Hello, My Loves

 マリンフォードにいた頃からそうだった。何度も何度も夢に見る。顔を覚えていない人、名前を覚えていない人、もうこの世にいない人、たくさんの人たち。何を言っているのかはわからないけれど、もらったそれは腕がどれだけ重くなろうとも、離してはいけないと思った。腕から落ちてしまいそうなそれを抱えて座り込んでいた。ずっとずっと二十年以上。
 笑い声が聞こえる。野を走る音が聞こえる。でも、私は立ち上がることができない。腕からそれを落とさないために。
 人は何かを言って首を傾げる。でも、私はわからない。言葉がわからない。だから、みんなはこの重い何かをどうしているのかが私にはわからない。喜怒哀楽という言葉があるけれど、私は楽しいことしか知らない。喜ぶことや哀しませることや怒らせることができないわけではない。ただ、私にそれがないだけ。
 ただ。
「お前はそれでいい」
 初めて聞こえた言葉。差し出されたそれは、私の腕には置かれなくて、手を動かせない私は大きな手の上にあるそれを口に入れた。その手は、私が全てを咀嚼するまで動かなかった。
 私はわからない。ただ、ひとつ。「私」はここにいたい、とそう思った。



 ポーラータング号はルーキーたちとともにシャボンディ諸島に辿り着いた。クルーたちは甲板に出て、浮き足立っていた。多くのクルーにとっては馴染みのない場所だが、アリアンスは何度か来たことがあった。幼い頃は大嫌いだったが、見聞色の覇気をある程度制御している今ならば別に何も思わない。
 ただ、島に差し掛かったときに、アリアンスは甲板でぽつりと言葉を漏らした。
「嫌な予感がする」
「億越えルーキーが集まっていることか?」
 アリアンスの言葉にすぐにそう返したのはローだ。アリアンスの勘は天から与えられた領域にあり、侮ることができないことは誰よりもローが理解している。
「それも関わっているけれど、本質は違う。手薄なんだ。海兵が」
 強い海賊がこの海軍本部に近いシャボンディ諸島に近づいてきたのに対して、海軍本部が何の対策も練らないなどということはほとんどない、とアリアンスは言い切れる。幼い頃から、マリンフォードからこの島々を通る海賊を見てきたのだ。そして、マリンフォードに海軍本部が置かれている意味を誰よりもよく理解している。
「ここはマリージョアに近い。これだけ海賊が集まっていて、海兵がこの数というのはおかしい」
 シャボンディ諸島はマリージョアに近く天竜人もよくやってくる。そんな島にハートの海賊団が把握しているだけで億越えのルーキーが十人以上集まる。それにしてはあまりにもシャボンディ諸島は静かだ。
「私は残るよ、ロー。不味そうになったら出る。ラッコを残せる?」
 見聞色の覇気について、アリアンス、ラッコ、ローの三人しか物にしておらず、序列もこの順番である。不穏なシャンボンディ諸島に停泊するのに、誰かは残らなければいけない。そして、不味い状況になった際に出なくてはいけないのは、ハートの海賊団の最大戦力。ローの持つ、特に海軍を警戒しなければならない状況下においては最強のカード。
 船に残るべきはラッコだ。
「問題ねぇ」
 ローは舌打ちすることもなく、ただそう答えた。期待に満ちた目を島々に向けながら。
 それを見たアリアンスは嫌な予感がした。
「あんまりはしゃがないでよ」
「俺に命令するな」
 どちらにしろ最終的には舌打ちはされる。アリアンスは不機嫌になったローを見ながら、自分の言ったことは意味がないことを理解し、それでも、まあいいか、と思った。



 船に残っていたアリアンスは、ラッコと二人でデッキのブラシがけをしていた。スワロー島のメンバーはこの船に思い入れがあり、船の手入れを疎かにしない。アリアンスもそれに倣って初期はよく船の手入れをしていたが、クルーが増えてからはあまり手を出さなくなった。クルーの健康を預かる身であるアリアンスはクルーが増えるにつれて忙しくなり、新参のクルーに任せるようになっていた。ただ、視界は開けている甲板にいた方が良いことはわかっていたため、暇潰しにラッコと二人でがしゃがしゃと甲板を磨いていた。
