猫のような眼がじわりと黒尾鉄朗に向けられる。黒尾鉄朗にとっては何よりも見慣れた眼だ。この眼が怖いという人間もいるらしいが、黒尾鉄朗は幼馴染のこの何かを探るような眼が嫌いではなかった。
「バイクの音?」
「そー。だから、研磨、家で伝えておいて」
 この幼馴染を前にすると、全てを話さざるを得ない。特にやましいこともないので、話すことは問題ないのだが、説明が難しい。結局、かなり端折った形になってしまい、幼馴染は不信感をあらわにした表情を隠そうとしない。
「いいけど、クロ……」
 じっとりとした目つき。
「普通に校則違反だよ」
「デスヨネー」
 俺もそう思います、と黒尾鉄朗はずっと思っていたことに同意してくれた人がいたことに感動した。極めて普通かつ常識的。今までいかにみょうじなまえという人間に振り回されていたのかということを彼は自覚した。もっと早く相談すべきだったと思ったが、黒尾鉄朗にとってのこの一年間はバレーボールに染まっていた。彼は極めて器用だったが、混沌とした日常をこの世界で共に生きていた幼馴染に漏らすことができるほどの許容量はなかった。それこそ、春高バレーが終わり、静かになったからこそ話ができるのだ。
「そのなまえさん? だっけ。そんなにクロが気にかけないといけない人なの?」
 突然、隣の席にやってきたド田舎出身だと思われるヤンキー。別に声をかける必要はなかった。黒尾鉄朗が声をかけずとも、いずれ同性の面倒見のよい類の人種が声をかけていただろう、と黒尾鉄朗は思っていた。実際に彼女は少しずつクラスに馴染んではいた。
「最初はそうだった。何も知らない。電車も乗れない。札幌と東京の違いもわからない。見た目は少々派手だったが、ただのお上りサンだと思っていた」
 正直、なまえの最初の印象は朧げだ。目の前の幼馴染がそうであるように。そのせいで、どんな状況においても冗談混じりで上手く場を纏める技量を持つ彼にしては珍しく、言葉に詰まった。
「気がついたら、一緒に新宿行ったり、水族館行ったりしていた」
「気がついたら、って……」
 幼馴染の呆れ顔。黒尾鉄朗も逆の立場ならそのような顔をするしかないだろうと思っていた。
「そこがよくわからない。どういう意図で言ってくるのが考える暇もなく次の発言、もとい爆弾が投げ込まれる」
 ふーん、と幼馴染は興味なさげに流すかと思いきや、その眼をやや開けて尋ねる。
「クロのレベル、かなり高いと思っているんだけど。回避とかできないの?」
 黒尾鉄朗は、少し考えた後、幼馴染の世界観で説明するのが一番わかりやすいと判断した。普段、彼はこのような説明をしないのだが、それだけみょうじなまえという人間は彼の日常の言葉で説明することが困難だった。
「大体攻撃ある前にモーション入るだろ、それが一切ない。あと、ダメージ受けて立て直している間に次の攻撃直撃するし、ダメージ与えた次の瞬間に回避不可能のカウンター攻撃」
「何その無理ゲー」
 ゲーマーの狐爪研磨にそれを言われたら終わりである。
「なまえサンはなんかこう、破天荒で」
「リエーフみたいな人?」
 灰羽リエーフも色々な意味で思考が止まりかける発言が多いが、それでも黒尾鉄朗が制御可能な範囲内だ。あれはただの目立ちたがり屋。思考は単純。
 みょうじなまえも思考が複雑なわけではない。至って単純だ。新しいものが好きで、持っているものも大切にする。
「うーん、どっちかというと。お前にとってのおチビちゃんだな」
 そう言うと、幼馴染は猫のように目を丸くした。突然興味が湧いたかのように。それが研磨らしくて黒尾鉄朗もニヤリと笑ってしまう。
「クロにとっての翔陽ね」
 納得したように言ったが、どこか消化不良があるような、つまり好奇心を隠せないようなそんな顔をしていた。
「追いつくのが大変なんだよ」
 みょうじなまえは黒尾鉄朗の意図するようには動かない。
「ただ、今回はタダ乗りさせてくれるらしいから、乗らない選択はないデショ」
 ニヤリと笑うと、諦めたように幼馴染は溜息を吐いた。



 風を切る。なまえは東京の透き通った冷たい朝の空気が好きだった。まだ空は暗い。むしろ、暗くないと困る。それでも、コンビニの明かりや街灯は多く、視界は悪くない。また、東京にしては人気のない道路は走りやすかった。
 ついたよ、とバイクを止めて後ろに声をかけると、なまえの父親のヘルメットを外した黒尾鉄朗は溜息をついた。
「体重移動の説明とか、普通もっと前にしてくれない?」
