▼ 落ちるは君の奈落
「名字さん、春組公演も見に来てたんだね」
「うん、まあね」
「至くん?」
「そうそう。チケット用意してもらっちゃったの」
「そうだったんだね」
簡単に紬くんに事情を説明して、冬組の面々に軽く会釈をする。
まあ、内心では、この人「天使を憐れむ歌」であの役やってた方だぁ…!と大盛り上がりだったりするんだけど。
紬くんの横にいた丞くんは、私を見て少し驚いた表情をしたあとに、懐かしそうに笑った。
「名字、久しぶりだな。元気にしてたか?」
「もちろん!丞くんはなんか、ごつくなったね」
「トレーニングの成果だ。そういう名字は雰囲気変わったな」
「そりゃ最後に会ったの学生時代だもん、大人っぽくもなりますって」
「ははっ、そうだな、悪い」
丞くんほんっとに久しぶりだ。
春組の方たちに冬組の面々が労りの言葉をかけに行ってるのをみて、私はそろそろおいとましようと思う。
「立花さん、今日はありがとうございました。私はこのへんで失礼しますね」
「あっ、名字さん、公演来てくださってありがとうございました!また来てくださいね!」
「はい!ぜひ!」
立花さんと熱い握手を交わして、茅ヶ崎に手を振ってそっと楽屋から出ると、こっちに気がついた紬くんが駆け寄ってくる。
「もう遅いし送るよ」
「え!いやいいよ、そんなに遠くないし。それにこのくらいの時間なら仕事帰りよくあるし」
「いいのいいの、送らせて?」
「えぇ、本当に?ありがとう」
紬くん、ジェントルマンだ。
外に出ると、夜だから気温が下がっていて少し肌寒い。紬くんは平然としている。そのトレンチコート、暖かいんだろうな。
ゆっくり私のマンションへ向かいながら、紬くんとぽつりぽつりと世間話をする。
「そういえば差し入れ、なにあげてたの?」
「今回はね〜、タオル!実用的なものにしてみた」
「へぇ、確かに稽古の時とか使うしね」
「でしょー?ちゃんと春組の人たち全員分買ったから使って貰えたら嬉しいなあ」
「きっと使ってくれるよ」
「だといいなぁ」
…意外と普通に喋れてる、私、大丈夫かも。
この前の飲みの後で、繰り返し自分に言い聞かせた紬くんはお友達、という言葉が効いたかもしれない。自己暗示ってすごい。
紬くんに恋するのは辛い。それは身をもって知ってるから。
高校生の頃、好きで好きでたまらなくて、振り向いてもらいたくて、部活で頑張ってみたり、気を引くためにアプローチしてみたり。
でも、ぜーんぶ無駄。
紬くんには演劇しか見えてないから。
あれから結構経っているけど、なんとなく察してしまうものだ。ああこの人は今でも演劇バカのままだって。恋愛にうつつを抜かすことなんてないって。
だから、私は紬くんのいいお友達でありたいなって思ってる。
いいの、紬くんのほかに異性なんてこの世にいくらでもいるもん。
「送ってくれてありがとう」
「いえいえ、またね」
「うん、またね!」
天鵞絨駅を過ぎて少し行ったところにある私のマンション。そんなに遠くないから、2人で歩いた時間はあっという間だった。
手を振って紬くんを見送って、カバンの内ポケットの鍵でエントランスのオートロックを開けて、エレベーターに乗り込む。
ああ、もう、いやになる。
部屋に入ると、ソファに倒れ込んだ。
無意味に手足をジタバタさせて、それから力を失ったように動きを止めた。
手足がじーんと痺れるような感じがする。
友達だって言ってるでしょ。
別れ際にこちらを見て、またねと言って手を振る紬くんの顔が脳裏にちらついて、すごく腹が立った。
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