「アリアンス様、怖いです」
 アリアンスは怖いという感情はわからないが、理解はしている。
「そうか。ラッコにもわかるくらいになったなら、そろそろ、潜水の準備でもするかい?」
 先ほどから行われていることを何となく理解する知識と覇気があるアリアンスと違い、中途半端に覇気だけを持っているラッコ。ラッコにも海軍の知識は叩き込んでおいた方が良いのかもしれない、とアリアンスは思った。
 ラッコを操舵室に向かわせ、アリアンスは帆を畳み潜水の準備をして、クルーたちが帰ってくるのを待った。
「とりあえず、ちゃんと買い出しに行って帰って来た組は良いとして」
 第一陣は食料や燃料をしっかりと買ってきながら、何が起こったのかわからずに逃げるように戻ってきた。彼らに怪我もなく、アリアンスはすぐに物資を中に運び込むように指示して、甲板で待った。
 アリアンスが北の海で初めてこの船に乗り込んだときに、既に乗っていた最初のクルーたちを。ロー、ベポ、ペンギン、シャチ。戻ってきていないのはその四人。他のメンバーに聞けば、ヒューマンオークションに行っていたらしい。ヒューマンオークションの名前を聞いたアリアンスは嫌な記憶を思い出した。マリンフォード、それも海軍本部からほとんど外に出ることのないアリアンスに対し、周囲が良かれと思って連れてこられたシャボンディ諸島。
 アリアンスは嘗てシャボンディ諸島が嫌いだった理由を思い出した。
 しばらくすると、四人と一人は走って戻ってきた。そのまま船の中に入れて潜航する。操舵をラッコに任せ、アリアンスは船の中に入れてすぐに押し込んだ処置室で四人と一人を並べた。満身創痍に極めて近い状況の四人。
「何でこんなにボロボロなのさ」
 とりあえず、気になることはあったが、アリアンスは目の前にいる四人と一人にそう告げた。
 そして、面識のない一人を一瞥した。
「ジャンバールか」
 ローは近く不在になる。その際にアリアンスの代わりに指示出しができるクルー。申し分はない。
「帳消しだな」
 アリアンスは、予想外の収穫にローを揶揄うことはやめることにした。
「うるせぇ」
 悪態を吐かれるが、アリアンスに非はないし、別にアリアンスは自分に非があるなんて欠片も思わないので気にならない。非があったとしても気にならないので当然なのだが。
 全員命に別状もなさそうだったが、ローもボロボロだったので、とりあえず優先的にローの処置を行い、ローと二人で手分けして残るメンバーの処置をする。ローは手当てをしたとしても手元が普段よりも覚束ないが、いないよりはいた方がマシだということで、アリアンスは手伝わせた。
「海賊がたくさんいたのとボルサリーノっぽい人来たのと、あと、強い人がいたくらいのことはわかるけれど、結局何があったのさ」
 アリアンスはボルサリーノのは特段仲がよかったわけではないが、ボルサリーノも四歳で海軍本部で育てられていた子どもに全く構わないわけではなかったので、気配でなんとなく分かっていた。
 これがそれなりにアリアンスと遊んでいたクザンならばアリアンスもクザンだと言い切ることができただろう。昔は熱血漢だったらしいクザンだが、アリアンスと会ったときにはダラけきった正義を自称し、アリアンスとの遊びによく付き合った。アリアンスはハートの海賊団に入るまで雪遊びはしたことがなかったが、スケートができるこはそれ故である。
「やってきた大将は黄猿か?」
 ローはボルサリーノとは直接出会していないようだった。アリアンスもボルサリーノがいることよりも、海軍大将が突然やってきた理由と、知らない気配のする強い人の方が気になっていたため、ローの問いかけに、おそらく、とだけ返した。
「何があったの? モンキー・D・ルフィが世界貴族を殴ったの?」
 アリアンスは持っている情報の中で考えられることで最も可能性の高いものを挙げた。億越えのルーキーの中でアリアンスが注目しているのは二人だけだった。うち、一人はよく知っているため、厳密に言うと一人だけである。
「何故分かった?」