 スノーモービルや原付などに乗り慣れていたなまえは、黒尾鉄朗に体重移動の説明をするのをすっかりと忘れていた。幼い頃から機械に慣れているのだ。そのため、乗る直前に自分と同じように体重を左右に移動してほしいことを伝えた。
「上手だったよ。助かった。さすがバレー部主将。カッコイイ」
「お世辞で自分の不手際誤魔化そうとするのやめてくれます?」
 さすがのなまえにも罪悪感があったことを黒尾鉄朗はあっさりと見破っていた。
「朝はやっぱり寒いね」
「教室で、スリッパじゃなくてチャッカリ靴履いているなまえサン、僕は羨ましいんですけど」
「黒尾君、夏にクロックス履いていたから知っていると思うけれど、小学校から北海道は靴だから」
 なまえは上履きの存在を知らなかったし、それに色があって学年ごとに分けられているなどという話を聞いて驚いたのを思い出した。
 バイクを施錠し、海の見える場所まで歩いていく。時間は悪くない時間のようで、朝日はすぐに昇り始めるようだった。
「なまえサンを見ているとさ、俺の中の普通が崩されていく」
 なまえは黙って次の言葉を待った。
「バレーボールが当たり前にできるわけではないこととかさ」
 彼にしてはそれが衝撃的だったのだろう。なまえにはわからないが、きっとあの時、なまえの知る世界が彼の中の何かを少しだけ変えた。
「黒尾君はバレーばっかりだね」
 きっとそういう人がいなければいけないのだろう、となまえは思う。ただ、なまえの選択は違う。何をやりたいか、将来の夢など特に考えたこともなく、なまえは目の前のことがただただ楽しかった。風景も人間も勉強も。全てが新しくなまえの世界を鮮明にしていく。
「私は来年は勉強する。所謂浪人だね」
 なまえは決して学業の成績が悪いわけではなく、入ることのできる大学も多い。また、あの大地に帰る選択もできる。しかし、なまえはそれを選ばない。
 みょうじなまえは高いところが好きだ。
「東京大学の法学部に入って官僚になる」
 官僚は学閥どころか学部閥が未だに色濃く残る。それはなまえが派遣のバイトの際に嘗て官公庁に勤めていた人間に聞いた話だった。その人は官公庁を辞めたが、なまえに様々なことを教えてくれた。そして言ったのだ。なまえのような人間が官僚になれば「面白い」と。
「素行不良のなまえサンが東大? いきなりレールの上ですか?」
「黒尾君、レールって……」
 なまえは笑う。眼を丸くする黒猫のような男を目の前にして笑う。
「私はレールのない町から来たんだ」
 永遠と続く牧草地、宇宙からも見える広大な格子状の防風林。空には煌々と星が輝き、尾の白い鷲が飛んでいく。白鳥や丹頂鶴の鳴声はうるさい。そして、いつも楽しみにしていた赤い夕日の都会。祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。きっと、その多くは失われる運命であろうとも、日本の隅々にそんな場所がたくさんあろうとも、そこを愛して生きる人々がいる限り、なまえはその手を取ろうと思った。青空を貫くビルのせいで、見上げる空がいくら遠くても。それは、なまえ自身、かつて蹂躙された大地の上で生きていたからこそ、強く思うのだ。
 電車の音が響く。東京の朝は早く、夜は遅い。きっとこの国のほとんどの人間は、こういった世界で生きているのだろう。
 なまえが圧倒的に少数ならば、権力を掴み取ればいい。チャンスは与えられた。あとは、掴みとるだけだ。高く高く昇り詰める。
 黒尾鉄朗は眼を細めて、ニヤリと笑った。
「なまえサンは、いつも自分のネットを上げるたがるね」
「どういうこと? 私がバレーボールしていたら良かった的な感じ?」
 なまえが黒尾鉄朗の言い回しに慣れるのはもう少し先の話である。
「そうじゃないんですけど、そう思っていてくれて良いですよ。幼馴染が、こういう言い回しが好きでね」
 幼馴染を語る黒尾鉄朗は楽しそうだとなまえは思う。まるで自分の見出した宝物を自慢するように。なまえは黒尾鉄朗のその顔が好きだった。
 ふいに黒尾鉄朗が真面目な顔になる。
「もし、バレーボールがなまえサンにとってメジャーなスポーツだったら、バレーボールやっていた?」
「どうだろう。でも、当然、そういう環境は作られる。うちだって、野球やサッカーはあったんだから」
 小さな学校でも、サッカー部や野球部はあった。野球観戦が好きな人も多い。ワールドカップでも盛り上がる。
