通り過ぎたあおい春



***


「紬くん紬くん、部活一緒に行こ」
「あ、名字さん。いいよ、行こう」

廊下を歩く学ランの背中をちょいちょいとつついて話しかけると、振り向いた紬くんは微笑んでそう言った。


私と紬くんは演劇部で、高校三年生だから最上級生だ。近々ある演劇の発表会で引退になるから、最後の部活に気を引き締めて頑張っているところ。


「紬、と名字か」
「あ、丞くん、一緒に行く?」
「ああ」


紬くんの横に並んだのは、丞くんで、これまた演劇部の同期。紬くんとは小さい頃からの付き合いらしい。だからか、紬くんはたまに丞くんのこと「たーちゃん」って呼ぶ。本人は恥ずかしがって呼び方を直そうとしてるみたいだけど。


「そういえば紬、後半のセリフだけど…」
「後半?もしかして丞に俺が反論するシーン?」
「それだ、そこなんだが、もう少し感情を出してもいいんじゃないか?」
「うーん、でもそこは抑えておいて、そのあとのシーンと対比させた方が…」


また始まった。
2人はこうやってお互いの演技について議論して、周りが見えなくなっちゃうことがよくある。
部活中にこれをやられて、困惑する後輩に部長でもないのに私が指示を出す羽目になったことは何度もある。

まあそのうちみんな慣れて、「ああまたか」って空気になって2人を放置して練習するようになるんだけど。


こうやって自分たちだけの世界に入っていっちゃうのは少し困ることもあったけど、でも私はこの2人のこういうところが大好きだった。

部活を選んだ基準が、日に焼けない、汗くさくない、勉強に支障が出ない、の三点だった私はほぼ消去法みたいなもので演劇部に入ったけど、この2人は確固たる意思で演劇部を選んで入ってきた。
それは少しだけ私が引け目を感じる原因になったけど、2人が本当に楽しそうに演劇をしているのを見ると、私まで演劇が楽しく感じた。
こうやってちゃんと引退まで部活をやり続けられたのも、2人のおかげかもしれない。


それに。


「って、あっ、名字さんごめんね、2人だけで盛り上がっちゃって」
「全然いいよ、紬くんたちの話聞いてるだけで面白いから」
「そ、そう?」

眉を下げてこちらを気にしてくれた紬くん。
縹色の瞳が私を覗き込んで、勝手に胸がどきどきするのを感じる。


真剣に演劇にむかう表情の紬くんを見てるのが好きだ。
それだけじゃない、ふっと表情が柔らかくなる瞬間が好きだ。
演技の中で見せる、繊細な感情表現が好きだ。
それと、あとは「彼女なんていたことないよ」って恥ずかしそうに笑うくせに、この前女の人に捨てられた男の役をしたときに、切なそうに顔をゆがめるのがとっても上手くて、そんなところも好き。


私は、紬くんに恋をしていた。



まあでも、結論から言うと、この恋は特に何か進展があったりなんかはしなかった。

大学進学を機に紬くんとは離れてしまって、高校時代のように会えなくなった。
私自身が大学では演劇から離れてしまったから、特に紬くんに連絡をとる理由も見つけられなくて、そのまま音信不通だ。

紬くんがSNSの類に強かったらここまで全く消息不明、ってことにはならなかっただろうけど、あの紬くんだもの、それは期待できない。

紬くんがどこで何をしているのか全く知らないまま、大学生活、長期の海外留学の1年間を含めて5年間が過ぎ、社会人2年目の今ここまで来た。


社会人になった頃に風の噂で、丞くんが有名な劇団でトップの役者になったって聞いたけど、紬くんについては特に何も聞かないままだった。

それがいま、まさか住んでいるマンションからほど近いビロードウェイの劇場で、紬くんは丞くんと二人揃って舞台に立つとは。



「人生わからないもんだなぁ」


なんだか運命的なめぐり合わせを感じて気分がいい。そんな明るい気持ちで、閃きに身を任せて調味料を加えて作った晩御飯のラザニアは渾身の出来だった。



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