日向の向こう

日陰の向こうの日向


 嘘だからに決まっているだろう、という父の怒号。嘘なんて吐いていない、という聞いたこともないなまえの声。すぐにリビングのドアが乱暴に開けられて、なまえが飛び出してきた。

 薄手のグレーのパーカー一枚。玄関の扉が開いて冷たい風が吹き抜ける。母の悲鳴、父の怒号を背に、振り返りもせず、なまえは家を出て行った。俺のことを一瞥すらしなかった。ただ、わなわなと震える背を向けながら靴を履いて、静かに家を出て行った。

 俺のことなど気がつかないようななまえに、俺は何も言えなかった。どうしたのかということすら、問うことはできなかった。本当に幼い頃は、今ほど聞き分けのいいおとなしい子どもではなかったことを、すっかり忘れていたことに気がついた。

「ねぇ、何があったの」

 リビングに入る。父親はソファーに腰掛けていて、母親は絨毯の上に力なく座り込んでいた。テーブルの上にはA3の紙が数枚置いてあった。

 父は吐き捨てるように言った。

「いきなり東北大学に行くとか言い出したんだ」

 東北大学といえば、東北地方一番の大学だ。地元の大学にも関わらず、青葉城西高校からは特別進学クラスから毎年一人か二人進学するだけだった。

「なまえは工業高校だろ」

 伊達工業高校のような実業系の高校から進学するような大学ではない。高等専門学校からの編入ならともかく、国立大学を想定したような一般入試の勉強は工業高校では行われていないはずだ。

 俺はテーブルに目をやった。テーブルの上には二色刷りの紙が何枚も並べられていた。

「何これ」

 それは模試の結果だった。有名な塾の全国模試の結果が何枚も並べられていた。マークシートと記述。第一志望は東北大学理学部化学科。どれも目に入るのはA判定という文字。その隣には信じられないような偏差値が記載されていた。

 思い当たることがないわけではなかった。進学校に通う妹が勉強を教えてもらっていた。週末には模試を受けていたのだろう。週末、部活があったとは思えない軽装で夕方に帰ってきた日があった。

 ただ、同じ家で暮らしながら、なまえと話した記憶は、もうどこにもなかった。そういえば、工業高校に進学した理由も知らない。俺はなまえについて勝手なことを思い込んでいるだけで、何も知らないことを理解した。

 なまえがバレー部の強豪校のセッターと付き合っていたことすら、俺は知らなかった。今でも、なまえの口から聞いたわけではない。

 かつて隣にいた俺の双子は、いつの間にか俺の知らないところへ消えていた。俺に何一つ話すことなく、いつの間にかなまえは俺の知らない人間になっていた。

 頭を鈍器で殴られたような気分だった。なまえにとっての俺は何なのかと考える。俺に一瞥もせず家から出て行ったなまえ。今日の日中のことなど彼女にとっては些細なものであり、彼女にとっての俺の価値はその程度なのだ、と。その事実を俺は認められなかった。

 心の中がドロドロとした何かに満たされていくような気がした。

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