荷物は運び込むだけだったから、すぐに終わった。誰の部屋でもない一階の座敷に全ての荷物を運び込み、その部屋を暫定的に及川さんの部屋にすることになった。小さいが座卓もあるから、一応勉強もできるはずだ。布団はもともと客用のものがあったから、問題はなかった。
「本当にありがとうございます」
「いーえー、だって、うちの要を選んでくれたんでしょ」
何度も何度もお礼を言う及川さんに、母は笑顔でそう返した。
時計は十時をまわっていた。二人目の兄が風呂に入っている間、母と俺はお風呂の順番待ちをしながら及川さんとテーブルでお茶を飲んでいた。
茂庭家は食卓からテレビが見えない位置にあるので、父と一番上の兄は少し離れたソファーからテレビを見ていた。一番上の兄は決して寡黙ではないが、三兄弟の中では一番父に似ている気がする。二人はマイペースだ。
マイペースといってもそもそもうちは家族全員マイペースで、家族が誰かを連れてこようが特に変わらない生活をする。平気で風呂に入るし、気がついたら一緒にいつも通りのご飯を食べている。でも、その中では特に父と一番上の兄がマイペースで、二番目の兄が誰に似たのか気遣い屋だ。
「ところで及川さんさ、明日、ガッコー終わったらバレーしない」
「ちょ、母さん」
ところで、という言葉で言い表せないほど話が飛躍している。父と母だと父の方がマイペースだが、母がマイペースではないと言ったら全力で否定する。特に人を巻き込むタイプのマイペースだから性質が悪い。
「男女混合社会人バレーボールサークル。初心者歓迎」
及川さんは唖然としている。当然だ。及川さんは母がバレーが好きなことすら知らないし、知っていたとしても唐突すぎる。バレーボール好きがみんな母さんみたいならチームは成り立たない。
「あ、あのさ、これ挨拶みたいなものだから、普通に断ってもいいよ」
帰りの車で言っていたなんてことを思い出す。最初から目をつけていたのだ。ただ、及川さんだって事情があることは俺も知っている。
「疲れるだろうし、ただでさえ色々なことが変わるし、陸上もやっているんだから」
部活が終わってからバレーをしていたらいつ勉強すればいいのかわからない。大体、陸上部ってずっと体を動かしているんだからめちゃくちゃ疲れているに決まっている。だから、俺は普通に部活や時間を理由に及川さんは断ると思っていた。
「バレーは、徹、兄弟がやっているから」
及川さんはそれだけ言って黙り込んだ。母はそう、とあっさり引き下がった。それに対して違和感はあったが、俺の意識は母親には向いていなかった。
及川さんがクラスマッチの前にクラスメートとたくさん練習したことはわかる。速攻なんてセットアップも打つ方も素人ですぐにできるはずがない。試合中、男子ばかりの中で誰よりもボールに触っていた。
試合の後の嬉しそうな笑顔は今でも覚えている。バレーボールが嫌いだったら、あんな笑顔を見せてくれるはずがない。
「及川さんさ、及川くんに気を遣っているのかもしれないけど」
及川さんと及川徹の関係はわからないし、すぐに聞くつもりもなかった。ただ、単純な関係ではないことだけは何となく察していた。
「母さんのバレーボールサークルは高校とかと全然関係ないから。だから、嫌いじゃないんなら」
ただ、もし、本当はバレーボールをやりたくて、できないことが及川徹が原因だったら、それはすごくもったいないと俺は思った。だって、バレーは楽しいから。
上手じゃなくたっても楽しいから。
「行ってみたいです、けど、先にもっと決めないといけないこと」
及川さんは、いつも意思を伝えるときと同じように、一言一言確かめるかのように言葉を発した。
「ゆっくりやっていけばいいんじゃないかな」
母は及川さんの言葉を遮ってそう言った。俺も同じことを思っていた。及川さんはまだまだ時間をかけて、色々なことを考えないといけないような気がした。まだ、今日色々なことがあったばかりで、気持ちの整理もつかないだろう。
俺と母なんてまだ風呂にも入っていない。
「とりあえず、バレーしようよ。明日から」
「全然ゆっくりじゃないよね」
まだじゅうぶんに荷解きもできていないのに、体育館シューズ出しておかないと、などと言いながら、幾多もの箱の中から体育館シューズの入っている箱を一発で開けた母を見て俺は呆れてしまったが、及川さんは少しだけ目を丸くして、そして笑うのを我慢するように口元を綻ばせた。だから、俺もまぁいいかなんて思ってしまって、笑ってしまった。
風呂から出てきた二番目の兄が母と入れ替わるように座敷に様子を見にきて、なぜ体育館シューズしか出ていないんだ、と至極真っ当なことを言ったので、俺は、犯人はもう風呂場に向かったあとです、と答えた。
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