Hello, My Loves

 ローは、心ここに在らずといった状態のアリアンスと共に一通りの処置を終えた後、アリアンスが消えたことを確認した。その日の夜に食事に出てこなかったことから、同室のクルーに話を聞いたが、どうやら部屋にはいないらしい。入り浸っているローの部屋にも当然いない。処置室にもいなかった。それどころか、誰一人処置室を去った後のアリアンスの姿を見ていなかった。ただ、潜水中の船内から出ていることは考えられないため、船内の何処かにいることは確実だった。クルー総出で捜索してもよかったが、嫌な予感がしたローは捜索を提案するクルーの申し出を断った。ただでさえ、いきなり倒れて点滴で命を繋いでいた状況だったのだ。緊急事態を前にローもアリアンスとほとんど会話はしなかったが、当然放っておくわけにはいかなかった。
 一人で探し回り、使われていない狭い倉庫を乱暴に開けると、アリアンスはそこにいた。
 アリアンスはしゃがみ込み、目を塞ぎ耳を塞いでいた。近付いてもローの気配に気が付かない。アリアンス、と声をかけて腕を掴むと、初めてアリアンスは動いた。見開いた目には隈ができ、目の焦点は合っていない。
「断片的な情報が繋がって混乱しているだけ」
 ゆらゆらと揺れる眼。首を傾げて掠れた声を出す。
 アリアンスが記憶喪失に気がつかなかったのは消失した記憶は断片的であり、時系列としてはしっかりと成立していたからだ。そうなれば、失った記憶を取り戻すのも容易であるように思える。しかし、実際は違う。アリアンスが記憶を失っていたのは必然。ローはアリアンスが必然の世界で生きていることは頭では理解していた。
「お前が忘れていた記憶はなんだ」
 可能な限り静かに問いかける。責めたところで、混乱を招くだけだ。
 ローは前々からアリアンスが断片的に記憶を取り戻していることには気がついていた。まるで、本来亡き心を守るかのように、本来ならば一番最初に思い出すことを思い出さず、必要なときに思い出す。自覚の有無はローにはわからなかったが、ローはアリアンスが記憶を失っていることには気がついていた。
「話すよ、全てが繋がった」
 まるで身体中の痛みに耐えるような苦しい笑顔を浮かべて、アリアンスは南の海、バテリラの日々を語り始めた。



 二十年前、南の海バテリラで海兵を倒した覇王色の覇気。倒れた海兵たちも、その理由も、当時のアリアンスは気に留めなかった。体から湧き上がる力の名前をそのときのアリアンスは知らなかった。ただ、そのまま「フランベルジュ」を突き立てて、大きな体を見上げる。苛烈な炎は消え失せて、淡々と、その平凡な虹彩の眼に王者の彩を浮かべながら。
「どうした、そのパン切り包丁は」
「包丁ならすぐに死ぬ。でも、苦しんでもらわないと」
 望みは死ではなく制裁。痛みの理解できない民へ下すべきもの。
「世界が、ルージュを殺した」
 当時のアリアンスの見聞色の補足範囲は今ほどは大きくはなく、精度も高くはなかった。バテリラからは出たことがなく、接する人も多くはない。そのため、アリアンスの世界は酷く狭かった。それでも、アリアンスは世界が唯一の存在を追い詰めたことを理解していた。
「だから」
 アリアンスは体が乗っ取られるような気がした。王としての力が増していく。
「私が変える」
 しかし、その時に世界が反転した。
「ガキ、お前はわしには敵わない」
 いつの間にか、アリアンスの手からフランベルジュは消え去る。ただ、痛みも何もなかった。その男はアリアンスに危害を加えなければアリアンスを止められないほど弱くはなかった。まるでただの子どもを抱き上げるかのように、アリアンスを抱き上げた。
 それだけの差があるということ。この男の言葉は紛れもない事実だった。
「ついて来い。強くなれ、ガキ。さすれば、市民を守れる」
「あの子は、あの……」
 名前が出てこない。教えてもらったはずの大切な名前が出てこない。アリアンスは戸惑いながら、その白い将校服に包まれた。
「ルージュのガキはわしが保護する。わしはお前の敵じゃない」
 その言葉をアリアンスは信じた。大きくて暖かい体は______を思い起こすもので、アリアンスは甘えるようにその体に手を添えた。
「どこにいくの」
 その顔を見上げて、小首を傾げてそう尋ねる。すると、毒気を抜かれたかのような顔をされて、アリアンスはさらに首を傾げる。生き延びなければいけない。敵意を見せてはいけない。本来、世界の中の己は無敵だと感じ、我儘に我儘を重ね、忖度など知らないはずの四歳はいない。そこにいるのは、力及ばぬ敵に囲まれ、敵の懐に入り込むことによって虎視眈々と力をつけることを即座に選んだ幼き王の器。
「マリンフォードじゃ。海軍本部。そこに、最近面倒を見ているガキが独り立ちして寂しがっておるわしの同僚がいる。面倒を見てもらえ」
 視界が変わっていく。気がつけば、アリアンスの目の前には「姉様」がいた。もう二度と微笑んでくれないアリアンスの唯一の存在。
「もう死んでおるが、最後に別れを告げられるか」
 アリアンスは目を丸くした。何を言えば良いのか、その時のアリアンスには既にわからなかった。生きていればこの頃ならば少しは変わったのかもしれない。ただ、アリアンスの知るポートガス・D・ルージュは遠き空で熱い炎を燃やし暖かな光だけを与える生きた存在。
「さようなら、ルージュ」
 小さなアリアンスはもういない。暖かな日差しもこの世にはない。
「ガキ、名前はなんじゃ」
 そこにいるのは心なき王の器。
「アリアンス。ポートガス・D・アリアンス。ガープちゅうしょう、名前はガープでいいの?」
 アリアンスが見聞色の覇気が当たり前のものではないこと、自身が生まれながらに超越したそれを持っていることを理解し、人と言葉を選ぶことができるようになるのはまだ先のこと。驚くガープにアリアンスは首を傾げた。
 ただ、自分が恐ろしいものであると思われるということだけはその時にアリアンスは気がついていた。



