こかげの向こう
日陰の向こうの日向
駅まで走っている途中に、スマートフォンが震えた。少しだけ速度を緩めて画面を見ると、電車に乗った、という文字が浮かび上がった。及川さんの最寄の駅から駅までは少し時間がかかる。俺は、駅まで辿り着くと、駅の時刻表を確認した。及川さんの最寄の駅からかかる時間は正確には覚えていないけれど、電車で一本、本数も滅茶苦茶にあるわけではない。この駅に着く時間はおおよそ見当がついた。
大丈夫、とLINEを送る。すぐに既読はついたければ返信はない。何もないということは大丈夫じゃないということだと思った。俺は電話をかける。相手は当然電車に乗っている及川さんではない。少しだけ迷って、家の電話にかけた。
あの人はあまり携帯電話を見ない。
数回のコール音のあと、もしもし茂庭ですけど、と女性の声。
「母さん、要。駅まで車で迎えに来れる」
話は聞いた、今すぐいく、という母の言葉。二番目の兄から聞いたのだろうけれど、何も話をしていないはずだ。一体何を言っているのかはわからないけれど、そういう人だ。そもそも普通に話しても人の話を聞いていないことが多い。
とはいえ、大切なことはわかっている人だ。
電車が着いた。改札口から出てきたのは、灰色のパーカー一枚の及川さんだった。茂庭くん、としゃくりあげながら俺の名前を呼んで、俺はどうしていいのかわからなくて、ただガタガタ震えている及川さんに兄のコートをかけてベンチに座らせた。兄のコートが大きいせいか、女子の中でも背の高い及川さんがとても小さく見えた。
ごめんね、ごめんね、と小さな声で泣きながら謝る及川さんを前にどうしていいのかわからなくて、目も合わせられなくて、ただ、大丈夫だよ、と答えることしかできなかった。
兄のコートは、寒冷地仕様の高いコートであるにも関わらず、及川さんはガタガタと震えていた。顔色は真っ青で、ボロボロと涙だけ流していて、何があったかなんて聞くことなんて、とりあえず暖かい家で温かいものでも飲んでもらって、それからだと思った。どうしていいのかわからなかったけれど、こういうときに頼るのが家族だから、俺はきっと間違った判断はしていない。
ただ、彼女をここまで追い詰めた原因があると思うだけで、耐えがたい怒りがわいた。
俺はきっと彼女のことはまだまだ全然知らないけど、真面目で優しくて正直なことだけはわかるから。
「いたいた」
入口の方から聞きなれた声がした。
「何で兄ちゃん来たの」
寒がりのくせにコートも着ずに、寒そうに肩を竦めながら二番目の兄が歩いてきた。まぁまぁ、と答える兄は高専生で、運転免許は持っているもののほぼペーパードライバーだ。俺は及川さんの手を引き立ち上がらせた。
初めて触った及川さんの手は細くて冷たかった。手はひどく軽くて、力がなくて、本当に及川さん手を引いているのか信じられなくて振り返ると、潤んだ大きな目と目が合った。あの、と何かを一所懸命話そうとする彼女の言葉を待たず、ただ、大丈夫だから、と答えた。
「後部座席でごゆっくり」
兄は助手席に乗り込んだ。
「及川、なまえと言います。茂庭くんには……」
我に返ったように、ただしゃくりあげながら、苦しそうに言葉を紡ぐ。見ていられない。
「そういうのいいから、とりあえず乗る」
ただ、そう思ったのは俺じゃない。
母が言葉を遮り、俺は及川さんの腕を掴んで車の中に放り込むようにして入れた。
「母さん、今日のご飯何」
及川さんはそっとしておいた方がいいと思った。だから、席に着くなり俺はそう尋ねた。
「昨日の残りと一昨日の残りと本日新たに加わったカチャトの選択式。及川さんだっけ? は昨日の残りの鍋で雑炊になると思うので他の人はそれ以外で」
一昨日はビーフシチュー、昨日は寄せ鍋だった。確かにこの様子の及川さんにビーフシチューはくどいかな、と思う。母もいつも通りそう答えるだけで、及川さんがいてもいなくても変わらない言葉を返してくる。
「じゃあ、俺は一昨日のビーフシチューとカチャト」
「運動しないくせに食い気だけは一人前だね」
母親の嫌味に、関係ありません、と兄が答える。及川さんが隣でガタガタ震えているのに、いつも通りの家族に少しだけ笑ってしまう。母も兄も及川さんに興味がないはずない。ただ、今の彼女に何かを求める気は俺たちにはなかった。
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