その日、俺は一人で電車に乗った。いつもは青根が一緒なのだが、風邪で休んでいるらしい。ドアの近くに座り、ぼんやりと窓の外を見た。外はすでに暗かった。

 席のクッションが僅かに動いた。すぐ隣に人が座ったのだ。

「一人なの」

 俺は慌てて横を向いた。横に座ったのは、及川さんだった。慌てて姿勢を正す。及川さんは一人で、座席に浅く腰かけていた。

「いつも一緒に帰る後輩が風邪引いたらしくてね」
「あの二人のどちらか」
「うん、青根の方なんだけど。二口と仲がいいから、移らないか心配している」

 青根はあの強そうな見た目に反して、よく風邪を引く。二口が青根が休んだのが寂しかったらしい。いつも以上に一言二言多く、俺は部員を宥めるのが大変だった。

「風邪、流行っているみたいだね」

 そういう及川さんは薄着だ。ただ、風邪とは無縁そうで声は明るかった。

「兄貴も風邪引いたらしいから」

 寒がりの兄も風邪を引いていた。高専を昨年卒業して今は社会人だ。要領のよい兄だが、風邪には弱く家族のなかでは一番よく風邪を引く。

「お兄さんいるんだ」
「二人いて、風邪引いたのは二番目の兄。及川さんは妹さんと、双子だけなの」

 俺は及川徹については知らないふりをしようか少し迷った。ただ、彼女の口から及川徹の話をさせるよりも、こちらで言いきってしまった方がいいと思った。

 彼女の表情が少し緩んだような気がした。

「年の離れた姉もいる。四人兄弟」

 四人兄弟とは珍しいと思った。最近は二人兄弟が多い。一人っ子も珍しくない。

「妹さんは中学生なの」

 誰について尋ねるのかを俺は考えた。最初に除外したのは及川徹だ。そして、姉か妹、どちらにするのかを考えたとき、俺は妹にしようと思った。勉強を教えているのだから、仲が悪いなんてことはないだろう。ただ、それだけではなかった。俺は、彼女が姉よりも妹がいると言われた方がしっくりくるような気がした。だからだろうか、姉よりも妹の方が仲がよいと思った。

「高校生。妹は普通科。年子で、仲よくて、よく勉強教えている」

 彼女の話し方は淡々としていた。彼女はやや上を向いて、ゆっくりと瞬きした。

「よく勉強教えられるね」

 化学工業科は大学進学者を毎年数名は出しているが、それでも工業高校となると、普通科に座学を教えるのは難しいだろうと思った。

 彼女は口元だけで笑うと、目を伏せた。

「勉強好きなんだ。変わっているよね」

 体つきも性格も違う。ただ、なぜか俺はそのとき、及川さんが青根に似ていると思った。及川さんは俯き加減で、横髪が顔にかかって表情は見えなかった。

「そんなことないよ。一番上の兄は勉強が好きで、今は大学院行っている。楽しそうだよ」

 工業高校には少ないかもしれないが、兄の話を聞いている限りでは大学院においては珍しくはないような気がした。

 彼女は目を丸くした。こちらを向いたときに、その目が大きな目が蛍光灯を映して明るく輝いた。

「いいね、大学院」

 どこか遠くを見るように、しかし明るい表情で彼女は呟いた。彼女はきっと大学院に憧れているのだろうと俺は思った。

「及川さんは、数年後大学院にいる気がする」

 何の根拠もない言葉だった。彼女にはその力があるような気がしたが、それは全く信用に値しない。そのようなことが彼女にわからないはずがなかった。

「ありがとう。嬉しい」

 彼女の顔を見ようと横を向いた。彼女と目が合う。黒い大きな目が細められる。まるで幼い子どものような笑顔は少し首を伸ばせば届きそうな位置にあった。その彼女の笑顔が、俺の視界いっぱいに広がっていた。

 電車の暖房は充分すぎるくらいにきいていて、俺は首元に巻き付いていたマフラーをとった。

 彼女の最寄りの駅についた。俺は彼女の背を見送りながら、ぼんやりと彼女のことを考えた。俺が友人の家族の話を聞くのは珍しいことではなかった。ただ、自分から家族のことを尋ねることはそれほど多くはないと思った。

 そして、友人の話を一度もしなかったことにも気づいた。

 駅に着く直前にマフラーを巻いた。なぜか暑くはなかった。

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