「バレーボールがもっとメジャーなスポーツになれば、ネットは下げられる?」
 そこでようやくなまえはその意味に気がついた。どうして黒尾鉄朗が、なまえが打つときにネットを下げたのかというとを。
「ネットは下がるさ。黒尾君も下げてくれたでしょ」
 彼はネットを下げてくれた。ただ、なまえがそれで満足するような人間ではなかっただけだった。なまえは、東京にやってきてすぐに電車を乗りこなし、慣れない派遣のバイトをこなし、多様な人々と話をしてきた。ただ、最初になまえに電車の乗り方を教えてくれたのは黒尾鉄朗である。そこから全てが始まった。
「でもさ、最終的には高いところの方が燃えない?」
 黒尾鉄朗はその言葉に同意するかのようにニヤリと笑った。
 そこは小さな海浜公園の片隅。せめぎ合う建物たちの狭間。空が青みがかり、朝日が昇り始める。



 時はたった。みょうじなまえは見事に東京大学文科一類に合格し、天才に囲まれながら揉まれて後期課程では法学部に入り、そのまま国家公務員試験の行政枠の一次試験を合格、高校時代の派遣の経験や大学時代に得たもの、そして何よりも官庁訪問の際の度胸で、二次試験の合格を知らせを確認し、なんとか採用面接まで漕ぎ着けた。
 そこからはコピー取りから始まる激務。しかし、なまえはそれなりに息抜きをしながら過ごし、短期間の出向などを経て今はそれなりの係長を任せてもらう程度には昇進した。
 黒尾鉄朗もそれなりに苦労し、得意の根回しで滅多に人を採らないバレーボール協会に就職することができた。二人の関係はそのままだ。
 なまえが予約した居酒屋で待っていると、黒いコートを着た黒尾鉄朗が慌てた様子で入ってきた。昔はそんなこともなかったのに、だいぶ社会で揉まれているな、などとなまえは思いながら、一応なまえに頭を下げる黒尾に対して、気にしなくていいさ、と軽く答えた。
「とりあえず、忘れないうちに。この前、九州行ってきたので。私の世界にはなかったお城のという言葉に惹かれました」
 九州の和洋折衷菓子。基本的に地元の人に聞くのが一番だと思ったなまえは、おすすめのお土産を担当者に尋ねた。北海道出身というなまえは和菓子に疎いことを正直に打ち明けると、話は盛り上がった。そして、お城に献上していた和菓子屋の看板商品が駅で購入できると聞き、なまえは駅でしっかりとそれを探し出した。
「僕は逆に北海道に行ってきたので買ってきましたよ」
 なまえの目の前に出されたのは、フランスの国旗のような色使いの紙袋。なまえはそれを受け取り、中身を確認した。
「これは、道東でしか売っていないクッキー。流石、黒尾君、わかっていますねぇ」
「帯広だっけ? 店少ないって言っていただろ。丁度帯広で宿泊できたんですよ」
 それは、帯広にしか店舗がなく、新千歳空港ですら購入できないクッキーだった。大人になってからはそうではなかったが、片道三時間以上かかる帯広に行くのは子どもにとってもストレスで、それを知っていたなまえの両親は比較的高価なそのクッキーをご褒美としてなまえに買い与えていた。なまえにとっては思い出深い店の忘れられないクッキーである。
「そうだそうだ。あそこで買ったスイートポテト一人一本完食したの動画で撮ってもらったんだ。最近直接は会っていないけど、研磨は元気?」
「元気元気」
 大学の頃、頑張って黒尾鉄朗の幼馴染を説得して、三人で道東旅行をしたのだ。来るまではノリ気ではなかった孤爪研磨も、移動は基本的に車であり、人も少ない道東は比較的過ごしやすかったらしく、それなりに楽しんでいた。最後には、一人暮らしは少し田舎でしようと思う、と言い出したほどに。
 そして、赤い夕日の見える町で泊まった。
「なまえは本当に東京で働きたいの?」
 なまえは生まれ育った場所で普段より気を抜いていた。細かい時間に振り回されない場所は居心地がいい。それを見破ったのだろうか、猫のような吊り目がなまえを射抜く。
「強くなりたいから」
 好奇心の強いなまえとて、新しい刺激に晒され続ける日々は疲れる。それでも、微温湯の中に浸かっているよりも、高く高く飛びたいと思ったのだ。彼の幼馴染である黒尾鉄朗がいなければ、なまえは心が折れていたと思っていた。なまえとて孤独には耐えられない。
 そもそも、よく黒尾鉄朗に自ら話しかけていたことから察せられるが、みょうじなまえはわりと寂しがりやである。
「でも、なまえなら大丈夫なんじゃないかな」
 自分で聞いておきながら、猫のように気紛れにそんなことを漏らす。