 ローはギロリとアリアンスに睨みをきかせた。アリアンスは、そういえば言っていなかった、と思い出す。
「ルフィの祖父は海軍中将。海軍の英雄と言われるガープだから。私はガープをよく知っているんだけど、ガープに似た海賊ならばやりかねないだろうと思って」
 アリアンスは時折帰ってくるガープから、ジャングルに突き落とされたり、砲弾を投げられるように訓練されたりしていた。共にいる時間は短かったが、シャボンディ諸島に連れて行かれたり、マリンフォードの町を歩いたり、それだけの時間でも、アリアンスがガープを理解するのは十分だった。
「そんなイカれ野郎が海軍本部にもいるのか?」
 ローはルフィの行動に随分興味を持ったらしい。
 アリアンス自身は、ガープがイカれているとはあまり思っていないが、海兵らしくはないとは思っていた。
「まあ、センゴクはぐちゃぐちゃ言っているけれど、実績あるからどうしようもないんだよね。海軍大将ではないからある程度の自由も約束される。楽しく海兵やるなら中将までで良いさ」
 「ポートガス・D・アリアンス中将」も二段級特進でもしない限り、中将止まりで構わないと思っていた。無辜の人々の命のための仕事ならいくらでもやるが、自業自得としか言えない人間のためにさく時間はない。アリアンスはガープによく似た。
「ガープは普通じゃないけど普通だ」
「どういう意味だ?」
「スループ船くらいある弾丸投げる非能力者の人間、普通だと思う?」
 アリアンスが弾丸を投げたのは一度きりである。ローは苦い記憶を思い出したのか沈黙した。
「それで、私の知らないであろう強い人は?」
「ロジャー海賊団副船長冥王レイリーだ。麦わら屋を助けた」
「へぇ、強い人は冥王レイリーか。話は聞いている。行った方がよかったのかどうか」
 アリアンスも知識くらいはあるが、ロジャー海賊団についてはセンゴクもガープも何故かアリアンスに話したがらなかったため、世間一般的に知られている情報しか「知らない」。
「アリアンス来たら収拾つかなくなっていたぞ」
 ペンギンは溜息を吐いた。随分と酷い目に遭ったと思っているらしい。
「私ははしゃいだローのストッパーだよ」
 普段はともかく、時折何かに取り憑かれたように前線に突っ込んでいくローを止めたり、置いてきぼりになったクルーに指示を出したり、作戦通りには動かないがアリアンスも仕事はしている。むしろ、海賊育ちのローの指示よりも、海兵として育ったアリアンスの方が指示は細かい。当然、あのラッコですら口には出さないが。
「誰かストッパーだ」
 シャチの処置をしながら、ローは声を荒らげた。ローの機嫌が下がっていく。それ自体はよくあるこたなので、ペンギンも涙目のシャチですら油断していた。
「キャプテン、ユースタス・キッドに中指立てていた」
 思い出したかのようにベポがアリアンスに報告する。ローの八つ当たりにも、アリアンスの自由すぎる行動にも巻き込まれないベポは、初期からのクルーであるのに関わらず、危機感が低い。二人に悪い意味で巻き込まれているシャチとペンギンはそんなことは絶対に言わない。
 アリアンスはルーキーは把握している。いくつか年下の南の海の海賊。
「ここ一年くらい行儀悪いよ、ロー」
 利口かはともかく、行儀だけは良いアリアンはそう言った。
「海賊が行儀悪くてないが悪い? 最近の悪い噂はほとんどお前のせいだろ、フランベルジュの悪魔が」
 ローが手にしていた包帯が乱暴に引っ張られ、シャチが呻き声を上げる。それを言われると何も言い返せないアリアンスだが、とりあえず何も悪くないシャチが割りを食っているのは如何なものかと思った。そもそも、最初に言い始めたのはベポだ。
 アリアンスは、ローが冷静沈着だとか、そんなことは欠片も思っていないので、今さらそれを言うこともしない。
「ベポ、あんまり余計なこと言わない方が」
「すんません」
「そんなに落ち込むなよ」
 ペンギンとのやり取りはいつと通りで、アリアンスは何も言わず、先ほどから感じている視線の先に目をやった。
「私はポートガス・D・アリアンス。南の海出身、海軍本部育ちの元海兵で医者だ。一応賞金額は一億を超えている、まあルーキーだ」
 北の海の海賊ジャンバールを相手に、アリアンスは久しぶりにその名の全てを口に出した。
「ポートガス?」
 ジャンバールが聞き返す。
「アリアンス、ポートガス・D・エースが処刑される」
 ローが口を開いた。アリアンスは目を見開いた。
「聞こえた」
 記憶を辿ると、確かにその声はした。ただ、アリアンスは気にも留めなかった。ただ、今は脳が、神経が、心臓がひっくり返りそうなほど回り続ける。体全体が熱を帯びていく。むしろ、今はその声しか聞こえない。それほどにも大きな声であり、騒めき。
 アリアンスは何故今までそれに気がつかなかったのかがわからなかった。無意識にノイズとして排除したとしても、大きすぎる音。
「そんなことになるなら、白ひげと海軍の全面戦争になる」
 妙に少ない海兵も、レイリーとボルサリーノが出てくるような事態なのに関わらず、クルー全員が無事に帰ってきていることにも説明がつく。
「何ですぐに処刑するんだろう」
 あまりにも処刑までの時間短すぎるし、マリンフォードで処刑が行われるなんてことはない。
______マリンフォードで処刑が行われないことに何でこんなに違和感があるんだ。
「白ひげ本人でもないんだ。黒ひげも燻っている。王下七武海だって信用できない。それを捕縛して、なぜすぐに?」
 思考に靄がかかっている。
「お前が他人にそこまで興味を持つのは珍しい」
 アリアンスを、下手すればアリアンス以上に理解しているローの何気ない言葉は、アリアンスの記憶を呼び水となった。
「そうか、他人じゃないのか」
 親戚だということは誰に聞いたのか。彼女が出産して何年が経過したのか。そして、ガープが産婆を連れてわざわざやってきたのは何故なのか。アリアンスは、ある名前が思い出せない。聞いたことはあることは覚えているのに関わらず。
「私、多分、重要なことを忘れている」
 意図して記憶を封印した。記憶を入れた箱を触らないような暗示がかかっていた。当然、そんなことができる人間は一人だけだ。
 アリアンス本人以外にはいない。
「エース。姉様と……」
______ゴールド・ロジャーが父親らしい行動をとっています。
______違う。おじさんの名前は、そうじゃない。ゴール・D・ロジャー。海賊王ゴール・D・ロジャー。だから、海兵が、ガープがやってきて、私は追い詰められて「最初のフランベルジュ」を手にした。
「センゴクは、時代を終わらせようとしている」
 大海賊時代を創ったのがロジャーとするならば、時代であったのはエドワード・ニューゲート。アリアンスはその「時代」しか知らない。
「急いで、ロー。世界が変わる。助けないと、救わないといけない」
「俺に……」
 アリアンスはその続きの言葉を言わせない。
 アリアンスは理由を知らない。アリアンスの虹彩に影が入り灰色に染まる。凪いだ眼にも揺れた眼にもなかった彩。覇気は漏れ出していないはずなのに関わらず、王だとわかる全てを見通す眼。靡く白衣、外科医が美しいと評する骨格は完全な形を創る。
「急げ。世界が動く。間に合わない」
 ローの目の前に立つアリアンスは「王」。アリアンスにはその自覚はない。雪崩れ込む情報はアリアンスの許容できるものを超えていた。
「どういうことだ」
「時代は終わるべきだけど、それなのに、救わないと。命を……」
 視えた世界は一週間後のマリンフォード。心なき王の始まりの地。ただ、その全ては脳には届かず、相反する思考が頭の中で衝突する。アリアンスは強烈な頭痛で座り込み頭を抱えた。口からは呻き声が漏れる。
「おいっ、アリアンス」
 アリアンスが気を失う直前に聞いたのは、ローの声だった。



 ポートガス・D・エース。ゴールド・ロジャー。
