共にいくなら君とがいい


「刺し傷は幸い臓器までは達していない。意識をぶっ飛ばす前に名前さんが自分で止血処理もしてたから出血量も問題ない。その他バイタルも問題なし。後は本人の目が覚めるのを待つだけだよ」

 二〇〇七年九月某日。東京都立呪術高等専門学校医務棟。
 反転術式を酷使して、すっかり疲れ果ててしまった家入は、頬を机に預けたまま淡々と状況を説明する。パイプ椅子に腰掛けた五条は、家入の寝そべる机に頬杖をつきながら「で」と先を促した。
 何を聞かれているのかは分かっている。この場で全容を知るのは家入のみで、五条の要求を呑まないわけにはいかなかった。家入は、重い目蓋をゆっくりと上げて気怠さを隠す事なく話を続ける。

「犯人は、非術師の十九歳の青年。名前さんの任務地の廃墟、あそこ違法薬物やってる連中の溜まり場になってたらしい。ちょうど今日も気持ち良くラリってたところに名前さんが来て、ハイになった犯人が……」
「持ってたナイフで名前を刺したと」
「そう」

 家入と五条が話しているこの部屋の一つ向こう側は、集中治療室となっている。主に任務で傷を負った呪術師達を治療する場であり、そこは入学当初から家入のテリトリーだった。けれど、まさか名前がそこに寝かされる事になるとは思ってもみなかった。それが本音だ。五条も家入も冷静を装ってはいるが、内心は動揺したままだった。それでも二人が動揺を隠し通したのは、もう一人の級友の存在があったからだろう。
 家入の説明で事の一部始終を知った五条は、背凭れに深く身体を預け背後を仰ぎ見る。一枚の分厚い硝子越しに見えるのは、ベッドに寝かされた名前。そして、瞬きを忘れたように彼女を見つめる夏油の姿がそこにあった。

「傑、聞いてただろ。名前大丈夫だってよ。だから少し休め。顔色悪いぞ」
「その……非術師は?」
「あ?」
「その非術師は、どうしたと聞いているんだ」

 夏油の声色は、平素の柔らかなものと違い淡々としていて、なによりも固く強張っていた。空気がピンと張り詰める。身体ごと正面からその横顔を見れば、瞳孔が開き切っている事に気がつく。鼻につくほど冷静で、周囲を宥める側の人間であった筈の親友の確かな異変に、五条はポケットの中に突っ込んだ拳を強く握り締めた。

「捕まったよ、警察に。今頃は留置所だろ」

 苗字名前二級呪術師が任務中に刺され意識不明の重体に陥った。
 その一報が入ったのは、つい三時間前の事だった。貴重な反転術式を持つ家入は、即座に医療棟へと入り、教室に残された五条は急ぎ夏油へ連絡をつけた。カラカラに乾いた喉で何を告げたのか、いまいち思い出せないでいるのは、五条もまた動揺していたからだろう。しかし、夏油の動揺は五条以上のものだった。夏油は、五条に短く返事をすると、着のみ着のままタクシーに乗り込み高専へ急行した。夏油が医療棟へ辿り着いたのは一時間程前だ。あちらで部屋着にしているらしきティーシャツとスウェット姿。解けた髪は汗で顔に張り付いて、視線は五条を通り越し、集中治療室内の名前へ注がれていた。
 先月、五条は夏油の異変を感じ取り、迷った後に名前へ連絡を取った。多分、自分から電話を掛けたのは今回が初めてで、名前も大層驚いていたように思う。けれど、その行為のおかげか、夏油は名前に連れられて一ヶ月休学する事を選んだ。唯一無二である親友のいない高専は寂しくはあったけれど、一ヶ月後、以前と変わらぬ夏油が戻って来るのならそれで良いと思っていた。
 それなのに、現実はこの有り様だ。

「傑、お前なに考えてる?」

 思わず口から飛び出した疑問符にしまった、と思った。夏油の髪色と同じ、帳のような黒色の瞳がひどく不気味に見えたのだ。五条の問いに夏油は何も答えない。見るに見かねた夜蛾が迎えに来るまで、彼は硝子に手をついたまま片時も名前から視線を外す事はなかった。
 それが約五日前。名前は未だ、目を覚ましていない。



「何で名前は、私に連絡してくれなかったんだろう」

 医療棟から寮へと戻る道中、夏油が溢した不満を家入は聞き逃さなかった。何時もなら相手に合わせて速度を調整してくれる夏油が、この五日間は自らのリーチに見合った速度で先を行ってしまう。特別それに不満はないが、やはりこの似非優等生は何処か変なのだろう。

「発信履歴のトップがちょうど夜蛾先生だっただけ。あえて夏油を避けた訳じゃない」
「そう……そうだよな」

 家入の声に、やっと彼女の存在を思い出したのか、途端に夏油の歩く速度が落ちた。先程と違い、真横に並んだ夏油の目元には隈が残り、制服に包まれた身体のラインも以前に比べ細くなったように思える。
 家入は、五条のように夏油を心配したり励ましたりする気はなかった。何かしら抱えているくせに、分かってもらえる筈はないと意地を張るのは子供の行為と同じだからだ。もしも夏油から打ち明けてくれたならば話を聞くし、相応の対応をするだろう。だが、現実の夏油はこうだ。無理矢理聞き出すような真似はしたくもない。
 医療棟には集中治療室の他に幾つか経過観察用の病室が設けられている。今日、名前は、集中治療室から一般の病室へと身体を移された。電子音の響く静けさは集中治療室と変わりないが、傍に寄り声を掛けられるようになっただけまだマシと言えた。
 治療を施した術師として、家入は足繁く医療棟へと通い、五条も任務の合間に時折顔を見せた。夏油は、空いた時間の全てを名前に付き添う事に費やしている。本来ならば特級呪術師として任務に忙殺されている筈の夏油が、こんなにも自由でいられるのは、担任である夜蛾が彼の様子を心配し、手回しをしてくれているからだ。それなのに夏油は、一人で全部抱え込んでいますと言った具合に殻へ篭り、弱音のひとつも吐き出そうとしない。それが、やはり少しばかり腹立たしい。

「明日任務でしょ。祓えんの?」

 だが、そんな夜蛾の気遣いは何時までも続かない。夏油に新たな任務が与えられたのは今日の夕方の事だった。医療棟までそれを伝えたに来たのは夜蛾本人で、いつも通りの口ぶりの中に僅かな苦味を感じたのを覚えている。
 今年は、発生する呪霊の数が例年より多い。国内に三人しかいない特級呪術師を、このまま野放しにしておけるほど、呪術界は暇ではないのだ。

「大丈夫さ。これでも元はあの悟の相棒だったんだ。土地神崩れの呪霊くらいなんて事はない」

 夏油に与えられた任務は、東京都から離れた他県山奥にある旧村に潜む呪霊の祓除だった。等級は推定では一級。ひと月前の下級生達の悲劇をくり返さぬ為にも、与えられる任務の等級管理はシビアになっている。
 けれど、そんな事はどうでも良かった。夏油が実力者である事は、家入だって認識していたので、任務そのものは心配していない。違和感を覚えたのは、夏油の発言だ。

「なに、その元って……おい、夏油」
「女子寮着いたね。じゃあ私も明日は早いから。おやすみ、硝子」

 夏油が家入の呼び掛けに答える事はなかった。数メートル離れた男子寮に吸い込まれて行く黒い背中を見送る。呼び止める事も出来なかった家入は舌打ちをして、ポケットへ手を突っ込んだ。
 荒っぽく箱を叩き、煙草を咥え、ライターで火をつける。一連の動作を慣れた手つきで行い、重たい煙を吐き出した。
 クズ。五条が一番の問題児である事は認めよう。しかし、夏油も大概拗れている。
 急速に短くなった煙草の吸い殻を苛立たしく踏みつけるが全くスッキリとはしなかった。



 もう隠し通せるものでもないので、この際言ってしまおうかと思う。私は、君の事が――

 夏油君。自分を呼ぶ他者の声に、跳ね上がるようにして目を覚ました。
 頭はずっと医療棟の真っ白な病室に居るようで、現在地を上手く把握出来そうにない。荒くなる呼吸を落ち着かせるため、額に手を突いて、音もなく深呼吸を繰り返す。まず、自分がうたた寝していた事に驚いた。上手く睡眠が取れずとも動けるくらいには、身体は丈夫だと自負していたが、実際はとっくに限界を超えていたらしい。
 そのままの体勢でぐるっと周囲を見渡す。窓から見える景色は山林のそれになっていた。
 ああ、そうだ。任務だ。ようやく現実を受け入れた。

「夏油君」

 夏油の目を覚まさせた声の主が運転席から振り返り、再度心配そうに名前を呼んだ。妙齢の男性補助監督には、これまでにも何度か任務で世話になっている。それなのに今は心が荒立つ。夏油君。性別の差を含め、まるで違う声なのに発する言葉の意味が同じと言うだけでこんなにも。
 任務地である村の住人は、土地神信仰の厚い従順な信徒のようで、他所者を村へ入れる事を頑なに拒んだ。再三の説得の末、何とか夏油の入村までは漕ぎ受けたものの、補助監督の同行は須らく却下された。よって、ここからの道中、夏油は一人で村を目指す事となる。
 現時刻は十五時。夏油の力量を鑑みて予定される任務所要時間は二時間。十七時にまたこの場で落ち合う事となった。

 人気のない山道をひとり、村を目指し登って行く。当初の予定では、村の入り口で案内人と待ち合わせする事となっていたのだが、入村許可が下りるまでの渋り方を見るに、それも期待薄である。幸いにも事前の調査報告書で呪霊の出現場所は分かったいたので、案内人はさほど必要としていない。さっさと祓って、さっさと高専へ戻れば良い。
 山道を登り終えると、今度は下り坂が待っていた。現在地の真下には目的の旧■■村が見える。ミンミンと蝉の鳴き声が響く山林の出口で、夏油は眩しさに耐えかね、重い目蓋を一度閉じた。
 目蓋の裏に、ずっとこびり付いているものがある。かつて掲げた信念と言う名の淡い理想だった。呪術師、非術師、呪霊、呪力、術式。様々なものを塔のような土台にして、理想はその上にポツンとひとり取り残されている。今となってはその土台も崩れ、もう形を留める事も難しくなったようで、ただただ寂しさを嘆いていた。

 一歩一歩、踏み締めるように坂を下った。夏の暑さか、それとも脳の錯覚か。坂道は沼地のように泥濘んで、夏油の足取りを重くする。
 それでも歩く。その都度、様々な事を思い出した。初めて呪霊を見た時の恐怖、自身の術式を理解した時の悍ましさ、この力の使い道を得た時の高揚感、高専へ入学してからの日々、任務、親友、級友、先生、後輩、先輩。苗字名前と言う存在。
 名前が医療棟に運ばれて今日で六日が経過した。彼女の目は、まだ覚めていない。家入の必死の治療により傷は塞がり、その他身体に異常は全くない。それでも目覚めないのは、頭をぶつけたからなのか、それとも刺された事によるショック性のものなのか。一学生である家入は勿論、呪術界の息のかかった外勤の医師も判断をつけられないようだった。
 何となく、もう目覚めないのではないかと、ふとした瞬間恐怖する。あの一ヶ月間の生活は、彼女の最後の置き土産で、これから先彼女が自分を呼んでくれる事はないのだと、随分と気弱な自分が顔を覗かせるのだ。
 寂しいよ、名前。
 たったそれだけ。その一言を口にする事さえも恐怖が伴う。そして、その恐怖を振り払うだけの材料を、今の夏油は持ち得ていない。

20210617