雲の向こうは、いつも青空


 ハグする事でストレスが軽減されればなんて、所詮自分に都合が良いだけの言い訳でしかなかった。
 本当は、ただ自分が彼女に触れたかったのだ。細く、柔らかく、温かな身体を抱き締めて、安心したかったのは他でもない自分自身だった。
 ――今更それを自覚して何になると言うのか。

 坂を降り終えた先。案の定、村の入り口に案内人の姿はなかった。それを別段気にする事もなく、村の中へと足を踏み入れる。
 余所者である夏油に不躾な視線が幾つも刺さった。だが、夏油は顔色一つ変える事もなく、堂々とした足取りで目的地まで突き進む。
 この村に巣食う呪霊の等級は一級。村人の土地神信仰に畏れが混ざった事により生まれた呪霊だという。何時だって呪霊の生みの親は非術師だ。彼らに巣食う負の感情、それが呪霊の元となる。呪術師は、それを祓い、傷つき、倒れ、自分は非術師の負を喰らう。全て、強者として当然だと思っていた。少なくとも去年までは。
 ジャリ、靴裏が砂を踏み締める音が小さく響いた。村に入っても蝉の鳴き声は止まず、煩いばかりで集中力を半減させる。
 土地神と言う大層な肩書きを持った呪霊が根を張っているのは、村奥の寂れた祠だった。信仰が厚いわりに管理は杜撰らしい。苔に覆われた小さな石祠を眼前に見据え、夏油は背後に一体の呪霊を顕現させた。途端に空気が澱む。帳は既に下ろした。村人の存在は土地神を畏れ、祠周辺に寄り付きもしない為、気にする必要もなかった。グラグラと地面を揺らし、一体の呪霊が姿を現す。何かを求めるように伸ばされる鋭い爪を手持ちの呪霊で薙ぎ払う。その間、夏油はポケットに手を突っ込んだまま一切動く事もしない。ただ、冷淡な視線で呪霊を見下ろし吐き捨てるのみだ。
 猿が。



 土地神――対象一級呪霊の祓除は、予定より一時間も早く終わった。
 飲み込んだ呪霊の味を思い出さないよう、口元に手を添えて帳の中から出る。今回の帳は、予め夏油が中から出た瞬間消滅するように作っていたので、彼が外へ足を踏み出したと同時に、空気に溶けて消え去った。
 帳から出た夏油を待っていたのは、村人の好奇の眼差しだった。先程の突き刺すそれより柔和した視線も、今はただ不快感を煽るばかりだ。すると、早足に村を離れようとする夏油の前に一組の男女が立ち塞がった。彼らは必死の形相で何かを伝えようとしている。そこで「あ」と気が付いた。
 二人の声が獣の鳴き声のように聞こえている。そう、例えるのなら猿だ。身振り手振りで意味は伝わる。猿は意外と賢いから。
 身体は熱いのに、心は段々と冷えて行く。どうやら二人は夏油を何処かへ連れて行きたいらしい。彼らが案内する通りに道を抜ける。祠とは逆方向の村奥にその社はあった。

「これはなんですか?」

 社と言っても見てくればかりでその実、ただの汚らしい掘っ立て小屋でしかない。靴を脱ぐ必要もないようで、土足のまま足を踏み入れたそこは、呼吸をするのも苦しい程に暑く、空気が澱み、酷い悪臭を放っていた。
 室内には木製の檻があった。狭い檻の中、目蓋は腫れ上がり、痩せこけた頬に大きな痣をつけ、大小様々な傷を負った少女達が、身を寄せ合い震えていた。見ただけで分かる。この子達は、こちら側の人間だ。
 動揺、嫌悪、怒り、様々な負の感情が身の内から溢れ出す。呪術師は呪力があるから呪霊を生む事はない。けれど、非術師はどうだ。村人達の、この少女達へ向ける負の感情も、あの呪霊を生み出した一つの要因なのではないか。