 初めての船旅はアリアンスには長く感じられた。必要最低限の人数だったためか船は閑散としており、手の空いている海兵はほとんどいなかった。アリアンスも食事の準備や洗濯など、大きな力を使わない仕事はできたので、それを手伝いながら、海兵たちとともに食事をとり、ガープと一緒に寝た。
 生まれたばかりの小さな子どもは産婆と二人でいるようで、アリアンスが会うことはなかった。
「アリアンス、エースのことは他言無用じゃ。お前がエースと関わりがあることも忘れろ」
「エースって誰?」
 アリアンスは首を傾げる。
「見たじゃろう。ルージュの息子だ」
 アリアンスは無表情のまま、姉様の、とだけ呟くと無邪気な笑みを浮かべてガープに抱きついた。アリアンスはガープを見上げる。
「何でそんな顔をするの」
 アリアンスは小首を傾げる。
「だって、私が覚えていたら困るよね」
 壊れてしまった心。人の心を捉える見聞色の覇気。その身に余る王の器。どこにでもいるような色彩を持ちながら人を魅了する愛らしい姿。幼い子どもはそれを自覚している。
 だから、賢い子供は心を亡くした。
「アリアンス……」
 ガープに強く抱きしめられ、アリアンスはきょとんとした顔をした。
「ここはどこ?」
 道中、停泊した島が単純に補給のために立ち寄る島ではないことをアリアンスはすぐに悟った。船に戻ってきたガープにそう尋ねる。
「東の海。わしの故郷じゃ」
 海の話をよく聞いていたアリアンスは、世界の海の名前は知っていた。自身が南の海にいたことも知っていた。そして、東の海も聞き覚えがあった。聞き覚えがあるだけで、その理由は忘れてしまっていたが。
「ここはまだいいけど、あっちの方は本当に嫌」
 フーシャ村。吹き抜ける風で靡く白い衣の裾を引き、アリアンスはある方向を指さす。その先にあるのはゴア王国の中心だが、当時のアリアンスは知らない。



 マリンフォードに近づくとアリアンスの体調は一気に悪化したように見えた。実際は徐々に悪化していたのだが、人に弱みを見せたがらない野生動物のような子どもは、限界になるまで体調が悪いことを悟らせなかった。
 アリアンスは食事もとれず、寝ることもできず、目と耳を塞ぎ毛布にくるまっていた。ただ、近くにずっとガープがいて体を撫でていたことはわかっていた。
「ガープ、偉い人なんだから、私の近くにいなくていいよ」
 アリアンスは何とか言葉を絞り出す。
「ガキが難しいことを考えるな」
 しかし、その言葉をガープは一蹴した。
 アリアンスの体調はマリンフォードについても治らず、ガープに抱かれて海軍本部の中に入っていった。
「センゴク。よく注意して育てろ。お前と同じ、王の素質を持つガキじゃ」
 アリアンスは只者ではない目の前の気配を前に、体を捩るようにして地面に降りた。
「私はポートガス・D・アリアンス」
 小さな空間にいたのはガープとセンゴクのみ。アリアンスは圧倒的に強い二人を前にして、頭痛が少しは弱くなっていた。
「それは王の器。そのまま育てれば______」
「それはそうと、随分と顔色が悪い」
「見聞色の覇気がまだ上手く使いこなせていない上に、バテリラから出たことがない」
 二人の会話をぼんやりと聞いていたアリアンスは、その全てを記憶していた。
「わしはお主を置いていなくてはならないことがある。センゴクを頼れ。良いな?」
 アリアンスはガープを見上げる。そして、センゴクを見た。センゴクは突然の同期の傍若無人ぶりに、怒りで歯を噛み締め、子どもが見れば泣き出しそうな顔をしていた。しかし、アリアンスはトコトコと歩いて近づく。狼狽えるセンゴクに、アリアンスは子供特有の丸い眼を細めて屈託のない愛らしい笑みを浮かべた。
「私はアリアンス。ポートガス・D・アリアンス。よろしく、センゴク」
 人に愛されるために生まれたような造形の子どもに笑顔を浮かべられ、センゴクも表情が崩れる。
 センゴクは優秀で愛らしい見目の子どもを本当に可愛がった。多忙な身なのに関わらず、側に置いた。アリアンスもやんちゃな子どもだったが、センゴクが本当に忙しいときには何もせず、他の海兵に上手く遊んでもらうなどしていた。また、図書館で本を読んだり、海兵たちの訓練を見たり、参加したりして過ごした。海兵たちも何れそれが海軍の脅威になるとは知らずに、才智溢れる子どもに惜しみなく知識と技術を与えた。