「黒尾君の大丈夫よりも、研磨の大丈夫の方がすごく自信が持てる。ありがとう」
 ただ、その気紛れは彼が口にするだけでなぜか正しいように思えるのだ。素直にそれを口にすると、そう、ありがとう、と目を逸らされて小さな声で返される。
「それ、どういう意味ですか?」
 ズン、と黒尾鉄朗が二人に詰め寄る。比較的身長の近い研磨となまえは黒尾鉄朗を見上げた。
「クロ、おとなげない……」
 遠慮したなまえとは異なり、遠慮なく口を開いたのは幼馴染だった。しかし、黒尾鉄朗はまるで奇術師のように一瞬で表情を変える。先ほどまでの表情が冗談であったかのように。
「ても、やっぱりなまえサンは人を見る目がありますね」
 珍しく胡散臭くない笑顔しているなあ、と心底嬉しそうな笑顔を浮かべる黒尾鉄朗をなまえはぼんやりと見ていた。
 他にも色々なことがあった。つまり、北海道の旅はなかなかの珍道中だった。
「さあて、乾杯しますか」
「とりあえず……絶対多忙な明日に向かって乾杯」
 それぞれ飲みたいものが来るや否や、乾杯をする。
「そういえば、研磨がこの前教えてくれたけれど、幼馴染シリーズの動画再生数では、幼馴染と牡蠣の仙人がトップだって」
 北海道の旅路や、時折三人で集まった際はよく二人は動画のネタにされている。それが幼馴染シリーズだ。ゲームの実況などがメインになる孤爪研磨の動画の中では異質なシリーズである。
「幼馴染とスイートポテトの達人じゃなくて?」
「コメントを音読します。いつもスマートなクロが一人だけ牡蠣上手く食べられないの草」
 厚岸で三人で牡蠣を食べたのだが、何故か何でも卒なくこなす黒尾鉄朗が一人だけ貝柱が上手く取れなかった。コツを掴めば簡単なことなので、わりとなんでもすぐにコツを掴む「クロ」がダメダメだったことはかなり高評価だったらしい。
 当然、なまえも孤爪研磨も相当揶揄って、編集されて動画にされている。
「それ、書いたのなまえサンでしょ」
 確かにそのときに一番ゲラゲラ笑っていたのはなまえである。
「違うよ、私は牡蠣の仙人」
 なまえは基本的にはネタ要員であり、全ての動画で名前が変わっている。当然出てくるのはなまえなので、視聴者からはネタ枠の人という扱いになっている。コヅケン、クロ、よくわからない人で構成されるのがこの幼馴染シリーズだ。多忙ななまえが出演しないものもあるが、なまえがいると再生数が伸びると孤爪研磨は言っていた。
「でも、これも結構伸びているなァ」
 黒尾鉄朗が人の悪い笑みを浮かべる。なまえは嫌な予感がしながらも、一応何かと尋ねてみる。
「幼馴染と試される大地の人」
「なんだっけ」
 そのタイトルを聞くや否や、なまえはわざとすっとぼけることにした。
「コメント読み上げます。試される大地の人、一番にストーブつけてアイス食べていて草」
「寒いときストーブつけないと死ぬって本能が叫ぶんだよ」
 冬の寒い日本家屋で誰が最初にストーブをつけるのか耐久する動画である。なまえは乗り気ではなかったが、身を削るネタのわりには研磨が乗り気だったので、なまえは仕方なく参加した。そもそも、なまえは孤爪研磨の住む古い日本家屋の冬は大嫌いだ。なるべく寄り付きたくない。
「アイス食う必要あったか?」
「ある!」
 当然研磨の家にアイスクリームはない。アイス買ってきた、と極寒の夜にアイス持参でやってきたなまえに、研磨はなまえは期待を裏切らないと言って笑った。
「そういえば、うちでもユーチューバーやろうっていう話になっているんだ」
「ただでさえお忙しいのに、またネットを上げるんですか」
「だって私と黒尾君が高く飛べば、ネット下がるでしょ」
 黒尾鉄朗の言葉の意味も今ならわかる。さすがにここまで付き合いが長いと、下手なバレーボール経験者よりもバレーボールを理解してしまうし、彼の思考をいつまでも理解できないほどなまえは馬鹿ではない。
「高く飛ぶには助走がいるな」
 ニヤリと笑う男を前にして、そうだね、となまえも笑う。
 お互いに出張が多く、二人で飲むときにはそれぞれの目でみた情報を交換する。官僚とバレーボール協会。全く違う仕事だが、通じる部分も多い。閉店まで話題が尽きないほどに日本は広い。走り回っても走り回っても、夢見る明日は遠い。

企画 :

朝日の見える都会
back
list
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -