車の音がした。重い体を起こして、階段を下りた。まだ玄関には誰もいない。玄関のドアの向こうから話し声がした。そして間もなくチャイムが鳴る。

 真っ先に目に入ったのはなまえの彼氏である茂庭要ではなく、その隣に立つ女性だった。

 その女性は背が高かった。体格はがっしりとしていたが、その背の高さからすらりとした印象を受ける。背筋の伸びた堂々とした姿勢と明るい表情から、三十代前半に見えた。顔は息子とは全然違ったけれど、はっきりとした髪の色だけが同じだった。

 顔立ちが整っていたわけではなかった。ただ、なぜかその姿は目を引く。玄関まで出てきた父と母の方を見ると、その視線は息子の方ではなく母親に釘付けだった。

「突然申し訳ございません。私、茂庭と申します。いつもうちのグソクがお嬢さんには大変お世話になっておりまして」

 その佇まいから、隣に立つ息子の方が少しばかり背が高いのに関わらず、彼女の方が大きく見えた。

「及川さ……なまえさんにはいつもお世話になっています」

 茂庭要は父と母にはにかむと、俺に会釈した。体育館でも目立つ方ではないけれど、目の前にしても拍子抜けするほど普通で、目の前の女性の息子とは思えなかった。彼女の家に初めて来たというのに変な緊張感もなかった。それこそがまさに平凡とは程遠いものだけれど、俺にはそれがわからなかった。
 なまえのことがわからなかったから、彼女が選んだのか選ばれたのかもわからない。ただ、その平凡さはなまえとはかけ離れていて、なまえがわざわざ選ぶ理由もないように思えたし、茂庭要がなまえを手に入れようとするような人間にも見えなかった。

「息子が突然綺麗なお嬢さんを連れて帰ってくるものですから、私、びっくりしてしまいまして。ご連絡が遅くなってしまい申し訳ございません」

 ご心配だったでしょう、と。
 そこでようやく、娘が一人で飛び出したわりには、両親が娘の安全よりも別のところに気を取られているのが異常だと俺は気がついた。小さい頃は、俺が喘息持ちで大変だったのだから、なまえに手がかけられなかったのもわかる。ただ、今は違う。

 薄手のグレーのパーカー一枚。駅までは歩いていけるといえ数分かかる。寒かっただろう。なぜ母は追いかけなかったのか。二人は連絡を取らなかったのか。それを想像したことを俺は後悔した。それに俺も加担していたのに関わらず。

「お嬢さん、動揺しておりまして。うちの子、お嬢さんの子ことを心配していては勉強にも部活にも身も入らないと思うので。落ち着くまではうちから高校に通わせても良いですか」

 席につくや否や、そう切り出したその人に、その方が幸せなのかもしれない、と思った。俺はその場にいながら、天井からそれを俯瞰しているような気がした。

「ご迷惑をおかけするわけにもいきません。それに、変な噂が立つとお互い困りましょう」

 普段は何とも思わない父の言葉も、後半の本音がひどく浅ましく思えた。

「我が家は食べ盛りの男三人兄弟ですから、一人お嬢さんが増えたところで何も変わりません。変な噂も気にするようなことではありませんよ」

 父の言葉をのらりくらりと躱しているのか攻めているのか。茂庭要の母親は強かった。自分は絶対に正しいことをしていると信じているかのように、その姿勢がブレることだけはなかった。

 茂庭要は俺の母に勧められるがままにパクパクとチョコレートを食べながら、母と小さな声で何かを喋っていた。母はこの冴えない男の何かを気に入ったらしい。母がくすりと笑っているのを横目で見ながら、それが何かなんてわからずに、俺は父と茂庭要の母親の話の決着がつくのをずっと聞いていた。

 最終的に、父が折れた。最低限必要なものを、という茂庭要の母親の言葉に、父は何も言わなかった。なまえの数少ない私物を運び入れながら、もうなまえはここに戻ってこないのではないかと思った。茂庭家の車は最初からその心算だったのかシートが倒されていて、それがより一層その思いを強くした。

 荷物を運び入れている最中も、茂庭家の二人のことが気になって仕方がなかった。

「あの」
「何」

 だから、荷物を運んでいる最中、茂庭要に声をかけられたときは間髪入れずに反応してしまった。

「よろしく」
「何が」

 突っ慳貪な態度になってしまう。怯んでも良いはずなのに、何だろうね、と彼は少しだけ困ったように笑った。

「あなたが徹くん」

 そんなとき、その人は歩いてきた。あっ、と茂庭要が嬉しそうに声を上げる。

「セッターをしていると聞いて」
「バレーをされているんですか」

 なぜか彼女相手にはそっけない態度は取れなかった。大人相手だからなのかはわからなかった。

「ええ。ポジションはライト」

 そのあとに彼女は何言わずに笑った。そのときはその意味がわからなかった。俺はただ遠ざかるエンジン音を見送っただけだった。
 よくよく観察すれば、彼女の利き腕が左であることはわかっただろうけど、そのときの俺にはその余裕はなかった。
 セッター対角のライト、レフティ、高い身長、恵まれた体格。宮城県には全く同じポジションの有名な同級生がいるのだから。
 コートの中で観客のみならず敵の視線も集めるオポジット。サーブレシーブに参加せず、前衛後衛問わず高いジャンプ力と強烈なスパイクが求められる。あの牛島若利と同じレフティのスーパーエース。俺がそのことを知ったのは、なまえと再会したときだった。

 望んだことなど一度もないのに、彼らは俺の人生に関わってくる。きっと俺は天才とスーパーエースとは深い因縁があるのだろう。

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