 いつも通り海兵たちに遊んでもらっていたアリアンスは、センゴクに呼ばれた。パタパタとセンゴクのいる部屋に戻ると、そこにはセンゴクと同じように大柄な男がいた。しかし、随分と若い。
 アリアンスは臆することなく、子ども特有の大きな目をパチパチさせながら見上げた。アリアンスの子供特有の大きな目に映るのは、金色の髪の随分と生まれの良さそうな青年。
「お前の兄だ、アリアンス」
「兄様?」
 その言葉に、青年は僅かに複雑な顔をしたが、満面のすぐに笑みを浮かべる。
「可愛いじゃないですか」
 そう言って、アリアンスの脇腹を大きな手で触り、自身と目が合うように持ち上げた。アリアンスは何も抵抗をせずに青年を視た。
「気をつけろ。やんちゃ盛りだ。もう海兵が何人もやられとる」
 センゴクの言葉に、子どもなんて本来そんなものですよ、と青年が笑う。
「私はアリアンス。ポートガス・D・アリアンス」
 青年は目を見開いた。そして、躓きそうになる。アリアンスは体を捻って青年から離れると、青年はバタンという音とともに見事に地面とぶつかった。
「ロシナンテ」
 アリアンスは青年の目の前まで歩いていくと、地に這いつくばる青年を見下ろしてそう言った。
「ロシナンテ、よろしく」
 目をパチパチとさせるロシナンテ。額に手をやり溜息をつくセンゴク。アリアンスはロシナンテに手を差し伸べる。
 かくして、どちらが上なのかわからない関係は成立した。



 べちゃりと派手な音を立ててロシナンテは崩れ落ちた。アリアンスはロシナンテのドジをとても上手く誘う。むしろ、先が見えるようになってきたアリアンスにとって、ロシナンテは絶好のカモだ。
「ロシナンテ、アリアンスは強いが海軍将校の意地を見せてくれ」
 悪戯をしたアリアンスをセンゴクの部屋まで追い込んだところまでは良かったが、目の前でしてやられる姿を見て、センゴクが何も思わないわけではない。
「センゴクさんだって時々やられているじゃないですか」
 油断していると、センゴク相手ですら、アリアンスは出し抜いてくる。天性の戦闘のセンスをアリアンスは持っていた。
 センゴクは埃を払いながら立ち上がるロシナンテに溜息をつき、音なく扉の方へ向かったアリアンスを睨みつけた。
「アリアンス、逃げるな」
 アリアンスは命じたことを聞かないような子どもではない。逃げ出すのを諦めて、とことこと戻ってきた。聞き分けのない子どもならば、すぐに放り出していた。そうではないから留めおくことしかできない。アリアンスはその引かれた一線を決して越えず、そのくせギリギリを攻めるようにして走る。
 まるで、センゴクたちの意図を全て理解しているかのように。
「この身体能力で、パラミシア系やゾオン系の悪魔の身の能力があれば恐ろしいですね」
 アリアンスを捕まえ、素直に捕まったアリアンスの頬を伸ばしながら、ロシナンテは言った。
 頭脳と身体能力を生かすのならば、パラミシア系やゾオン系の能力は適している。センゴクもロシナンテも悪魔の実の能力者。
 アリアンスはロシナンテの手を払うように首をふるふると横に振った。
「私泳ぐの好きだから、悪魔の実は嫌」
 海軍本部に来てから、アリアンスは驚くべき速さで知識を身につけていった。確かに、能力はとても魅力的なものだが、それゆえに海軍も対抗策を持っている。そして、この広い海において泳ぐことができるというのは、身体能力が高い者にとってはその能力を殺す場面に出会さないということである。
 悪魔の実の能力がなくとも、脅威になることは、少しずつ頭角を現してきた赤髪が証明している。
「私は王の力だけでいい」
 アリアンスと初めて会った日にガープに告げられた。己と同じ覇王色の覇気の持ち主であり、そして、放っておけば脅威になる、と。