 完全に頭に血が登っていた。こんな怒りは久々で、制御が出来なかった。けれど、そこに後悔は微塵もなかった。

 屋内から出て、胸倉を掴んだ非術師の男の顔面に加減なく拳をぶつける。鍛え上げられた身体の渾身の力で殴られた男は、ギャッと汚く鳴いて地面へ伏せた。同時に、もう一人の女が逃げ出す。即座に呪霊を顕現させ、女の四肢を拘束した。今度は、女が耳障りな程甲高い鳴き声を上げる。遠慮なく締め付けたから骨が折れたのかもしれない。
 ああ、蝉の声が煩い。猿の声が煩い。誰が化け物だ。あんな年端のいかぬ少女二人相手に、どこまでも非情になれるお前らの方が余程化け物ではないのか。
 頭は熱に浮かされたように熱いのに、身体の内部はどこまでも冷たかった。自分でも分かる。冷静さを欠いていると。それでも止まる事も、理性で止める気も一切なかった。
 血が滴らんばかりに拳を握り締める夏油の背後、何もない空間に罅が入った。亀裂から鋭い爪が覗く。自分達が信仰し、生み出した呪霊に喰われたのなら、この非術師共も本望だろうと思った。
 非術師に、呪霊の姿を視認する力はない。ただ、夏油の視線と気配で、身の危険を察知したのだろう。男は、醜くも涙を流し、命乞いを始めた。
 煩い。夏油が呟くのと同時に、もう一体顕現した蛇のように細長い呪霊が男の口を塞ぐ。途端に藻掻き苦しみ出した男の眼前には、鋭く尖った爪の先が迫っていた。後数センチ、夏油が「やれ」と命じるだけでこの害獣は息絶える。想像し、身体の内部が更に冷えた心地がした。その時だ。

「……っ」

 意図したものではない振動を感じ、反射的に夏油は呪霊の動きを止めた。振動の出所を探る。スラックスのポケットの中、携帯電話だ。まさか――一瞬過ったのは自分に都合の良い空想。熱く茹だる頭の中で、そんな筈はないと怒りに染まった自分が叫ぶのに、夏油の右手は携帯を握り締めている。
 恐る恐ると携帯を取り出す。夏油の携帯は、スライド式のため、すぐに着信の相手が分かった。

 名前。

 電子文字で表示されたその名を見た瞬間、頭の中が一気に冷えた。代わりに身体が温かくなって行くのが分かる。
 そんな筈はない。そう否定を繰り返していた自分が静かに姿を消した。気がつくと、震える指先は通話ボタンの上へ乗せられていて、しっかりとボタンを押し込んでいた。

『夏油君、今どこ!?』

 そして、聞こえたその声に静かに涙が溢れ落ちた。左手で顔を覆い、俯いた。耳元で聞こえるその声が、蝉の声、猿の声、全てを消し去り、夏油の意識を通話に集中させていた。

『夏油君、聞こえてる!? どこにいるの、■■県にまだいるの!?』
「名前……? 本当に、君なのか?」
『そうだよ! 今どこにいるの!? 私、すぐそっちに行くから!』
「っ、私は、もう君に呼んでもらえないと思って……っ」

 通話越しに向こうの状況が伝わって来る。まず聞こえたのはガラガラと何かを引き摺る音だ。名前の声は上擦っていて、呼吸も荒い。
 まさか――予想は、夜蛾の声で確信へと変わった。夜蛾は、焦りを隠す事もなく病室を抜け出した名前を呼んでいた。動くな、安静にしていろ、と何度も呼び止めているようだが名前は、夏油の名を呼ぶばかりで聞く耳を持とうともしない。
 次いで聞こえたのは家入の声だ。『名前さん、点滴外しますよ』と落ち着いた声で話し夜蛾に叱り飛ばされている。その後は五条の声が聞こえた。『行くぞ名前! 俺が向こうまで送ってやる!』と何時もの調子で、それに対し夜蛾が『いい加減にしろお前ら!』と叫ぶ。

『ごめんね、夏油君。私、一番大事な時にこんな事になっちゃって……でも、もう大丈夫だから。今からそっちまでタクシー飛ばすから、絶対そこから動かないでよ!』

 その優しさに堪らなくなった。

「違う、違うんだ……私が、君に、言いたいのは、伝えたかったのは、こんな……っ、こんな事じゃなくて…….」

 通話の向こうは、全てが嘗ての日常で構成されている。自分が青い理想を高々と掲げていた頃、五条と並んで最強なのだと自負していた――そんな青い春が、そこにある。それがどうにも堪らなくて。悲しくて。それなのに嬉しくて。涙はいつまで経っても止まらずに、夏油の頬を濡らし続けた。閉じた目蓋の裏の理想が、必死に腕を伸ばしていた。求めていた温もりは、この向こうにあるのだと。

「非術師が憎くて堪らない……許せないんだ……っ、私の、かつて持っていた筈の信念があまりにも馬鹿らしく思える……非術師のせいで呪霊が生まれ、呪術師が消費されて行く……非術師のせいで理子ちゃんは殺された、灰原も死んだ……そうしたら、今度は非術師のせいで君まで失いかけた……! もう私は、以前のようには居られない……呪術師を続けるには、あまりにも、非術師を呪いすぎた」

 一度堰を切って溢れ出した本音は、もう止まる事など出来ないようで、次から次へと声になり向こう側へと伝わってしまう。きっと、名前の他、五条や家入、夜蛾にも聞こえている筈だ。恥ずかしい。こんなにも自分は弱い男なのだと、全て曝け出してしまった。
 もはや嗚咽を抑える事さえ難しく、吃逆を上げるように息を弾ませて、夏油は何度も名前を呼ぶ。まるで子供だ。感情を抑える術をすっかり忘れてしまったらしい。
 名前も向こう側で泣いているようだった。涙を隠す事なく、震える声で『夏油君』と夏油を呼んで来る。

『っ、いいよ、夏油君。君の、好きなようにしていいんだよ』

 ずっと聞きたくて、恋しくて堪らなかった声だった。

『なんなら、呪術師を辞めたって良い。大丈夫だよ、絶対に大丈夫だから。私、夏油君が選んだ道ならどこにだってついて行くよ……って、あ、え、その、もし必要ないから、いらないって言ってくれていいんだけど、その、私が勝手にそう思っただけで、絶対に気を遣ったりは、しないでね!?』

 あまりにも良く出来すぎていて、これは全て夢なのではないかと思えて来る。けれど、噛み締めた唇の痛みも、男を殴りつけた拳の痛みも現実で。ああ、夢ではないのだと実感する事が出来た。

「……本当に、君は私に甘いな」

 向こう側では五条が『親友の俺を忘れんなよ!』と声を張る。それに名前が『ごめん、ごめん』と笑い声混じりの謝罪を返し、きっとその後ろでは家入と夜蛾が肩を竦めため息をついているに違いない。目蓋の裏、ありありと浮かぶ光景に自然と笑う事が出来た。

「名前、迎えに来なくていいよ」
『夏油君……まさか、一人でどこかへ行くつもりじゃないよね?』
「違う、大丈夫だよ」

 まだ迷いはある。それでも、もう道は定めた。たった今、本音を選んだ。

「すぐ、そっちに帰るよ。だから、一つ我儘を言ってもいいかな」
『っ、うんっ、うん、勿論だよ。何でも言って』

 その言葉に、ゆっくりと顔を上げた。涙で膜の張った双眼で見上げる夏空は、ひどく美しく、沖縄で見たあの海と空を思い起こさせる。
 目蓋の裏で、寂しそうにしていたかつての理想が寂しさから抜け出して、手を振り何処かへ消えてしまった。瞬間、肩から力が抜け落ちた。一気に呼吸が楽になる。晴天を見上げて「名前」ありったけの想いを込めて、その名を呼んだ。

「そっちへ戻ったら、力の限り抱き締めさせてくれ」

20210618