今まで抑えていたのだろう。普段の母親ならば、こんなに静かではない。だから、仕方がないのかもしれない。
「ねえ、及川さんってご両親によく嘘つくの」
ストレートな質問に、この人と俺、どこが似ているんだろうと思ってしまう。
ただ、及川さんは何も思っていないようだった。
「記憶にないです」
信じてもらえなかったという言葉の方がずっと感情があった。淡々とした言葉だった。及川さんは小さなことで怒るような人ではないとは思っていたけれど、それもどこか不自然だった。
「じゃあ、本当にわけわかんないよね」
「ただ、兄弟が四人いるから疎かになってしまって」
ただ、その言葉で俺は違和感の正体に気がついた。及川さんは怒っていないのだ。ただ、自分の言葉を信じてもらえなかったからショックを受けているのであって、自分を疎かにしていると言いながら、両親に対して不満は感じていない。
ただ、それがわかったとしても頭の中にかかった靄は晴れなかった。及川さんのご両親なのに、どうしても不信感が浮かぶ。ただ、それを口にすることはできるはずがない。
俺にとっては他人でも、及川さんにとっては両親なんだから。
「そういう問題ではないよ」
有無を言わせない口調だった。こういうところがあるから、母は敵も作りやすいのだ。ただ、及川さんは母の言葉に威圧されることも何もなく、ただ、目を僅かに丸くしただけだった。
「私、父に疎まれている気がします」
父親を責めるような言い方ではなかった。
「叔父と父があまり仲が良くなくて。私が叔父に似ているからだと思っているんです。私は叔父も仲がよくて」
まるでそれがよくあることのように、及川さんは淡々と話を続けた。それが俺の中の違和感を大きくしていった。俺たちが理不尽な母を許してしまうこととは、全然違うことのように思えた。
「最初、高専に行きたいって言ったときも反対されて。そのときは成績が理由だったから」
「だから、今度は模試受けて万全の状態で臨んだわけだね」
母親の言葉に及川さんは頷いた。
「突然言い出すのも、と思って、母には進学したいって言っていたはずなんですけど、あまり伝わっていなくて」
そこまで話をして、少しいいですか、と彼女は言ってスマートフォンを取り出した。ご両親からかと母が尋ね、妹からです、と及川さんは答えた。
「ご両親からは何も」
「双子の兄弟だけ」
及川徹は連絡を入れてきたらしい。ただ、寒さも厳しくなってきたこの時期の夕方に、薄手のパーカー一枚で飛び出した娘に、親が連絡をしないというのはどう考えてもおかしかった。
「及川さん、しばらく家、離れた方がいいんじゃないかな」
それを言わないといけないと思った。家族に怒りすら感じられなくなっているのだったら、そんな両親だったら、及川さんがいいのなら家にいた方がずっといい。
______このまま、我慢して、好きなことさえ忘れてしまったら。
そう思うと、及川さんの家には帰したくはなかった。
「母さん、大丈夫だよね」
ただ、及川さんは帰ると言うだろうと俺は思っていた。迷惑はかけられないから、と言って。だから、母に尋ねた。
「うちは大丈夫だよ。ただね」
母の黒い目が少しだけ見開かれる。ただ、すぐにその目を細くなった。母は笑顔を浮かべ、スマートフォンを取り出した。
「とりあえず、及川さん、お家の連絡先教えてもらえる」
母は及川さんの言った家の電話番号を携帯電話に入力すると、そのままリビングを出ていった。母はもう食事を終えていたようで、俺たちは母が出ていっている間にそれぞれのものを食べた。
母が戻ってくるのにはそれほど時間はかからなかった。母は戻ってくるなり、俺に夕ご飯は食べ終わったのかと聞いてきた。
「今から、及川さんのお家に要と二人で行くことになったから。お留守番していて」
そして、兄にそう言った。
「俺も行くの」
「当然でしょ」
そんな話にするなんて言われていない。心の準備なんて何一つできていなかった。ただ、それで少しでも問題が解決するなら、及川さんが楽になるのなら、母の言葉に逆らう理由はなかった。
「答えは、聞いたから」
ただ、続けられたその言葉の意味は最後までわからなかった。このときには当然のように決心がついていたのだから。
35
back next
list