______違う。あの人は、ゴール・D・ロジャー。そして、世界政府に殺された私の世界。姉様。たった一人だった私の世界。ルージュ。私の世界は私を含めたたった三人と未だ見ぬあの子の四人だけだった。
 記憶が蘇る。ぽっかりと空洞になっていた何かが震え始める。南の海バテリラ。静かな島でアリアンスは育った。両親の記憶はないが、母代わりの姉様、ポートガス・D・ルージュがいた。たった二人の家族。そして、一時だけだったが、ゴール・D・ロジャーがやってきて、三人になった。海兵の声は恐ろしかったが、二人がアリアンスを守ってくれた。優しいルージュはアリアンスの世界そのものだったが、広い世界の冒険譚を聞かせてくれたロジャーもアリアンスは大好きだった。耳も目も良いせいで、子どもながら夢見ることのできなかったアリアンスに夢を与えたのはロジャーだった。アリアンスはロジャーから世界の広さを知った。
 ロジャーが去った後、今度はルージュに新しく宿った命と三人になった。ルージュのお腹の中の大切なものとアリアンスは話したことはない。ただ、時折お腹を触って、大きくなっていくのを楽しみにしていた。ルージュは、今度はアリアンスに守るものができた、と笑った。アリアンスは大好きな姉様のようにルージュの愛した子を守ろうと誓った。しかし、幸せ時間は長くは続かない。徐々にルージュは弱っていった。
 当時、三歳だったアリアンスは家事をするなどしてルージュを助けた。外に出られないルージュに代わり必要な物の買い出しもした。アリアンスは何でもできる器用な子どもだった。
 日々弱っていく唯一の存在のために、アリアンスは心を失うことにした。四歳の幼い心をなくしてしまえば。
______不安で助けてほしいと泣きたい気持ちも、我儘を言ってかまってもらいたい気持ちも、全部全部なくなって、姉様のためになるなら。
 あの日、アリアンスには泣いた記憶はない。ただ、泣きたい気持ちがなかったわけではない。泣きたかった。助けてもらいたかった。ただ、当時のアリアンスは誰よりも冷静でなくてはいけなかった。お湯を沸かし、熱湯で消毒した布を大量に用意した。たくさんの血液、粘膜。それから救い出し、布で鼻や口に入った血液を拭い、母体の処置もした。ルージュの言うとおりに行動するだけだったが、それが当時のアリアンスにとっては難しかった。助けてほしかった。ただ、苦しむルージュを前にしてそんなことは言えなかった。
 心を失っていくのと引き換えに、アリアンスの神経は冴えていった。まるでその刀のように、年齢と相応せずにただ冴えていった。外に出て人の声を聞いた。唯一だったルージュは唯一ではなくなり、アリアンスは世界を知っていった。研ぎ澄まされた神経は、それらの声を世界の声としてアリアンスに届けた。公平で正しくて冷徹な、世界の声。
 ルージュが抱きたがったから、アリアンスはルージュに抱かせた。ルージュは涙を浮かべながら幸せそうに子どもの顔を見ていた。
「ねぇ、アリアンス。この子の名前はポートガス・D・エース。もう、私もあの人もアリアンスとは一緒にいられないかもしれないけれど、エースとアリアンスはずっと一緒。たとえ離れていても繋がっているからね」
 アリアンスはエースを覗き込み、ルージュに綺麗に笑顔を向けて頷いた。アリアンスは四歳。世界に狙われた新生児と二人きり。
______私たちは生きていくことができるのかな。
 人の気配がした。悪意に反応して体が動いた。アリアンスはキッチンまで走っていき、キッチンから「フランベルジュ」を取り出した。そして、物陰から大きな男と数人の人間がルージュを囲んでいるのを確認した。アリアンスは手に持っていたそれをルージュの部屋の前に立てかけるとルージュに駆け寄った。ルージュはアリアンスに微笑むと、そのまま海の方に木漏れ日のような暖かな表情を向けた。
 それが最期だった。
______ルージュが死んだ。
 アリアンスは走って戻ると、最も弱そうな者にそれを向ける。産婆が悲鳴を上げ、アリアンスは背後から押さえつけられた。小さな身体でいて抵抗すると、油断していた男はアリアンスを取り逃す。
 最終的に抵抗の果てに二人がかりで取り押さえられたが、それでも抵抗を続けて手のひらを押しのけて顔を僅かに上げる。失われていく心が最後に視たのは極彩色。その背に描かれた正義の文字。全てが遅かった。
