夕食後部屋に戻ると、一階から母の声と黒尾鉄朗の愛想のよい声が聞こえた。出迎えには行かない。出迎えに行ったことがあるのは最初の一回ぐらいで、それ以降は出迎えに行くのをやめた。出迎えにいく必要もなかったからだ。

 怒っているということは聞いていたが、自分でも驚くほどに落ち着いていた。ベッドに腰掛け、ぼんやりと宙を見た。

 ドアが開いた。一目見るだけで、怒っているという友人の話は本当のことなのだと悟った。

「あのさ」

 彼は無表情だった。私を見下ろす顔には、頭上の蛍光灯のせいで暗い影が落ちていた。

「普通、具合悪いとか言うだろ」

 ただでさえ切れ長の目をさらに細めた。

「人間として舐められていると思うのがわからないのか。こんなことされたら、俺みたいな立場じゃなくても怒る」

 私は目を背けることなどできず、ただ瞼を落とした。

「お前は最初から誰のことも頼りにしていない。だから、他人の目を気にせず行動できるし、何をされても怒ることもない」

 思い当たることがないわけではない。それどころか、それは何気ないときにふと考えては、心の中に仕舞い込み蓋をしていたことだった。そんなことは誰よりも早くに気づき、ずいぶん前から知っていたことで、誰よりもよく知っているはずだった。私はそうやって自分を守っていた。

「そうだね」

 目頭が熱くなった。正しいことであるはずなのに、心臓が締め付けられるように苦しかった。

「悪い、言い過ぎた」

 私は小さく口を開けた。深呼吸すれば早いものを、空気を少しずつ静かに肺の中に入れていく。

「気にしていないから、いい。間違って、いないから。だから、気にならないから」

 涙が落ちないように、ゆっくりと瞼を開けて笑った。歪んだ視界に、黒尾鉄朗が目を丸くしているのが見えた。

「ごめんね、黒尾君」

 口角を上げたせいか、頬が引きつってひりひりした。視野がぼやけてきた。涙が溢れそうだった。私は涙が溢れないように、もう一度瞼を落とした。

 ベッドの上に置いていた手に何かが触った。それが黒尾鉄朗の手であることはすぐにわかった。何かを探るように、私の手の上に手が置かれた。

 幾度なく体を重ねた。私の腕をその大きな手で強く握ったこともあった。しかし、重ねられたその手はひどく控えめだった。

「あのさ」

 黒尾鉄朗が口を開いた。彼が今、どのような顔をしているのだろうか気になった。

 初めてだった。

「俺はお前のことがまだわからない」

 黒尾君の言葉で、体の力が抜けていくような気がした。 
  
「私もわからないよ」

 私は目を開けた。黒尾君は少しだけ笑っているように見えた。

 行き場をなくし、頬を伝った涙は温かかった。

無知
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