方さんはこのマジックミラーのことを知っている。それについて突っ込まれた際に、『素早さ重視だから』なんて説明をした気がする。そもそも彼を車内に引き込んだのは“溝鼠組の人の件で様子を見に来てくれた”、という根拠の無い自信があり、あまりキッチンカ―の前に立って話し込まれている所を他の客に見られたら困ると思ったからだ。あと、イケメンが長時間居座っていると目立つから。どちらも“視覚情報”となり今後の営業に支障が出ると思い、急遽車内に入ってもらったのだ。
まぁ、彼の言う『聞いた話』は噂として他の客の話を聞いた、という意味かもしれないが。

「本来なら、市場調査隊としてあと2,3人社員が派遣されるんですけど、地球なら地元だし勝手知ったるだろうって単身一人放り込まれたんですよ」
「宇宙規模の人事異動っつーのも大変だな」
「さすがに無茶振りだなぁと思いましたよ。そこで、市場調査と情報管理を兼ねて、お妙ちゃんを紹介してもらったんです」
「元々知り合いだったわけじゃねえのか?」
「えぇ。彼女はいわゆる……後輩?みたいな」
「後輩?」
「私も昔働いてたんです、“すまいる”で」
「……ほぉ」

驚いたわけでもなく、さほど興味の無さそうな相槌をうち、コーヒーを啜る。

「と言っても、そんなに長くはないですけど。近所のよしみで短期間お世話になってました」
「……近所ってこたぁ、」
「かぶき町に住んでました」

昔、お金が必要で働かせてもらっていたことがある。キャバクラは情報の集まる場所。市場調査の場としてはもってこいだ。そこで久しぶりに店長に電話をして、信用できそうな女の子を紹介してほしいと頼んだ結果、来てくれたのがお妙ちゃんだったというわけだ。
電話のみで直接挨拶に行けなくていなくて申し訳ないので、後日会いに行こうと思っている。店長元気かな。あれから生え際が後退したりしていないかな。今もサングラス掛けてるのかな。

「江戸出身とは聞いちゃいたが……そうか」

目を少し伏せてパチ、パチとゆっくり瞬きをした土方さん。一呼吸置いて、またコーヒーを啜る。

「つーか、今一人で全部回してんのか?相当なブラックじゃねえか」

不自然に話題がすり替わったような気がしたのは、彼の一連の仕草に少し違和感を感じたから。でも、私はそれに気付かないフリをする。

「まぁ、地球の労基法が適用されるわけでもないですから。それに朝の販売を終えたらあとは割と自由なんで……でも、この30日間無休ですね」
「……知己にも会えやしねえな、そりゃ」
「…………そうですね」
「…………そういや、次はいつだ?」

私の行間を読み取って、言葉を選んでいるかのような。そんな間のあとに、いつものお決まりのセリフが来た。これが飲み終わりの合図だ。

「実は、今日で一旦終わりなんです」
「そうなのか?」
「はい。明日から1週間程お休みです。その後は、週1、2回の営業になるかと思うんですけど……場所はまだ決まってなくて」

本当は、休みという名の情報整理だ。休み明けからは、店舗兼事務所での業務が中心となる。そしてこれまでの口コミを参考にして、販売場所も絞ることになる。

「なるほどな。……んじゃあ、こいつ渡しとく」
「……名刺、ですか?」

スッと懐から取り出して差し出してきたのは、黒い名刺。

――――――幕府特別武装警察 真選組 副長 土方十四郎

何も取り立てて新しい情報の無いその名刺に、少し戸惑いながら両手で受け取りジーッ、と見つめる。

「裏」
「……裏?」

土方さんの言葉に手もとの紙を裏返すと、11桁の数字。

「もし何かあったら使え」

その数字は彼の携帯電話の番号らしかった。仕事用なのかプライベート用なのかはわからないが、なんというか……、

「……なんかチャラい」
「ぶっ飛ばされてえのかテメエは」
「あ、いや、間違えました。手慣れてらっしゃる」
「……アホか」

はぁ、と呆れたように深いため息を付きながら持っていた紙コップを作業台の上に置いた。カタッ、と軽い音を鳴らすそれはコーヒーが空になっていることを知らせる。

「噂のせいで、無理やり顔見てやろうって奴も出てくるかもしれねえだろ。女一人で店やってんだ、使えるもんは使っとけ」

腕を組んで面倒くさそうに立ち上がりながらそう吐き捨て、出口の扉に手を掛けた。

「あ、待って下さい」
「あ?」
「……これ」

棚の中から急いで取り出したものを土方さんに差し出す。

「私の名刺です」

今後使用することになるので、大量に刷ってあるその内の一枚。社名、店舗兼事務所の住所、電話番号。私のフルネームと、会社用の携帯電話の番号も載っているもの。

「あぁ」

片手で受け取り、そのまま懐にその手をしまう。もう片方の手で扉を開けたが、降りることなくもう一度こちらを振り向いた。

「なぁ」
「はい」
「アンタ、万事屋とは知り合いだったりすんのか?」

その質問は、土方さんが彼と知り合いだという事と同義。
私がかぶき町に住んでいたと言ったから、単なる世間話程度の興味からなのか。何故彼がこんな事を聞いて来たのかはわからないが、ぐっ、と無意識に喉奥に力が入ってしまう。ふぅー、っと鼻からゆっくり詰まった息を吐き出してから言葉を紡ぐ。

「かぶき町、広いですからねぇ」
「……そうだな」

否定か肯定か、どちらと受け取ったのかはわからないがそれ以上何も聞いて来ない。車内から一歩踏み出し、ジャリっと地面を踏む音が響いた。

「ごちそうさん。またな」
「はい、また」

片手をひらひらと振りながら去っていく背中を、薄っすらと口角が上げながら見送った。ちょうど飲みやすい温度まで冷めたコーヒーに口をつけて、残りを全て飲み干す。それはまだほんのり温かくて、胸の奥底からじわり、じわり。熱が広がっていくような気がした。




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