一月の半ば、春高バレーが終わった頃、とはいえ、なまえはそれを話で聞いただけだったが、なまえの住んでいた根釧大地一帯を爆弾低気圧が襲った。
 そもそも、根釧大地は豪雪地帯ではない。最近は年に数回積雪する程度である。広く知られた都市である札幌や旭川に比べると、積雪量は笑われてしまう程度である。
 ただ、氷点下の一月の雪は軽く、強風で簡単に舞い上がり、視界は真っ白になる。当然矢羽付きポール等で対策は取られているが、日々重なる降雪で幅員は減少。市街地が連続しない北海道によくある町の作りから、通行止めによる孤立集落と化す場所もあった。とはいえ、日々の備えをしていることや、町自ら不要不急の外出を控えるよう要請していることから、人々は家にこもり、風が止んだ一瞬に除雪をしたり、車や排気口等の確認をしていた。長くその地に住む人々は、自然の恐ろしさをよく理解していた。
 それでも、事故は起こった。悲惨なニュースは北海道のみならず、全国に報道された。
 地吹雪。なまえが最も恐れるように言われているものだ。突き刺すような粉雪が舞い上がり空間を白く染め上げ、酷い時は信号の光すら消し去ってしまう。昔、幼いなまえが痙攣を起こしたとき、いつも冷静な父親が必死に数少ない病院に電話をかけて、なまえを毛布に包み込んで病院に連れて行ったことがあった。意識のあったなまえは、家を出たときに感じた、柔らかい頬を突き刺すような冷たい雪と真っ白な世界を忘れない。
 不安のあまりなまえは酷く泣いた。いつも優しく冷静な父親は、なまえが泣けば宥めてくれるが、そのときばかりは一言も言葉を与えず、なまえは後部座席から見る運転席の父親が酷く遠く見えた。
 窓から見えるのは薄暗く真っ白な世界。今思えば、父親はなまえのために全ての神経を運転に集中していたのだ。大学に招聘されるほどの頭脳を一人の娘のために必死に働かせて、考えつくリスクを排除しながら。
「なまえ、俺もお前もいつ死んでもおかしくなかった。俺もお前は運がよかった。わかるか」
 父親に言われた言葉をなまえはよく覚えていた。その頃は意味がわからずただただ怖いだけだった。しかし、その地でゆっくりと育っていったなまえは、父親の言葉の意味を理解できるようになっていた。



 どこか重い気持ちを抱えながら、なまえは登校した。交通事故にしろ何にしろ、悲惨な事件や事故の話を聞けばなまえの気分も沈む。特にそれがよく知る場所であれば、なおさらのことだった。
「なまえさん、ここ、なまえさんのお家の近く?」
 朝一番にクラスメイトの一人に声をかけられる。手にはスマートフォン。この頃には、さすがに黒尾鉄朗以外にもそれなりに話をする友達はできていた。
「まあ、近くかな」
 北海道と東京では全く異なる距離感の説明をするのは面倒だ。遠くはないが、近くとも言えない。
「何でこんな天気で外に出たんだろう」
______少しの遅延で大変なことになるような人口過密地帯で、たとえ五センチ程度の積雪だったとしても、混乱することがわかっていて家を出た人たちには言われたくないんだけど。
 なまえはとりあえずその言葉を飲み、どろりとした感情を吐き出すために冷たい空気を吸った。
「ここだったら、中標津の町に出るために通ったんだよ。地吹雪の怖さはみんな知っているから、余程急ぎの用事だったんだと思う」
 事故があったのは郊外である。郊外には病院はない。なまえのような状況だったら、ただ運が悪いだけで命を落とすこともある。なまえは運がよかっただけだ。それをなまえは朝から噛み締めていた。だからこそ、クラスメイトから発せられた次の言葉は、なまえにとって酷く残酷なものだった。たとえ、それに全く悪意がないとわかっていたとしても。
「そんなところで暮らすなんてね。みょうじさんみたいにみんな東京に来ればよいのに」
 音駒高校に編入学できる程度の頭脳。そもそもみょうじなまえという人間は頭の回転が速く怜悧である。町の中でも有名な才女だった。氷のように冷たい何かが、なまえの冴えた頭脳を動かす。
「ねぇ」
 その一声は冷ややかで、一瞬で場の空気を変えるのに十分だった。この当時は無意識でしか使えなかったこのなまえのカリスマ性は後に意図して使うことができるようになって真価を発揮することになる。
「お菓子、ちょっといいやつだよね。きっと、バターたくさん使っている」
 なまえは机にあったお菓子を見逃さなかった。
「これ、食べられなくなるってことだよ」
 言葉の一つ一つは書き出せば柔らかいはずなのに関わらず、なまえの声は公的な文書のような破壊力を持っていた。