 力が湧き出るようにして溢れていき、ぐしゃりと視界が歪んだかのように人が倒れていく。アリアンスは体にかかった数倍の重さを押しのけて、「フランベルジュ」を唯一立っている男に突きつける。男を見上げると目を見開いていた。
 目の前で数百万人に一人の才能が開花したのだ。
______未来が見えるのに、私はいつだって手遅れだ。
 今のアリアンスならば、きっと、ポートガス・D・ルージュを生かすことができた。ルージュが普通に出産できるように海軍から守ることができた。
「姉様を殺したのは」
______世界だけじゃない。私を含めた世界。
 変わるのは世界。守らなくてはならなかった存在はアリアンスが忘れ去っているうちに死に至り、時代が終わる。それが正しい世界だった。ロジャーを知る男と、ロジャーの血を引く男が死ぬことよって新しい時代の門は開く。
_____エース。小さな私の世界に残された最後の子。



 世界の中心で、鬼の子と呼ばれた男が囁く。両親は当然のこと、他の人間も一所懸命繋いだ尊い命。
「愛してくれてありがとう」
 空虚だった心に響き渡るそれは、嘗てアリアンスの心を奪った生は、皮肉にもその死をもってアリアンスの心を呼び覚ます。アリアンスは愛を捨てた。一番最初に捨てたのは自己に対する愛。そして、愛を受け入れる心。人の命は四歳の子どもの小さな手には重すぎだ。ゆえに、アリアンスにとってのエースの誕生は、自身の愛の存在を否定しなければいけないほどに過酷なものだった。
 アリアンスが目を覚ますと、処置室で点滴に繋がれていた。アリアンスは点滴を外すと、処置室から甲板に向かって駆けた。未だ潜水中の甲板は開いていない。それでもわかる。
 聞きたくもなくても、見たくてもなくても見える強い記憶。白いひげから、白ひげ海賊団から、ガープから伝わるポートガス・D・エース。
 少し捻くれていて、でも、素直で人を惹きつける青年。姿はロジャーによく似ているのに、性格はロジャーよりもルージュに似ていた。血縁のあるルージュに見た目は似たが、どちらかというと他は血縁のないロジャーに似たアリアンスとは正反対だ。心ない言葉を投げかけられることもありながらも、強く生きていた。ルージュが命を、アリアンスが心を犠牲にしてこの世に生み出した愛されるべき子。
 小さくて柔らかくてくしゃくしゃで泣いていた子どもとは違う。
 世界が変わろうとしている。ぐらつく頭を抑えながら甲板に出るとまさに目の前で世界が変わろうとしていた。アリアンスは甲板から差し込む濁った光を頼りに前に進む。隣を影が抜けていく。
 声が聞こえた。
「俺は医者だ」
 世界の中心に船を浮かべ、堂々と立ち、叫んだ言葉はよく知られた己の名ではなくそれだった。聞き慣れた声は、いつもアリアンスを叱るその声は、その島唯一無二の存在であることを宣言した。
 この島には古今東西、海軍に海賊、入り乱れている。様々な思惑が入り混じる。命を奪い、奪うまではせずとも傷つけようとする島で、唯一命救わんとする存在。それがアリアンスの選んだキャプテン。
 アリアンスは当たり前のローの様子に目を見開く。アリアンスは今医者であると、この世界の中心で堂々と名乗れるだろうか。
______姉様は冷たくなっていった。
 アリアンスという医者は、最初の仕事で最も大切だった人間を救えなかった。何の異常もないはずの心臓がキリキリと痛む。世界から色が消え、灰色に変わっていった刻を思い出す。
 世界を許せなかった。ただ、アリアンスは世界に負けた。王の器を以ってしても海軍の英雄には勝てなかった。折角教えてもらった愛も自由も夢も、全て失ってしまった。
 体は重く、思考は混濁し、動悸が酷くても。
「麦わらの、ルフィ」
 いつものようには体が動かなかった。飛んでくる麦わら帽子。知らないはずの物。しかし、アリアンスの眼はしっかりとそれを捉えた。アリアンス、と自分を呼ぶ声。我に帰る。救わなくてはいけない、と世界が叫ぶ。
______君は望まれて愛されて生まれてきたんだよ。

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