 ロシナンテは最後の任務につくまでの間は頻繁に海軍本部に顔を出した。そもそも、この海軍本部自体がロシナンテの故郷と言える場所。久しぶりに戻り、報告を終えて馴染みの顔に挨拶をして歩いているが、すぐにそれを察知して出てくるアリアンスがいない。ロシナンテは不思議に思い、アリアンスがよくいる場所を探したが、姿が見えない。
 夕食時には食堂に来るだろうなどと思っていると、周囲が騒がしくなった。行き交う声の中から、「アリアンス」という単語が聞こえる。
「おい、アリアンスがどうしたって?」
「こいつがアリアンスちゃんと、あまり仲良くしていない海兵たちが男子トイレに入っていくのを見かけたらしくて」
 ロシナンテは嫌な予感がした。
「案内しろ」
 その言葉に怒気ご漏れていたのか、海兵たちは縮こまるようにして、返事をすると慌てた様子でロシナンテを案内した。
 そこにいたのは、下着も全て剥ぎ取られたアリアンス。そして、不快感しかない異臭。普段は綺麗に整えられている髪がべちゃりと濡れていて、アリアンスは抵抗もせずに穢れた床に座っている。アリアンス自身が何をされているのかわからないかのように普段通りの表情をしていることだけが救いだった。
「アリアンス、大丈夫か」
 アリアンスに駆け寄るが、アリアンスは黙って己を穢した犯人たちに指を向けた。ロシナンテは海兵としてすべきことを思い出し、体が固まっている海兵たちを睨みつけた。
「おい、お前、アリアンスに何をした」
 首謀と思われる人間の胸倉を掴んだ。アリアンスにとっては優しい兄様でも、ロシナンテは決して気が長い方ではないし、すぐに手が出る方だ。
 彼らは、アリアンスの養父にガープをつけた理由を理解していない。見目麗しい子どもに良からぬことを考える海兵がいることくらいは想定の範囲内だった。
 それにしても、何故誰も逃げようとしないのか、と不審に思う程度に冷静になったところで、ロシナンテは空気がビリビリと痺れていることに気がついた。
 辺りに充満する僅かな覇気。
「ロシナンテ、私、乱暴は嫌いだよ。「怖い」んだ。だから、やめてよ」
 その主は微笑んだ。まるで言葉と正反対のことをしながら。ロシナンテは、立ち竦むことしかできない海兵たちに、着いてこい、と一喝した。
「アリアンス、どういうことだ。お前なら」
 当初の想定とは異なり、アリアンスは良からぬことを考える程度の海兵ならば、己の力で対処することが可能だ。たとえ、己が敵わない相手だろうとも、上手く他の海兵を利用して対処できる。
 漏れ出している覇気は、下手な将校ならば簡単に自由を奪うことができる。後ろ盾を用意したものの、むしろアリアンスを含めて誰かの後ろ盾が可能な程度に、アリアンスは海軍本部で力を持っている。
 そのような力の均衡やアリアンスの特殊性を理解できない輩もいるのでこのようなことが起きるのだが。
「これ、監査局に報告するよね。部隊は拘束。今なら部屋を調査する大義名分ができた」
 アリアンスはロシナンテにしか聞こえないように囁いた。
 監査局。その言葉でようやくロシナンテはアリアンスの意図に気がついた。アリアンスは最初からわざと被害者になったのだ。明確な処分理由を一つ作るために。
 アリアンスは淡々と言葉を紡ぐ。ただ、不快な白濁をそのままにしているアリアンスをロシナンテは見ていられなかった。心のないアリアンスが何とも思っていないことはわかっていた。ただ、見ていられなかった。
「綺麗にしなくていいよ。証拠だからそのままでいい。ただ、センゴクのところよりも監査局の方が先だよ、兄様」
 しかし、ロシナンテの手をアリアンスは振り払う。ロシナンテの優しさなどアリアンスにとっては優先すべきことではなかった。それがわかっていても、ロシナンテにはどうすることもできない。アリアンスをそのまま保存して、加害者を連れて監査局に向かう。
 監査局にいたのは、海に出ることの多いロシナンテとは異なり、海軍本部にいることの多い監査局員。監査局員は身体能力が低い者が多いが、彼は違う。強いが監査局に拘る変わり者。アリアンスは彼と仲が良かった。
 監査局員は海兵たちを別室に移動させると、アリアンスの姿を一通り記録した。
「幼児性虐待。部隊のメンバーはロシナンテ少佐からの証言。ここからは私の仕事だ。いやいや、部屋に監査に入りたかったんだけど、きっかけがなくてね」
「そのために、アリアンスを利用したのか」
 己とは違い、全く動じない監査局員にロシナンテは怒りをあらわにした。アリアンスの姿を見ても、僅かに目を丸くするだけだった監査局員。アリアンスは全く気にしていないが、ロシナンテはその態度が気に食わなかった。
「さてさて、されたのはどちらなのか」
 アリアンス同様、センゴクもこの監査局員を気に入っていたが、ロシナンテはこの監査局員の裏のある笑みが嫌いだった。今回だって、アリアンスを唆したのだろう、とそう思っていた。しかし、監査局員の言葉をアリアンスは否定しない。
「アリアンスちゃん、助かったよ」
「仕事はちゃんとしてね」
 それだけ言うと、アリアンスは監査局内のシャワー室に走っていった。
「アリアンス、着替えは持ってくるからな」
「監査局には着替えあるからいいよ」
 声だけが聞こえた。ロシナンテは目を丸くする。アリアンスはあまり共用のシャワーを使わないように言われているため、信頼のおける人間のところでシャワーを借りている。ロシナンテがいるときには、ロシナンテとともに共用のシャワー室を使うことがあるが、多くの場合はセンゴクの部屋のものを使っていた。
「最近は君がなかなか帰ってこないのが寂しいのか居着いてしまってね。特に迷惑はないから構わないんだけど」
 シャワーの音が聞こえる。その程度ではロシナンテの不信感が拭えないとわかったのか、監査局員は言葉を続ける。
「センゴクさんにも頼まれているんだよ。最近アリアンスちゃんの周りの雲行きが怪しくてね」
「どういうことだ?」
 ロシナンテの知るアリアンスは、心は欠けているが、決して自らが孤立するような振る舞いはしない要領の良い子どもだ。恐ろしいほどに賢く、強い。
「アリアンスちゃんは特別だ。海軍の中では、自分の子息を海軍本部に連れてきたいが、そうはいかない連中もたくさんいる」
 アリアンスに深く関われば、アリアンスがまだ大人しくしているのは海軍本部の保有する武力のせいであることは察することができる。それは、海軍本部にいるからこそ効力を発揮する。軍属であれば他の場所でも構わないだろうが、基地どころか、孤児院に預けられるような子どもではない。だからこそ、ガープが養子にしたのだ。
 しかし、そのガープも海兵。アリアンスを海軍本部で育てることが正義のためであることを知らない者は多い。ロシナンテとて説明されればわかる。ただ、それでも納得がいかなかった。
「別に彼らが特別邪悪なわけではないさ。海軍全体に燻るものが噴出した結果が彼らというだけ」
「だから、あいつらに怒りを感じないのが普通だと言いたいのか」
 ロシナンテは監査局員の胸倉を掴む。ロシナンテが怒りは今回の海兵たちに対するものもあるが、その所業を受け入れ、全てを分かったかのように振る舞う監査局員とアリアンスにも向けられている。ロシナンテはアリアンスが何も感じないことは頭では理解している。それでも、心が受け入れられないのだ。しかし、監査局員は全てを諦め受け入れている。ロシナンテにはそのように見えた。
「君の怒りは正しい。だから、落ち着いてくれ、ロシナンテ少佐。彼らには正当な裁きが与えられる」
 だから、ここに連れてきたんだよ、と監査局員は続けた。
「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪」
 脱衣所からアリアンスの声が聞こえた。おや、と監査局員が目を細める。
「動機も邪念もないだろうけどね。人の命の価値も考えずに、ただカリスマに惹かれて人殺しをするならず者たちは多い」
 ロシナンテが海軍本部を離れ、戻ってくるたびにアリアンスの言葉は冴えていく。それだけではない。言っていることは正反対であったとしても、その語り方や冷静さ、否、言葉にできない何かはロシナンテの兄を彷彿とさせるようになっていった。
「だから、正当な裁きを受ける。そして、裁きを下す者は冷静でなくてはいけない」
 簡素な服に濡れた髪をタオルで拭きながらアリアンスが出てきた。見た目だけならばただの愛らしい子ども。
「彼らには家族もいる。海に沈めた方がよかったのかい、兄様」
 アリアンスは首を傾げる。
 幼い頃からロシナンテの兄は家族には優しかった。非情な決断もしたが、母と自分に対しては本当に優しかった。海兵たちもアリアンスにとっては家族同然。兄は家族に情けをかける。ただ、アリアンスは違う。
 アリアンスは冷徹だ。それを分かって監査局員はアリアンスにとって都合の良い駒になったのだ。アリアンスが非道な行いをせずに済むように、アリアンスに何も求めず、アリアンスに望まれたことをなす。それを理解した瞬間、ロシナンテは世界が真っ暗になった。幼い子どもに対して向けるべき感情が見つからなかった。
 膝から崩れ落ちそうになったロシナンテを監査局員は見やり、アリアンスを呼んだ。
「アリアンスちゃん」
 そして、アリアンスの手に持っていたタオルを受け取るとアリアンスを膝の上に乗せて、髪を吹き上げながらアリアンスに告げた。
「ロシナンテ少佐の怒りの意味を考えて、大切にしなさい」
 利口なアリアンスは意味は分かっていなかったが、うん、と笑顔で返事をした。全てを理解していた監査局員は諦めかたのように笑い、そのままアリアンスをロシナンテに渡した。
「ロシナンテ少佐、君の言葉はいつか届くかもしれない。その希望がなくならないと証明されない限り、決して意味のないことではないよ」
 ロシナンテはアリアンスをそのまま抱きしめると、ロシナンテを安心させたいのかにっこりと笑った。しかし、すぐにその笑顔がロシナンテの望みではないことがわかり、きょとんと首を傾げる。そして、助けを求めるかのように監査局員の顔を見て、そして、困ったような笑みを見てから、ロシナンテの頭を撫でた。
「いつか……わかってくれよ……」
 アリアンスは何も答えず、ロシナンテに抱きしめられた。