「あとさ、私はこの土地が好きだから」
 口元だけが緩やかに弧を描く。穏やかな声。ただ、人を従わせる何かがあった。
「そういうの、やめてね」
 なまえの優しい笑顔は冷たい空気にとどめをさした。なまえは踵を返した。廊下で冷えた頭に後悔がよぎる。教室にいたくない、となまえは思った。全ての負の感情をコントロールできるほどなまえは大人ではなく、そのくせ父親譲りの場を支配する才能を持っていた。
 人を不快にさせたことをなまえはわかっていた。そして、それを後悔する優しい心も持っていた。それが、広い大地で両親に真っ直ぐに育てられたみょうじなまえという人間だった。
______仲良くしたい。嫌なやつになりたくない。でも、上手くいかなかった。早く、謝りたい。でも、まだ許さない。



 屋上に続く人気のない階段に座り込む。風は冷たい。
 しばらくして、隣にやってきた人物が誰なのかはすぐにわかった。遠くからでも差し込む大きな影。隣にいるだけで、汚れた何かが溶けていくようだった。なまえが全知全能ではないように、クラスメイトたちも全知全能ではない。当たり前のことだ。クラスメイトたちも悪気があったわけではない。むしろ、三年次の転入で、クラスに馴染んでいたとはいえなかったなまえに声をかけてくれるようになっただけ感謝するべきなのだ。
「私の中の都会さ、赤い夕日が海に沈む」
 なまえもいつも見ていたわけではない。その赤く染まった夕日を見ることができる日は少ない。たまにしかいかない都会に心を躍らせたのはいつだったのか、と思い出しながら言葉を続ける。
「めちゃくちゃ橋かかっている町なんだ」
「前半の情緒、一気に後半で消し去りましたね、なまえサン」
「いや、本当だから。橋多いから」
 市民ですらわかりづらいと言っているので、橋が多いのは本当なのだろう。湿原を形成する川。その風景を思い出すと、全てが崩れてしまいそうだった。なまえのいるのは東京だ。
 なまえの愛するあの大地ではない。
「東京都の面積、うちの高校のあった町の二倍程度しかないんだ。それこそ、山間部も含めて、全部だよ」
 それを一つの役場が統括している。小さな役場が。山もあり台地もある。ただ、学校と病院はひどく少ない。多くの人々はそこで生まれてそこで死んでいく。東京の面積はそんな小さな町の二倍程度だ。
「ただ、日本の総人口の一割を超えている」
 埼玉や神奈川、千葉などベッドタウンを含めるとどの程度になるのかなまえは正確には知らない。黒尾鉄朗は黙っている。なまえの話をただ聞いている。
「黒尾君、多数決って正義だと思う?」
 なまえは尋ねる。そして、答える。
「私はね、多数決は手段の一つだと思いたい」
 この日本においても、東京都においても、音駒においても、なまえは多数になることはない。困った質問なのはわかっていた。折角の澄んだ冬の日に、湿った空気になるのも嫌だった。
「僕は今のところただのバレー馬鹿なのでよくわかりませんが」
 その空気をかき消したのは朗々とした黒尾鉄朗の声。
「僕、いや俺が今からなまえサンについて思っていることを話します」
 横に座る男の顔を見ると、ニヤリと不敵な笑顔を浮かべた。少なくとも傷心の人間に見せる顔ではないが、元々の顔の作りのせいであり、悪気はないと思うとおかしくて、なまえの心は少し軽くなった。



 黒尾鉄朗という男は柔軟で冷静沈着である。人付き合いも得意だった。人の顔色を伺わなけばいけなかった幼少期があったからなのか、気難しい幼馴染がいたからなのか、理由は定かではないが、いつ何時も飄々としていられる。熱中しているバレーの試合中も常に冷静で、咄嗟のことに驚いても次の行動に支障が出ることはない。日常とバレーボールの試合という非日常が交互にくるのが彼の人生だった。
 しかし、それは突如狂わされる。日常という時計と共に進む時間にやってきた異物。バレーの世界では散々見てきた。それでも、それはコートという非日常の上でのことであり、人生そのものが化け物のような目の前の人間は黒尾鉄朗の日常を呆気なく狂わせた。
 出会って一週間で二人で電車で出掛けて、よくよく考えたらデートじゃないかなどと思うはずなのに関わらず、なまえ相手には何も思わない。そして、おそらくなまえ自身もあまり考えていない。その言動は常に素である。ゆえに、止まって考えていたらすぐに置いていかれる。放っておけばいいものの、その背が見えなくなるのが怖くて何も考えずに巻き込まれてしまう。気がついたら、名前で呼ぶようになっていたが、何がきっかけだったのか黒尾鉄朗はもう思い出せない。思い出そうとしても、鈍器で頭を殴るかのような彼女の台詞ばかり出てきて、脳にダメージを負うだけだった。
 たった十七年、去れど十七年。彼とは見てきたものも触ってきたものも全く違う、そのくせ彼女は彼の隣の席で、彼の知らない日常を送り始めた。彼女の周りだけが彼の知る東京ではなかった。
「なまえサンは良い意味で貪欲で、常に新しいんです。だから、なまえサンと一緒にいるだけで、日常がバレーの試合みたいになる。何が起こるか全くわからない非日常になるんです」
 電車の乗り方も知らなかった。ICカードすら持っていなかった。そのくせ、今では東京のありとあらゆるものを吸収している。彼女の送る日常、送ってきた日常、そして、目から見える東京の解像度が上がるにつれて作り出される彼女の東京。
「なまえさん、あっちでも変わっていたって言われなかった?」
 田舎からやってきた人間がみんな彼女のような人間ではない。そうであれば、今の東京は東京の形を成さない。「オノボリサン」みたいな可愛いものではない。知らないものに目を輝かせ、生きてきた大地を決して卑下しない。なまえは何れ故郷は消えるかもしれないと言ったが、なまえの育った場所がなまえの中で色褪せていくようには見えなかった。
 なまえは前の高校のジャージを着ている。真っ黒のジャージは一際目立つ。
 烏のような黒。それがよく似合っていた。どこかの高校のバレー部のように貪欲で、常に新しい。
「僕には幼馴染がいましてね、まあ、化け物みたいなやつに熱中しているんですよ」
 黒尾鉄朗の幼馴染は多くの人に囲まれるのを好まない。何に関しても冷めた態度を取る。しかし、突然現れた随分と変わった人間に狂わされた。
「今まではどこか他人事みたいに思っていたけれど、あいつにとってのおチビちゃんは、俺にとってのなまえサンだ」
 なまえと過ごすというよりは、なまえの世界を彼が共有しているということに近い。
「なまえサン、トウキョーで何したいの? なまえサンなら、こんな人間様のための町じゃなくても生きていける。ただ、なまえサンはここに来ることを選んだ」
 みょうじなまえは子どものように爛々と輝く目をしている。こんな風にバレーをする人間は何人も見てきた。ただ、これ程までに狂わしく日常を送る人間を彼は知らない。
「明日、部活休みなんだけど」
 探せばあるはずだ。彼女が輝ける場所が。教室の空気を一瞬で変える彼女が。
「俺のカッコいいところ、なまえさん見てくれたんだから、今度はなまえサンのカッコいいところ、俺に見せてよ」
 大きな目が黒尾を見つめる。それで良いのだと思う。俯く顔は似合わない。目を丸くして世界を眺め、その目を輝かせるのがみょうじなまえという人間なのだから。
 黒尾鉄朗の知るみょうじなまえは、常に上を向いている。



 黒尾鉄朗の日常にスケートというものはなかった。朝一にあの出来事があったのに関わらず、屋内スケート場に感動しているなまえを横目で見て、呆れて溜息が出る。立ち直りが早すぎる。リエーフかよ、と思ったが、なまえはバカではない。バカでもないのにすぐに顔を上げるからこそ、みょうじなまえから目を離せないのだ。
「基本的に屋外に水撒いて作っているから、夏は自転車漕いでいるよ」
 小学校とかでもスケート場作るのに水を撒くよ、とまるで夏にプールの水を入れるかのような顔で言う。そんなに簡単にスケート場なんてできてたまるか、などと考えてしまうのが黒尾鉄朗の癖だった。考えた時点で終わっていることを誰よりも彼自身がわかっている。
「それで、スケート場できるんですか?」
「水なんて零度で凍るんだから」
 その一瞬でこうして突き放される。基本的に冬は最高気温も氷点下だから、とさらりと流される。その度に自分は柄にもなく情けない顔をしているのだろう、と黒尾鉄朗は自覚はしていた。こんなところ部活仲間に見られたら揶揄われると思う反面、いつもクールな梟谷の赤葦や、地方とはいえ地方都市である仙台の月島などにぶつけたいとも思った。
_____木兎は駄目だ。想像もしたくないし、収拾つかなくなる。同時に存在させてはいけない。
 なまえはショートトラック五百メートルが得意だったらしく、四周半の計測をしてほしいと言った。スケートなど、フィギュアスケートしか知らなかった彼はすぐに度肝を抜かれることになる。スタートの合図をした途端、カーブに入り体を強く傾斜させて、再び上体を起こす。四周半は本当に一瞬で終わった。
 無駄のないフォーム。風を切るその姿。スケートに馴染みのない黒尾は、彼のジャンプサーブを見たなまえと同じ感想を抱いていた。キレキレの動作で黒尾の目の前までやってきて時間を覗き込む。
「四十九秒かあ」
 残念そうな声だが、表情は晴れやかだった。運動した後特有の明るい表情。
「これでも、地元ではそこそこだったのに、鈍っているなあ」
「なまえサン、これで地元でソコソコですか?」
「そうだよ。高校女子五百メートルで道の大会に入賞する人たちは四十前半だね。大体、みんな高校で帯広に出ている。環境も良いし、強い高校があるから」
 なまえの口から出る地名もわかるようになってきた。ただ、なまえがちょっと都心に出ないと、くらいのノリで出す帯広となまえの住んでいた場所の距離を後でこっそり計測したときには驚いたが。みょうじなまえはその場にいてもいなくても、日本がいかに広いかを知らせてくれる存在である。
「風を切るって最高に気持ちが良いんだ」
 サクサクと滑り始めるなまえを見ながら、黒尾鉄朗はデショウネという言葉しか出てこなかった。
「黒尾君にも見せてあげる」
 まさか、その後、確かに事前予告はあったものの、昨日の今日で爆弾が投下されるなどと黒尾鉄朗は思ってもいなかった。



 夕日が沈んでいく。灰色の建物の隙間からゆっくりと。春高も終わっていたため、受験をするメンバーと勉強した後、クラスでぞろぞろと玄関に向かう。
 なまえはその日は早退し、翌日に教室に戻ると普通に謝り、許された。まあ、なまえちゃんだからね、と未だ進路も決まっていない上に特に指導もないなまえをクラスメイトたちは許してくれた。
「なまえちゃんなら、どこでもやっていけるよ。強いから」
 黒尾鉄朗は何を思ったのか今日一日はなまえに黙って付き合っていた。帰らないの、と尋ねるなまえに、黒尾鉄朗は黙ってあの笑顔を向けるだけ。面倒見の良い彼の性格になまえは思わず笑みが溢れる。最後の最後、靴を履くとちょうど日が沈むところだった。玄関を出たところで、なまえは隣にいる男に話しかける。
「慣れないね。山の方向に沈んでいく夕日は。私の中の都会は赤い夕日が海に沈んでいく」
 尤も、その町は霧の町としても有名であり、赤い夕日を見ることのできる日は少ない。ただ、霧の晴れた秋、なまえの中の大都会、買い物帰りに親の車から見る夕日は赤く染まっていた。映画を観た帰り、あっさりとした拉麺を食べた。その余韻と共に赤い夕日は在る。斜陽という言葉のとおり、翳り始めたなまえの都会。
 あのなまえの都会は時代から捨て置かれるのだろうか。
「ねぇ、黒尾君、東京は海から昇る朝日が見える公園があるんだよね」
 音駒の太陽は建物の狭間から昇って建物の狭間に沈む。
「星は見えなくても、お日様は見えるから」
 冷たい冬の空に浮かぶ星。その代わりに人の営みが見える。それが東京だ。ただ、調べてみると海から昇る太陽は見えるらしい。
「あ、調べなくてもいいよ。黒尾君は何もしなくても」
「僕はその公園も行き方も知らないんですけど」
 なまえは首を傾げる。忘れたのだろうか、と。
「大丈夫、大型二輪の免許も取得したし、先月ようやく大型二輪の購入できたから」
「は?」
 なまえの派遣の仕事の成果で、なまえはようやく夢のバイクを手にすることができた。そして、皆が部活や受験勉強に勤しんでいる時にこっそり大型二輪免許を取得した。
「だいぶ練習もしたから安心して」
 なまえはなんとか倒れたバイクを起こすことができる。幼少期から除雪機はあったものの、玄関周りなどは手で除雪してきたのだ。基本的に足腰はしっかりとしている。
「でも、ちょっと音煩いから、お隣さんとかに事前に話を通しておいて」
 しかし、大型のバイク、特になまえが購入したバイクは純粋に音が大きい。
「あのー、なまえサン」
 呆けた顔をした黒尾鉄朗。間違いなく忘れていたな、となまえは思った。
「法律とか大丈夫?」
「校則はアウトだけど、普通二輪免許取得後通算二年以上、法律は大丈夫だから大丈夫!」
 自己判断自己責任。試される大地で試されてきたなまえだ。また、なまえの基本は法律は遵守。彼女の力強い言葉は人を導くことになるのをまだ彼女は知らない。負の感情のみならず正の感情においても、場の空気を支配する才能に気がつくのは、まだ先の話である。

少年少女よ、大志を抱け
back next
list
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -