日陰の向こう

日陰の向こうの日向


 父が帰ってくる時間はいつも同じだった。だから、その日はその時間に一階に降りた。徹と妹はまだ帰ってこない。私の予想通り、一階に下りると徹はいなくて、母と父しかいなかった。積み重ねてきたマークシートと記述の模試は、誰でも知っている有名な塾の全国模試だ。手で触れている部分は手汗で柔らかくなっていた。

 父はテレビを見ていて、母も夕食の支度が粗から終わったのか隣に座っていた。

「お父さん、話したいことがあるの」

 父に話しかけたのは何年ぶりだろう。声が上ずる。だめだ、と思いながら大きく息を吸い込む。

「お母さんも来て」

 なんだ、と父は少し驚いたように目を丸くして、母ですら突然どうしたの、と問うた。私は手に持っていた模試の結果を父親に手渡した。手が震えていた。

 父はそれをパラパラとめくった。ちゃんと目を通してくれているのか私は不安になった。

「私、大学に行きたいの」
「無理だろう、大学なんて」

 父はそう言うと、模試の結果をテーブルに投げ出した。

「私、高校に入ってから、勉強して」
「工業高校なんて中学校の復習みたいなものだろう」

 父はそう断言した。

「そんなことないよ」

 伊達工業高校は県内に複数ある工業高校の中では進学率が高く、その中でも化学科は進学率も高い。そんなこと仙台出身の父親なら知っていてもおかしくなかった。実際に授業は進学校ほどではないものの、普通に教科書どおりにおこなわれる。だから、妹の勉強だって見ることができるのだ。
 そして、今見せた模試は進学校の生徒も受けている。私の勉強が遅れているわけではないのはすぐにわかるはずだった。

「東北大学なら、家から通えるから。お金に問題があるなら奨学金も借りる」

 三年前のことを思い出す。反対される理由は全て潰したはずだった。

「だめだ」

 ただ、父は吐き捨てるように言った。そこには明らかな嫌悪感があった。
 分かり合えない。
 どこからともなく湧き上がってきた言葉が脳を支配する。父がまるで違う生き物のように思えた。頭が熱くなる。

「ただ反対するだけじゃ納得できない。反対する理由があるならちゃんと教えて」

 自分でも驚くような言葉が出た。三年前には言えなかった言葉だった。それは怒声に近く、とても私自身が発したものとは思えなかった。

「これが嘘だからに決まっているだろう」

 頭の中が真っ白になった。手がわなわなと震えて、叫びだしたくなった。

「嘘じゃない」

 私が今までに嘘をついたことがあるだろうか。信用に足りない行動をしたことがあっただろうか。私の記憶の中にはなかった。不器用だから、せめて誠実に生きてきたつもりだった。

 絞り出した声は空間をつん裂くような奇声だった。体から湧き上がる感情を制御することができなくて、「家族」に暴力で訴えるしかないと判断した体を制御することはできそうにもなくて、私は僅かな理性を絞り出して部屋から飛び出した。視界の隅に徹が映ったような気がしたがそんなことはどうでもよかった。
 絶望が頭を殴り続ける。
 私を育てたこの人に、この世界に在る私が否定されてしまったら、私がこの世界に在る必要はあるのだろうか。

 気がついたら駅前にいた。喉と足が痛かった。でも、そんなことはどうでもよかった。電車が走っていく。私の頭はグラグラと揺れているのに、世界はいつもと変わらず人が行き交っていた。私は駅前で立ち尽くした。冷たい風が吹いているように思えたが、遠い世界の出来事のように思えた。

 ただ、声が聞きたかった。私を世界に引き戻してくれるであろう声を。
 震える手でスマートフォンを触ると、すぐにその声は聞こえた。

「茂庭くん、今、家を出てきた」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。どうしたの、とそう問われる。

「どうしよう。家に帰れない。ごめんね、どうしようもないのに」

 何を言えばよいのかわからなかったが、言葉だけは口から出てきた。ただ、声は怒りと絶望で震えていた。私が何を言っているのかわからないのだから、きっと茂庭くんなんてわかるはずもなかった。今日のことを話していたわけではもないのだから。
 ただ、茂庭くんは言った。

「駅で待っていて」

 電話が切れた。

 涙でぼんやりと滲む光の先には改札があった。私は改札をくぐった。たくさんの人の視線が集まっているのがわかった。ただ、そんなことはどうでもよかった。ただ一刻も早く助けてほしかった。この世界から。

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