 ロシナンテが死んで、涙を流すセンゴクに対して、アリアンスは涙一つ流さず、感情的な言葉一つ言わなかった。その話を聞いたガープは、やはり変わらなんだか、と溜息をついた。
 アリアンスが医者になりたいと言うと、ガープは賛同した。ただ、センゴクは海兵にすると言った。ガープはアリアンスが海兵になるのに十分な訓練を施していたが、アリアンスが海兵になることには反対した。
「迷えぬ心を持たない者に人を殺す武器と大義名分を与えてはならん」
 センゴクにガープはそう言い放った。
 アリアンスはそれを目の前で言われようとも、ガープとセンゴクが目の前で良い争おうとも何も感じなかった。ただ、決着がつかないことだけは分かっていたので、早々に間に入った。
 そして、アリアンスは間をとって軍医になることにした。ただ、センゴクはガープに黙ってアリアンスに二重の階級を与えた。類稀なる覇気と戦闘力はさることながら、センゴクが重視したのはアリアンスの戦術。最適解を選ぶ海軍将校に相応しいと判断した。北の海に渦巻く糸とジェルマ。四つの海の中ではある意味最も危険で、アリアンスと縁のない海。
 ポートガス・D・アリアンス中将が配属された北の海のその島は密かに海軍基地相当の練度を誇ることとなる。そして、四つの海で最も絡まった糸は炎揺らめく王剣によって斬られていく。しかし、運命の糸は奇跡的に繋がる。
 中将非番の折にやってきた海賊は故に死を免れ、心亡き王の器はまるで空いた何かを埋めるかのように心を冠した海賊団に惹かれていった。



 アリアンスは全てを話し終えた。ローとは対象的な半生だが、ローにはアリアンスが楽な半生を送ったとは思えなかった。それは比較するべきものではない。たとえ、衣食住が補償されていようとも、誰かに愛されていようとも、アリアンスが苦しいと思えばそれが真実なのだ。
 ローは自らが天才に位置にいながらも、生まれながらの天才ではないことは知っていた。才能に翻弄されるほどではなかった。
 ローが優秀ではなければ、アリアンスを妬んだだろうが、アリアンスのその押し殺した心の形を見ることができる程度にはローはアリアンスの近くにいた。アリアンスの心に寄り添える程度にはローは優れていたが、アリアンスほど天には愛されていなかった。
 だからこそ、ローはアリアンスのそのままの感情を真実として受け入れる。
「もういい。寝ろ」
 涙一つ流さずに苦しそうにしている姿は見ていられなかった。手元にあった薬と水を出すと、咳き込みながら呑み込んだ。そのまま体を横にする。倉庫は決して快適とは言えないが、人が多いところよりはまだ良い。気休めにもならないのに関わらず、掌で目を隠してやると、表情が僅かに柔らかくなったような気がした。ローはそう思いたかった。
 アリアンスをそのままに、夕食の席に出ると、向かい側にシャチとペンギン、隣にベポが座った。
「キャプテン、アリアンスは?」
 真っ先に尋ねてきたのは、アリアンスと仲が良いベポではなく、よく周囲の空気を察知できるペンギンだった。夕食時にアリアンスと時間が被らないこともあるのに関わらず、ペンギンはローの雰囲気だけでアリアンスの異変に気が付いた。新参者のクルーから表情がわかりづらいと言われることもあるローだが、長い付き合いの仲間には隠し事はできない。
「寝ている。疲れているから起こすなよ」
「しばらく調子悪いんだろ。飯食わねぇと」
 シャチは栄養の心配をする。初期からいるメンバーでもシャチは一番食い気があり、拘りのないアリアンスも食事にはアリアンスにしては異常に執着する。とはいえ、そういったときに迷惑を被るのはペンギンだが、シャチがアリアンスの食事について言及するのもシャチらしいとローは思った。
「しばらくは持つ。これ以上続くようならば点滴だが、今は他の患者が優先だ」
 ベポが心配そうにローを見上げる。ローは溜息を吐いて、アリアンスだから大丈夫だ、と答えてやる。アリアンスの体調不良などよくあることなのに関わらず、ベポは毎回のように心配する。合理主義のローでは考えられないが、そんな己にないものを持っているベポを放っておけないのがローである。それはアリアンスも同じことだとローも思っていた。
「そういえば、ラッコも物凄く体調悪そうでしたけれど、アリアンスが無理ならキャプテン診察できますかね」
 ローはペンギンの言葉で、ようやく冴えた見聞色の覇気の持ち主、アリアンスの代役の一部を担える存在を思い出した。アリアンスが頂上戦争の影響を受けて強い思考をばら撒いている状態だ。アリアンスと繋がりが深い上に強い見聞色の覇気を持つラッコが無事なはずはない。
「ラッコの部屋に案内しろ」
 ローは処置室で薬を解る範囲で掴み取ると、ラッコの処方箋を棚から引っこ抜き、水をシャチとペンギンに用意させてラッコの部屋に走った。たとえアリアンスを崇拝していたとしても、ローにとってはむしろアリアンスよりもよく指示を聞き、また、有能な仲間である。
 ラッコの部屋は相部屋だが、誰もいなかった。毛布の塊が転がっていて、それがラッコであることをローはすぐに悟った。
 毛布が動き、キャプテン、と弱々しい声が聞こえ、脂汗をかいた真っ青な顔が毛布から出てくる。ローを前に何とか体を動かして、壁にもたれかかっているが、息は荒く酷く消耗していることがわかった。
 ラッコは完全にアリアンスの感情に当てられていた。アリアンスのような超人的な見聞色の覇気はないものの、人の感情や位置を察知することに長けているのだ。この狭い潜水艇において、影響を受けないはずがない。
 アリアンスが自身の代わりにソナーの役割を与えるくらいだ。ラッコは視点の合わない眼でローを見上げる。
 悪化している、とシャチが呟く。ローはラッコのカルテを一瞥すると、予めペンギンに用意させておいたぬるま湯を受け取った。薬は複数種類持ってきてある。アリアンスはこれまでラッコを薬物治療なしでなんとかコントロールしていたようだったが、今は不可能だ。たとえ、アリアンスだとしても。
「ラッコ、聞こえるか」
「申し訳ございません、キャプテン」
 声を出すのも苦しいだろうに、絞り出すような掠れ声で謝ってくるのが、彼の生真面目さを表している。アリアンスを盲信しているが、生来の彼の気質は柔軟であり、アリアンスと異なりとても常識的だ。
 それが、アリアンスの代わりにはなれなかった理由の一つではあるが。
「構わねぇ。お前がわからないはずがないが、悪いのはアリアンスだ。アリアンスの言う通りに俺に従え」
「ええ、ありがとうございます、キャプテン」
 ペンギンの介助で、何とかラッコは薬を飲み込んだ。
「薬、多めに置いておいてください。こうなったときの対処法はアリアンス様から指示されております」
 何についても抜かりがない、とローは思う。アリアンスは自身を過小評価することはないが、過大評価することももなく、危機管理能力も卓越している。
「ですから、私のことは何も……」
 そして、そのような状況下に陥ったときに、何を優先するべきかラッコが理解していることくらい、誰でもわかることだ。ラッコが危険な状態であるならば、自身よりも危険な状態にあるのは、敬愛するアリアンス。しかし、どれだけアリアンスに忠実であろうとも、忠実である限りラッコはアリアンスは救えない。
 だから、ラッコはローに従う。アリアンスの指示通り、そして、ラッコの唯一の存在を救える人間に乞う。
「どうか何があってもあの方の手を離さないでください」
 ローの手を握りたかったのか、手を動かしてそして諦めて、掠れた声でラッコはそう言った。ラッコにはアリアンスの何かが聞こえたのだろうが、ローにはわからない。



 目が覚めた。麦わらのルフィの声が聞こえた。
「やめろ、麦わら、船をぶっ壊すな」
 本能が告げる。アリアンスは目を見開く。強い声。絶望。ポートガス・D・エース。その死。受け入れられない「弟」。アリアンスは漏れ出す覇気を抑えつけようとした。腕が青く染まり、そして爪を立てると赤く染まる。



 麦わらのルフィが目覚めた。
「ルフィか」
「エース、エース、エースはどこだ!」
 兄の死を受け入れられないその姿に、ローは嘗ての自分を重ねる。ボロボロと泣きながら歩いたミニオン島。当時は十二歳。十七歳のルフィよりは年下だったが、その気持ちがわからないわけではなかった。
 四歳でその死も受け入れ、泣くこともできなかった小さなアリアンス。
「あれ、放っておいたらどうなるんじゃ」
「まあ、単純な話、傷口が今度開いたら死ぬかもな」
 ローは船から漏れ出す気配に気がついた。不安定なアリアンスが、完全に見聞色の覇気を制御できなくなったことは想像に難くない。
「そっちは任せた。俺にも急患ができた。船から離れることはできねぇ」
 ローは海峡のジンベエにルフィを任せることにした。少なくとも自身よりは声が届くだろう、と思ったこと、そして、何よりも船と仲間たちが気がかりだった。
「おい、お前ら、船にはまだ戻るなよ」
 アマゾンリリーの女たちに夢中のクルーは問題ないだろうとローは思いつつ、一応警告をした。そして、ベポたちなどアリアンスを心配するであろう面々には、しっかりと確認した。
「アリアンスを苦しませたくなければ、近づくな」
「どういうことなんだよ、キャプテン」
 ベポの声はいつもなんだかんだで最終的に通してしまうローだが、この時ばかりはそうもいかなかった。
 アリアンスが覇王色の覇気を隠したがっているのはローも知っている。特にベポ、ペンギン、シャチは同じようなものを経験しているゆえに、すぐに勘づくだろう。
「ベポ、お前は特に近づくな」
 アリアンスはベポを特別視している。ローが目覚めた頃にはアリアンスはベポを気に入っていたので、ローはその過程を知らない。ただ、傍若無人なアリアンスがベポを傷つけることだけは極端に嫌うことは知っている。
 アリアンスはその力をもってローを平伏せることを躊躇わないが、ローの仲間については別なのだ。



 聞きたくもなくても、見たくてもなくても見える強い記憶。ルフィから見るエース。サボという革命軍にいる少年と三人で過ごした幸せな記憶。捻くれていたのは世界から拒絶されていたからだろう。しかし、それに手を差し伸べたのは小さな少年。それでも、本当は優しくて、少し馬鹿で、でも弟ができてからは弟を気遣うようになって、そのくせとても負けず嫌いで。
 小さな風車回る村で愛された子。
______あの子はやっぱり愛される子だ。この世にいないといけない子だ。
 見た目はロジャーによく似ているのに、その意地っ張りなところも義理堅いところも、その全てがルージュによく似ていた。アリアンスの嘗ての世界によく似ていた。
 ただ、アリアンスも伝えたかった。アリアンスを愛してくれた二人がエースに伝えられなかったことを。愛されて生まれたこと。母だけではなく、父も決して憎まれるだけの人間ではなかったこと。
 生きてさえいれば、いつか笑い合えるそんな親子であったことを。



 シルバーズ・レイリーは目の前の男をまじまじと見た。
 己を見てもその男は全く動じなかった。冷静沈着という言葉がよく似合う、ルフィとは全く異なるように見える海賊。船医と船長を兼ね、ハートの海賊団の最大の戦闘力を誇る万能な存在。それは、レイリーの知る船長とは異なる。
 海には星の数ほど海賊がいて、その形も様々だ。
「あと二週間は安静を続けろ、と伝えておいてくれ」
 それだけを言って、その男は退散の命令を出す。一同も渋々それに従った。
「もう出るのか?」
 レイリーがそう尋ねると、男、トラファルガー・ローは表情一つ変えずに答えた。
「ああ、手のかかる仲間がまだ療養中だ。あまり長くは留まりたくはねぇ。閉じ込めてはいるが、あいつの声を見聞色の覇気で感じ取って、手がつけられる状況じゃねぇ。一刻も早く離れたい」
 レイリーもポートガス・D・アリアンスの名前を知らないわけではない。副船長とはされていないが、実質の副船長ということが専らの噂であり、シャボンディ諸島でも元海兵ということは知られていた。しかし、それらしい人間がここにはいない。ただ、船から漏れ出る覇気が只者ではないことを物語っていた。
「あの船から覇王色の覇気が感じられると思ったらそういうことか。シャボンディにはいなかったな」
「ああ、あいつは海兵育ちだ。異常を予期して船で待機していた。正気だったあのときに連れて行けばよかったが、意味がねぇな。まだ、思い出していなかった。それに何しでかすかわかんねぇからな」
 最後の言葉にレイリーは昔を思い出す。それこそ、何をしでかすのかわからない男とレイリーは大海原を駆け抜けた。
「ポートガス・D・アリアンス。南の海のバリテラで生まれた。当時二歳か?」
 レイリーもその正体を知らないわけではない。おそらく、情けをかけたのもエース同様にガープであろうことも。
「ああ、でも覚えている。ただ、ずっと「よく笑う変なおじさん」としか言わないから、俺も気がつくまで数年かかった」
 それだけをレイリーに告げると、その男は出港の準備の整った船に飛び乗った。一刻も早くこの島から離れたいらしい。
「老ぼれとはいえ冥王を前に上の空になるか」
 大物だ、と思い、レイリーは笑う。老ぼれとはいえ「伝説」よりも目の前の仲間の方が大切なのだ。そこはとてもキャプテンらしい。しかし、彼はレイリーの知るキャプテンとは全く違う。
「己の若い頃を見ているかのようだ、トラファルガー・ロー」
 未だ見ぬ海賊、ポートガス・D・アリアンス。センゴクのような落ち着きはあるものの、その本質はガープやロジャーのような破天荒なものであることがわかるような笑顔の手配書。どこまでも平凡な色彩をしているのにどこか人の目を惹く表情。
 自由を謳歌しながら、その背を誰かが守ってやらなくてはいけないような落とし物。あの日、声をかけてきた麦わら帽子の青年のように。
「ポートガス・D・アリアンス。君は世界の何になるつもりなのかな」
 時代の終わり。残された残滓。消えぬ意志。
 ロジャーの最期の穏やかな一時を知る存命唯一の人物。当時二歳。子ども好きなロジャーのことだ、随分と可愛がっていただろう、とレイリーは思った。
 ロジャーが最期に愛したであろう、「死に際に実在した子ども」。
「それを見届けるのは私ではないが」
 エドワード・ニューゲート、ポートガス・D・エース。ロジャーに纏わる物語。その最後に残った海賊側の時代の終わり。海賊王と海軍の伝説を繋ぎ、一つの終焉を迎えた時代の落とし物。それを選び、行く末を見届けるのは彼の男。麦わら帽子の命を繋いだ男。



 ローは気分良く女々島から操舵した。安定すると、そのままベポたちに指示を出し、席を離れた。
「あとは任せた」
 ルフィからは十分に離れた。全ての元凶のいる倉庫の扉を開けずに中に入る。
 そもそも、ポートガス・D・アリアンスの覇王色の覇気は強い。だから、理性が完全にとんでいればローもただでは済まない。気絶するほどではないものの、未だに体は動かなくなることはあり得る。しかし、それを抑える理性は残っているらしい。その代わり、腕は内出血をしていた。自分自身を抑えむために自傷したらしい。食事をろくに摂っていないため胃は空なのだろう。唾を苦しそうに吐きながら呻いている。
 俯く顔を起こしてやると、焦点の合わない眼がローの方を向いた。ぐらりぐらりと揺れる人間の眼。それは虚ろながらもローを捉えた。そのくせ目尻はいつも通り乾いていて、それだけがいつもと変わらなかった。
「二十ヶ月も、二十ヶ月も子どもをお腹に入れて、世界から守り抜いて、私の前で冷たくなっていって。それなのに、生まれた子どもは二十年しか世界に生きることを許されなかった」
 ローはその執念が、その力が異常であることがアリアンス同様に理解ができる。医者だからこそ、信じがたいことだと思う。自身で出産の時期を調整するなど、不可能に近い。たとえ、その命を燃やし尽くしたとしても。
 アリアンスが「姉様」と慕う理由がローはよくわかった。海賊王が愛し、王の器に暖かな日々を与えた女。アリアンスと同じ血が流れているとすれば、アリアンスの特異な体質も納得はできる。
 世界は数奇に満ちている。
「何で私ではなくて、姉様が命と引き換えにしたあの子が」
 ロジャーの血を引くエースと、ただのアリアンス。
「お前と火拳屋は別だ」
 ローは公平なアリアンスとは異なり、仲間が一番だ。それでも、ベポとペンギンとシャチに順番を付けることができない。だからこそわかるのだ。おそらく、歴史における死の価値はエースの方が上だったとしても、エースの母親にとってはアリアンスとエースは全く別の人間だった、と。
「お前がいなければ俺は死んでいたんだ」
 ローはアリアンスの肩を掴み、声を荒らげる。アリアンスの細い骨に指が食い込み、アリアンスには痛みがあるはずなのに、その表情は変わらない。
 ローの命を救ったのはエースではなくアリアンス。ローの中では当然アリアンスの方が上だが、アリアンスの中ではわからない。これはアリアンスだけの問題ではない。アリアンスに巣食う「王」。
「私は王の器だから。見聞色の覇気があるから。頭がいいから、兄様の兄に似ていたから、愛してもらえた。だけど」
 忘れていればいいものを、この心の欠けた子どもは覚えていたのだろう。理解していないものの、大切なものだと知っていたから、ある程度は仕舞い込んでいた。だから、苦しむのだ。誰に言われたのか、自身でそう思ったのか、しっかりとそれを抱え込んでいたから。
 その時に感じるべきだった苦しみも悲しみも愛も全てを今この場所で噛み締めなければいけない。
「あの人の愛に、お前が今まで受けた愛に理由なんてつけるんじゃねぇ」
 ローはロシナンテが、そんな理由でアリアンスを愛していたとは思わない。海兵の中でたった一人の幼子に、善意で差し伸べていたに違いないと思っていた。たとえ、それが兄に対する贖罪だとしても、理由があったとしても、言葉にできないものは存在する。
「それにお前は危険だと思われていながらも、一度も殺されなかった。危険な目にも遭っていない。殺されかけたこともない。お前の周りのやつらはお前に何を望んでいた? お前の兄はお前に何を望んだ?」
 ローはその過去を知らない時から、アリアンスが愛されて育ったことがわかっていた。如何なるときにでも、アリアンスは愛されている。だから、今でも人に愛されて続ける。
「お前は常に俺の言うことなんて聞かねぇ。世界の声を聞く。自由に生きる。普段はそれで構わねぇ。俺は知っていてお前を仲間にしていた」
 ぐらりぐらりと揺れる眼をした目の前の王の器が、冷徹な王の器としての生き方以外の生き方はできないことはローもわかっている。ただ、その心は。
 冷徹な王と心なき王は違う。
「だが、今だけは、俺の物で、一番は俺だ。俺の言うことを聞かないなんてことはさせねぇ」
 ローは自分で言いながら、己を嘲笑する。目の前の王の器はロー自身が持て余す存在であることは誰よりもローが自覚していた。ただ、そんなことは関係はない。
「お前の船長の名前を言ってみろ。お前が従うべき人間は誰だ」
 これは、アリアンスが聞こえるという世界と、アリアンスに今まで愛を与え続けてきた強い人間たちと、ローの間での戦いだ。世界、海賊王、海賊王が選んだ女、海軍元帥、海軍の英雄、そして数多の海兵たちと、ロシナンテ。今のローでは敵わない相手。
 確かにアリアンスは手に余るような人間だ。ただ、それでも、仲間だった。ハートな海賊団の仲間だ。それは、アリアンスの僅かに残った心が望んだことだ。
「お前の心は何処にあるんだ」
 だから、ローはその心に問い続ける。



 許容することが到底不可能な情報が雪崩れ込む。南の海バテリラで四歳の小さなアリアンスが泣いている。アリアンスはそれを視界に入れず、ノイズを切り捨てようとくる。しかし、その中で、微かに声が聞こえた。
 特別ではないが、何故か微かに聞こえる声。
「お前の心は何処にあるんだ」
 アリアンスはキャプテンの眼を見た。様々な感情が入り混じり、未だ濁っているのに関わらず、美しいと思うことのできる琥珀色を。むしろその時琥珀に渦巻く濁りが美しい。たった一つの色彩しか持たないそれに閉じ込められた数多くの感情。それはかつて見た極彩色のそれのようにアリアンスの心を惹く。

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