なまえは音駒駅で迷路のように入り組んだ路線図を見ながら、切符を買った。切符を買わずに入場している人間が多く、なまえは切符を買い終えると黒尾鉄朗のパスケースを見た、
「これが噂のICカード」
「拘りないんだったら、SuicaでもPASMOでも良いけれど、どっちがいい?」
 黒尾鉄朗は自分の持っていない方のICカードの写真をスマートフォンで見せた。
 東京で買うことのできる二つの交通系ICカードであるSuicaとPASMOは機能はほとんど変わらないため、どちらでも構わないらしい。音駒駅ではPASMOしか買うことができないと黒尾鉄朗は言った。
「ペンギンかわいいから、Suicaがいい」
 なまえにわざわざ切符を買わせたのは、どちらか選ぶことができるようにするためだったのだろうか。なまえを見下ろす顔には通常の無表情が浮かんでいた。とても細やかな気遣いができそうな顔ではないが、黒尾鉄朗という人間が気遣い屋であることになまえは気がついていた。
 教師すら距離を取る転校生と友達になってくれた人間。
「みょうじさんの口から、動物がかわいいとかいう普通の言葉が出るって……」
「何さ。動物は好きだよ。ペンギンは水族館に行かないと見れないからいいよね」
 ペンギンはなまえの生活圏内で見ることができなかった。特にアデリーペンギンについて、なまえは実物を見たことがない。とりわけ動物が好きな方というわけではなかったが、なまえは人並み以上には動物が好きだった。
______東京だったら色々な種類のペンギン、動物園や水族館にいるのかな。
 なまえはとりわけペンギンが好きなわけではないが、ほんなことを考えていた。しかし、黒尾鉄朗はそんなぼんやりとしたなまえとは違い、若干口元を引き攣らせていた。
「むしろ、その辺にいる動物とは?」
「リスとかキツネたかシカかな」
 とりあえず、週に一度は必ず目にする動物について挙げた。他にも色々いるが、なまえの中の選抜メンバーの中には入らなかった。それだけなまえの生活圏内には動物が多かった。
 なまえは随分あとに知ることになったが、この時黒尾鉄朗が危惧していたのはヒグマであり、なまえはヒグマを見たことがあった。オスのヒグマの移動距離を考ると、姿を見たことがない人が大半であったとしても、身近にいないということはあり得ない。しかし、なまえも毎週ヒグマを目撃しているわけではないので除外した。これは黒尾鉄朗が被弾せずに済んだ数少ない爆弾発言の一つだった。
 Suicaを購入して歩き回る。都心の店にはなまえの名前の知らない物に溢れていたが、大概の場合はポップ広告や商品の裏面に使い方が書いてあり、なまえは一々感心した。買い物客に親切である、と。そして、なまえが感動したのはそれだけではなかった。
「この中で、選抜された新商品がうちの地元とかに並ぶわけだ。こんなにたくさんの物から選びとる東京の人すごい」
 当然、商品はしっかりと企画されて製造されているだろうが、使ってみないとわからないものというものは多い。それを購入し、使用し、使えるものを広げていく。そうして、本当に使いやすいものだけが生き残り、それがなまえの地元などの狭い陳列棚に並ぶ。東京の人のセンスで、なまえたちは便利に買い物ができているのだ。
「なんか感動するところズレてないですか?」
「そんなことない。東京の人はすごいよ」
 遅くなる前に帰路に着く。平日の帰宅ラッシュの時間帯と被ったせいかギリギリまで押し込まれる。
「黒尾君、駅員さんめっちゃすごいね。容赦なく人をこんな空間に詰め込むって。今は旅行帰りの鞄に詰められて無理矢理体重かけてジッパー閉められた鞄の中の日用品の気分」
「あ、そーですか」
 ほぼ体は動かせないが、背の高い黒尾鉄朗の姿はすぐに見つけることができる。黒尾鉄朗はなまえの言葉に一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに真顔に戻った。黒尾鉄朗だけではない。皆、人に押し潰されながらも平然としている。
 なまえは素直に感動した。
 満員列車からの改札口。
「そういえば、そろそろなまえって呼んで」
「なまえサン? でいいわけ?」
 黒尾鉄朗は口元を引き攣らせる。
 なまえはなまえであり、なまえと呼ばれてきた。なまえはさん付けされることはほとんどなかった。一学年数人、全校生徒は音駒の一学級程度。その上、複式学級だったため、みんなそれぞれの兄弟姉妹も知り合いであり、ゆえに名前で呼び合う。
「そーそー、そんな感じ。別にさんはいらないけれど、黒尾君らしいからいいや」
 なまえはにっこりと笑った。
 さん付けは余所余所しいと思ったが、目の前の妙に真面目なくせにどこか胡散臭さがある男の言う「なまえサン」はなまえにとって悪くない響きだった。



 ICカードという文明の利器を手にしたなまえは、電車とバスに乗ることができるようになった。存外東京の町というのは余所者に優しく、看板表示インターネット、あらゆる情報がなまえをサポートしてくれる。そもそも、江戸という僅か三百年足らずの都が発展したのも、地方から人が集まったからである。そして、今も集まり続けている。地方民に厳しければ東京は成立しない。そういう点においては、なまえの地元の方が余所者には間違いなくハードルが高い。
______中標津は号線基線でわかりやすいけど、別海の道路って何であんなにわかりにくいんだ……湿地だからだろうけれど。風景変わらないし、目印もない。
 なまえは育った場所について黒尾鉄朗にはだいぶざっくりと説明をしていた。そもそも、音駒での生活よりも生活圏内が格段に広いのだ。なまえはとりあえず根室振興局と釧路総合振興局管内を生活圏内にしていたが、二市十町一村しかないその面積は、北海道全体の二十パーセントに近い。その圏内でさえどうにもならないこともある。
 なまえは、生活する上で地理的センスを要求されていたため、東京を右往左往するのにそれほど困らなかった。



 灼熱の夏がやってきた。七月、ジャージを脱ぎ捨てクラスTシャツにハーフパンツ、首元にはネッククーラー。手元には水とアクエリアス。鞄にはパチパチ弾けるキャンディー。
「なまえサン、目、だいぶイッていますけど、大丈夫ですか?」
「うちの地元もさ、三十度超えることはあるよ、一日くらいは……」
 北海道は涼しいと言われているが、日本の最高気温を記録することもある。特に北見や陸別などの内陸は日中気温が高くなる傾向にある。しかし、なまえのいた根釧大地を含む室蘭から根室にかけての太平洋側の海沿いの夏は基本的に濃霧の日が多く、冷涼だ。それでも、三十度近くにいくとはある。そして、窓が小さいため風がほとんど通らない。しかしながら、それはあっても一日や二日程度である。そして、それだけではない。
「でも、東京はさ、おはようございます、ハイ、三十度でしょ」
 全国ニュースの最高気温でトップランクに入ることの多い町でさえ、最低気温は低い。つまり、黄昏時から明け方にかけてはそれほど暑くない。それが東京だと、夜になっても全く気温が下がらず、朝方ですら不快なほどに気温が高い。それが、なまえを寝不足にさせた。
「あと、なんか風が不快。人を殺しにかかってくる」
 また、なまえの知る夏では、晴天時の風は基本的に乾いている。ゆえに、熱と湿気を帯びた風が扇風機でかき回されているだけの空間になまえは相当参っていた。これならば一層の事干からびさせてくれ、となまえは強く思った。
「人間様でもこんなんなんだから、夏野菜の甘みも薄くなるよね」
「はぁ」
 なまえが溜息混じりにそう溢すと、鉄朗は意味がわからないようで首を傾げていた。
「セーブツでやらなかった? 植物の光合成には温度で活性化するけれど、呼吸量も上がるから、トントンのところで落ち着かないといけないってやつ」
 黒尾鉄朗はそれだけの説明でじゅうぶんのようだった。しかし、なまえはダラダラと話を続ける。頭の中まで参っているのだ。
「だから、呼吸で炭素失うだけの夜に気温が下がらないってそれだけで不利なんだよ。寝不足にはなるし、何一ついいことはない。とりあえず、私もトマトも消耗するだけ」
 加えて甘みの少ない夏野菜はなまえに追い討ちをかけた。なまえのいた根釧大地はその厳しい気候から畑作には不適であり、蕎麦やジャガイモや小麦くらいしかとれなかったが、西に進んで天馬街道を通ればいずれ平取に着く。なまえがフェリーに乗った苫小牧も平取の近くだ。つまり、なまえの生活圏内にも平取のトマトは流通していた。
 なまえは怠い体を動かして、鞄から缶を取り出す。自分へのご褒美用だったが、家に帰ればストックがある。
「何これ」
「いつもお世話になっている黒尾君にとっておき」
 それは、トマトジュース。ぐったりとしているなまえを見かねた両親が取り寄せたものだ。とはいえ、両親も飲んでいるため、なまえは当人たちも飲みたかったと解釈していた。ていのよい理由だったのだ、と。ただ、それゆえにいくら飲んでもあまり怒られることがなく、なまえはトマトジュース貴族生活を満喫していた。
「甘いな」
 黒尾鉄朗はぐるっと缶を回して製造地の確認をしていた。それは普段のなまえのよくやる癖のようなもので、本来黒尾鉄朗はあまりそのようなことをしないのだが、なまえは気が付かない。
「そう。そうなんだよ。私は音駒のジャージみたいな色のトマトが食べたい」
 なまえは音駒高校のジャージを見たときびっくりした。赤色のジャージが珍しいわけではないが、その赤は小豆のような赤ではなく赤以外の言葉で表現できないようなどこまでも純粋な赤色。なまえはその赤色が好きだった。
 そんななまえに黒尾鉄朗は呆れ顔で言い放つ。
「なまえサン、ジャージ黒でしょ」
 なまえのジャージは前の高校のものであり、その赤の中で一際目立つ烏のような黒色だった。



 夏休みに差し掛かろうとしたその頃。暑さには慣れていないが、なまえは体のだるさには慣れてきた。机の上に溶けるようにして上半身を広げて授業を受ける様子は怒られてもおかしくないのだが、なまえの顔色の悪さにどの教師も黙認していた。
「黒尾君、東京の派遣バイトめっちゃ楽しい」
 休み時間開始のチャイムと共に突然の言葉。
「何が?」
 隣の黒尾鉄朗は、若干口元を引き攣らせながらも必ずなまえの話を聞いてくれる。なまえはクラスメイトの中で彼の真面目さを一番悪用している自覚はあった。
「直近で感動したのは、そう、京急ってあるじゃん」
「なまえサン、JR以外の鉄道会社名覚えたんだ。しかも、たまに国鉄って……」
 なまえは様々な路線に乗るようになった。JRを国鉄と言っていたなまえからすると、かなりの進歩である。なまえもさすがに国鉄は古いと思い、JRと呼ぼうと気をつけていたのだが、何かの拍子で漏れてしまった。その時の黒尾鉄朗は一瞬全ての動きを停止し、一拍おいた後に笑った。そして、今も若干腹の立つ笑みを浮かべている。
「いや、黒尾君が教えてくれたんでしょ」
 何で並行して走っているの、などと初歩的な質問から始めるなまえに、なんとかかんとか東京の鉄道事情を教えたのは目の前の人間である。
「こっちきてから何度か電車の連結見ているんだけどさ、本当に連結が速い。時刻表とか車両数とか見るたびに感動するんだけど、連結が本当にすごい」
「鉄オタですか?」
「え、だって、バイトで電車使うんだから、普通気になるよ」
 いつもに増して雑な返事に、なまえは言い返す。
「あと、色々な人がいる。連絡先増えた」
「はァ? 知らない人に連絡先教えてるんですカ?」
 ガタンと音がしてそこでなまえは黒尾鉄朗が立ち上がったこたに気がついた。高身長ゆえに影が差す。その高い視点から見下ろされ、威嚇にも近いその状況で、なまえは冷静だった。
 ヒグマを前にしても冷静に行動できたなまえはちょっとやそっとのことでは冷静さを欠くことはない。
「一度一緒にご飯食べたら知っている人だよ。それに、LINEじゃなくて別アプリ使っている」
 世の中にはSNSが溢れている。なまえはそれを上手く使い分けていた。
「元々東京の人もいれば、そうではない人もいて、そういう話を聞くのが楽しいんだよ。仕事内容もバラバラ、業種によって人の気質も違う。あと、面倒くさそうな人には教えていないから」
 なまえが東京に来て最も重要だと感じたのは情報であり、また、自分に最も不足していると感じたのもそれだった。この時点でそれを自覚できたことで、彼女の人生は大きく変わった。そして、それだけではない。彼女はこの一年間で多様な人々と出会った。
「だって、さすがにまずい人はすぐわかるから」
 そう言って黒尾鉄朗を見上げる。すると黒尾鉄朗は何を思ったのか椅子に座って、ハイハイ、と勝手に納得した。その眼が彼の幼馴染のソレに似ていたことをなまえが知ることはなかった。



 夏休みの補講でたまたまなまえは黒尾鉄朗と被った。補講といっても成績不振者が受ける補講ではなく、成績優秀者が受ける補講である。二人とも音駒高校においては勉強のできる方だった。
「なまえサン、夏休みどう?」
「バイトに専念している。黒尾君は?」
「バレーの合宿とか」
 そういえば、埼玉の比較的標高の高い高校に合宿に行くとか言っていたか、となまえは思い出す。
「へぇー、遊びに行ったりはしていないの?」
「しませんでしたね。これでも、受験生とバレー部主将を両立する品行方正な生徒ですから」
 なまえは前の学校のジャージにクラスTシャツ、目の前の黒尾鉄朗はしっかりと音駒のジャージとシャツを着ている。言われてみれば品行方正である。トサカみたいな頭も整髪剤の匂いがしないところからすると髪質が何かなのだろう、となまえは勝手に解釈していた。
「じゃあ、水族館行こうよ」
「なまえサン、僕の話を聞いていましたか?」
 むしろ、その話で、多忙な黒尾鉄朗に声をかけられるのは今しかない、となまえは思っていた。
「ペンギン見たい。涼しいところの生き物を見たい」
 なまえはSuicaを見せる。水族館に行けば、馴染みの生き物にも会えるだろう、となまえは思っていた。



 なまえはイルカを見ながら車から見つけたイルカを思い出していた。おそらく今でも涼しいあの大地の生き物たちは元気だろうか、と生まれ育った土地に思いを馳せた。
 また、なまえにも発見があった。
「こんなに近くでラッコを見たのは初めてだ。かわいい顔しているね」
「生は全然違うデショ?」
 なまえは首を傾げる。なまえはラッコは見たことがあった。それこそ水槽越しでもなく、生のラッコを。
「野生のラッコで遠くの方でしか見えないから」
「北海道って野生のラッコいるんですか?」
 黒尾鉄朗は呆れ顔だ。なまえは黒尾鉄朗の言動に納得がいき、すぐにスマートフォンを取り出した。
「ラッコなら霧多布にいるよ。帯広よりも近い」
「なまえサン、ポンポン地名出すのやめてもらえます?」
 ほら、ちゃんと教えて、などと黒尾鉄朗は急かしてくる。本当に何に関しても興味を持つ人だな、などとなまえは他人事のように思いながら、お馴染みの地図アプリを出す。
「霧多布は厚岸。近くで美味しい牡蠣が年中獲れる。そして、浅利が大きいんだ。帯広は道東で一番栄えている都市だよ。遠いけど、物によっては帯広の病院まで行かないといけないことまあるから。片道三時間はかかるけど……」
「三時間?」
 それでも時間は短縮されたのだ。高速道路は阿寒まで伸びている。
「病院、選ばなければあるよ。ただ、こっちに山ほどある診療所的なものはほとんどなくて、各市町村に大きな病院が一つしかないし、マイナーなやつはないね」
 なまえはあまり育った場所の悪いところは言いたくはなかった。病院なんてたくさんあるに越したことはない。相性の悪い医者がいても患者側の選択肢はないことも多い。なまえにとって、病院はあるだけありがたい存在だった。ただ、それは理解されないだろう、とある意味諦めていた。
「そういう環境だと、なまえサンのように強くなれるの?」
 珍しくなまえは黒尾鉄朗の言葉に目を丸くした。情報に驚くことはあっても、彼の感想に驚いたのは初めてだった。
「私が強いかどうかはおいておいて」
 湧き上がる熱い感情を覚ますかのように空気を吸う。夏のせいだろう、全く熱は冷めない。
「うん、なんでもないや」
 彼は自覚を持っていないのだろう。気遣いをしているわけではない。むしろ、気遣いをすると「大変」だとかいう言葉が出てくるはずだ。ただ、黒尾鉄朗は哀れまない。揶揄うことはあれども、なまえを構成する一部であり、大切なものを哀れまない。ただ、そこで生きてきたなまえを肯定するだけである。
 どれだけ東京が魅力的であったとしても、それでなまえの知る世界の価値が落ちるわけではない。どれだけ高いビルを見ようとも、なまえにとって「赤い夕日が沈む町」が永遠の都会であるように。



 新学期が始まった。しかし、なまえの中で夏は続いていた。相変わらず机で溶けていたが、ふとあることを思い出す。
「生のシャチとクジラは見たことあるけれど、生のバレーボール見たことない」
「突然何ですか、なまえサン。冗談はもっと笑えるやつにしてくださいよ」
 なまえは黒尾鉄朗を見ながら、少し考えた。さすがのなまえも東京にあるものとないものがわかるようになっていた。なまえの家から見えるものではなかったが、車ですぐ行ったところで、シャチもクジラも運よく見ることができた。なまえがよく車の外を見ていたことにも起因するが。
「本当に見たことがない。部活なかったし、授業もなかったし、近隣の高校ではバレー部あるところもあったけれど、人数揃わない年もあった」
 ただ、バレーボールについては、そもそも中学にも高校にも部活がなく、当然クラブチームもなかった。なまえは音駒高校の部活一覧を見て驚いたのだ。
「六人いればできるはずなんですけど。あと、シャチっているんですか?」
「いる。あと、バレー、野球とかサッカーほど、メジャーじゃないから」
 付け加えられた質問に適当に答えつつ、人数は関係ないことを告げる。すると、メジャーという言葉で黒尾鉄朗の眉が少し動いた。そして、目を丸くして、その目が細まったかと思えば、口元が弧を描く。その表情の変化をなまえは確認こそできたが、思考をなかなか読ませてくれない目の前の男の考えたことを理解することはできなかった。
「じゃあ、ちょっと昼休みやってみる? サーブだけだけど」
 黒尾鉄朗はニヤリと笑った。



 ネットを張る手伝いをできないのをもどかしく感じないくらい、黒尾鉄朗のネットを張る作業は無駄がなかった。それだけでも、なまえは素直に感動した。
 そして、バレーボールを高く上げて助走をつける。そして、そのまま自身も高くジャンプし、次の瞬間にはネットの向こうにボールが叩きつけられた。体育館の床ってこんな音がするんだ、などとなまえは目の前の情報の多さに混乱していた。
「すごい。黒尾君、スポーツ選手みたい」
 ジャンプをしているときの姿勢はまるで止まっているかのようだった。あの姿勢を空中で保つのは難しいことは、全くバレーボールをやったことのないなまえですら何となくわかった。
 私もやってみる、とバレーボールを手にしたなまえは黒尾鉄朗の静止もきかず、アンダーハンドでサーブを入れようとした。
「入らない」
 バレーボールはネットに派手に当たった。
「そりゃ、男子と同じネットの高さだからな」
 女子は少し低いから、と黒尾鉄朗は言いながらネットに近づいた。
「こうやってネットを下げて。まあ、なまえサン、初心者だからこのくらいですかね」
 ほら、打ってみて、と黒尾鉄朗に言われて、なまえはもう一度アンダーハンドのサーブを放つ。
「入った」
 ギリギリだったが、ネットを越えてボールはコートに落ちた。なまえはボールを見た。そして、ネットに視線を移す。
「でも、なんか悔しい」
 なまえに笑顔はない。
「こういうときって、嬉しくない? 俺がおかしい?」
「だって、高いネットでできた方が格好いいじゃん」
 なまえはキョトンと首を傾げる。飛ぶなら高く飛びたいし、障害物だって高ければ高い方が乗り越えたときの達成感は強い。
「なまえサンは俺の想像の一歩か二歩は必ず先にいきますね」
 何かを思い出すように、何かを咀嚼するように、なまえの方を見ずにネットを見ていた黒尾鉄朗の横顔をなまえは見た。その眼は据わっていた。なまえは今までの黒尾鉄朗にない、彼の奥底にある何かに触れてしまったような気がして、なんかごめん、ととりあえず謝った。
「あっ、こっちの話だから気にしないで」
 取り繕ったような笑顔のはずなのに、元が元なので不敵な笑みにしか見えない目の前の男が面白くて、なまえは何故か笑ってしまった。
「なまえサンは何かスポーツやっていたんですか」
「特に何かしたいことがあったわけではないから、学校の授業の延長でスピードスケート」
「それこそ、マイナーなんですけど」
 なまえはテキパキとネットを片付ける黒尾鉄朗の姿を見ていた。このときのなまえは、この日の出来事が彼の将来に繋がるピースの一つになることを知らない。

アデリーペンギンの可能性
back next
list
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -