エゴイスト


 人の気配もない夜半の高専敷地内で、虫の鳴き声だけがいやに響いていた。
 到着してすぐ、夏油君は三日ぶりになる制服に袖を通した。無言のまま地下を目指す夏油君の足取りに迷いはない。表情の色さえもない。繋いでいた手も離れた。私は、彼の後ろをついて歩き、地下へ降り、そして重たい鉄の扉を潜り抜けた。
 高専敷地内には任務で死亡した呪術師や補助監督の遺体を安置する為に霊安室が備え付けられている。この学校の生徒であれば在学中誰しもが足を踏み入れた事のある殺風景な空間は、あの頃と変わらずひどく冷たい空気を漂わせていた。
 室内には七海君がいた。椅子に深く腰掛け、顔にはタオルを乗せている。細い息を吐くのでやっとの様子で、平素の礼儀正しく真面目な彼らしくもなく、夏油君は勿論私に挨拶する事もない。
 灰原君は、冷たい鉄のベッドに横たわっていた。身体全体に白い布を掛けられていて、沈み込んだ節々から遺体の損壊の激しさを察する。夏油君が布を捲り、ゆっくりと伏せた。次いで夏油君が落ち着いた声色で七海君と会話を始める。多分、彼らの任務の引き継ぎを五条君が行ったと言う話だったと思う。

「……」

 私は、泣く事はしなかった。否、出来なかった。灰原君の唯一の同級生であり、きっと相棒であった筈の七海君や、自分を慕ってくれていた後輩が亡くなった夏油君が泣かなかったのだ。そんな中、私ひとりが泣く事は許されていなかった。
 どれほどその場に居ただろう。夜蛾先生からの提案で、その日は寮の空室に泊まる事になった。ベッドと机しか置かれていない、デフォルトページのようにも見える室内で身体を横たえる。沈み込んだベッドからは埃の臭いがした。そして、とても冷たかった。

 夏油君は、このまま高専に残るかもしれない。
 そんな私の予想に反して、夏油君は、灰原君の遺体を見送ったその足で私と共に家へ帰る事を望んだ。硝子ちゃんや夜蛾先生に挨拶をして、五条君の到着を待つ事なく二人電車に揺られる。平日正午の車内は人も疎らで、機械がかったアナウンスと車両の走行音だけが響いていた。
 路線を乗り換える頃、更に人は少なくなった。いつしか乗客は私達だけとなり、機会がかったアナウンスも、車掌のしゃがれた声へと変化していた。ただ一つ変わらない走行音を聞きながら、並び座る夏油君の顔を盗み見る。真っ直ぐに前を向いている筈なのに、その目はどこか空で、まるでここに意識がないかのようだ。薄くなっていた目の下の隈も色を取り戻し、憎たらしくそこに染み付いている。

「夏油君」

 ここ数日で気が付いた。私って、意外と勇気がある。
 手は、繋いでいなかった。だから自由な右手を夏油君へ伸ばす事が出来た。身長差があるから多少背伸びする形で彼の丸い頭へ触れる。抵抗がない事を確認して、こちらへと引き寄せれば、何の躊躇いもなく私の肩へ横顔が埋まった。寝心地の良い場所を探すように頭が揺れる。首筋に、やや硬質の黒髪があたって少し擽ったい。我慢していると、場所を見つけたのだろう、動きが止まった。

「昨日、眠れなかったんだ」
「だと思った。顔に出ていたもの」
「バレたか。高専に戻って、三年間慣れ親しんだ自分の部屋の筈なのに全く落ち着かなかった。名前の家や、君の隣で眠った時は安心出来たのに変な話だよね」

 車両が次の停車駅のホームへと滑り込む。無人駅だ。乗客の姿もない。やる気のないアナウンスと共に扉が閉まり、また車両が線路の上を走り出す。

「眠れそうなら寝ていてもいいよ。駅に着いたら起こすから」
「ああ、そうだね……早く、帰りたい」
「うん」

 微妙に噛み合わない会話の内容に、夏油君の精神的な疲れを悟る。頷いて下ろした手は、温もりつつある大きな掌に握り込まれた。今にも眠りに落ちそうな甘い声色で、夏油君が「名前」と私を呼ぶ。だから私は「なあに?」と返す。そうすると彼は、擽ったそうに微笑する。

「やっぱり君には呪霊に関わってほしくないな」
「この前も言ってたね。ねえ、それってどう言う意味なの?」
「ずっと、私と一緒にいてほしいって事さ」

 そこからは少し間が空いた。ゆっくりと、その方法を思い出すように呼吸をして、夏油君は独り言を呟くように静かな本音を落とした。

「少し、疲れた」

 彼の声が空気を震わせるのと同時に、車両がトンネルへと入った。束の間の暗闇の中、心臓が嫌に大きく鼓動を打ち鳴らす。
 初めて聞いた、夏油君の確かな弱音だった。
 トンネルを抜ける。窓の外の風景が段々慣れ親しんだ物へと変化して行く。次の停車駅を知らせる声を聞きながら、熱くなる目蓋に気付かないふりをしていた。



『こっちに戻って来てたんなら俺に顔くらい見せろよ』

 以上が家に帰って来た翌朝、夏油君宛に五条君から届いたメールの内容である。
 何故第三者である私が、彼らのメールのやり取りを知っているのかと言えば、寝起きの夏油君が「悟、拗ねたみたい」と受信画面を見せてくれたからだ。意外と大人しい文面にやや驚く。灰原君の事もあって、以前のように電話をするのは、流石の五条君も気が咎めたようだった。
 一昨日とは打って変わって、この日は天気が良かった。溜まってしまった二日分の洗濯物を干す私を夏油君が静かに見守っている。やはりテレビを見る気にもなれないらしく、リビングに置かれたそれは、もはやただの黒い四角の箱となっていた。夜になって、花火をする気にはなれなかった。夏油君も切り出さなかったから、きっと同じ気持ちだったのだろう。「暑いね」と私。「でも、もうすぐ夏も終わるよ」と夏油君。

「ごめんね、若人から青春を取り上げるような真似しちゃって」
「ぷっ、なにそれ。十分青春させてもらったよ。知らない町で一ヶ月間暮らす。昔、そんなゲームが流行ったじゃないか。あれを実体験しているようで楽しかった」

 ああ、そう言えばそんなゲームもあった。少年が夏休みの間田舎へ帰省して毎日思い思いに過ごす内容だったか。私はあまりゲームに明るくないから、共感は出来なかったけれど、夏油君の「楽しかった」と言う言葉に嘘はないと思いたい。

「名前こそ良かったの? 大事な二十歳の夏を私に費やして。やりたかった事とかないのかい」
「んー、やりたかった事かぁ」

 そう言われても特別、今年やりたい事があるわけでもなかった。同級生達は皆呪術師として活躍しているし、そもそも夏油君達のように仲が良かったという事もない。中学時代の友人達とも高専に入学してからの忙しさで疎遠になってしまった。ああ、でも歌姫さんとは近々飲みに行こうと話していたな。そんな事を考えていると肩に重みを感じた。視線を巡らせれば黒髪と旋毛が見える。

「名前と同い年なら良かったのにな。そうだったなら、離れずにいられた」

 まるで私の心を読んだかのような言葉に、心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚えた。
 昼間に作ったシャーベットに、スプーンを差し入れ、過ぎ去る夏を思う。

 それからは、当たり障りのない日々が続いた。夜蛾先生に定期連絡を入れながらの共同生活が続いて行く。そんな中、突然舞い込む私宛の任務に、夏油君は必ず良い顔をしなかった。何時ものパンツスーツ姿で家を出る私を、彼は止めはしない。けれど、たとえ深夜になろうと私が帰って来るまでは絶対に起きて待っていた。そして毎回、私と同じベッドで眠るのだ。少し、否、大分変だと思う。いくら仲の良い先輩と後輩と言えども、年頃の男女が同じベッドに入るなんて普通あり得ない。それでも拒否できず、背中に鼓動を感じながら眠りにつくのは、あの日耳にした夏油君の本音が耳にこびり付いているからだ。

 一ヶ月間なんて短い月日は、あっという間に過ぎてしまう。
 二〇〇七年九月。この年は、蛆のように呪霊が湧いた。祓っても祓っても湧いて来る非術師の負の感情に気が滅入る日々。その間に花火の季節も過ぎてしまって、二人分買い込んだ家庭用花火は、気が付けば倉庫の肥やしとなっていた。

 三級相当の呪霊に呪具を突き刺し、ようやく息をつく。
 夏油君が高専へ戻る期日は明日。そんな大切な日に、私は実戦任務の最中にいた。私の術式は戦闘ではあまり役に立たない。それでもこの万年人手不足の呪術界において、実戦任務が一切回って来ないなんて言う虫の良い話がある筈もない。
 血液の代わりか、刀身にべったりと付着した粘液を払う。粘液は地面に落ちて、本体が塵と化すのと同時に消えた。剥き出しの刀身を、慎重に鞘へと戻す。本日の任務で使用しているのは、高専から貸し出してもらっている呪具の一つだ。間違っても破損させるような真似などあってはならない。私の何十年か分の給料が、この古びた小刀に乗せられているのである。

「さて、と……」

 今回与えられた任務は二級相当呪霊の祓除。しかし蓋を開けてみれば、お誂え向きな廃墟の中には三級呪霊が二体。思考を読めるか術式を試すまでもない至って単純な本能で動く呪霊を祓うのに時間は掛からなかった。
 多分、あのくらいなら今年入った新一年生でも祓えただろうに――昼間でも薄暗い廃墟の中を一人歩きながらぼやく。早く帰ろう。今日の夕飯は、夏油君が好きな物を作ってあげたい。流石に手打ち蕎麦を作る時間はないから、何か別の物を準備出来たらいいな、なんて。
 スニーカーが割れた硝子を踏みつけた。けれど、その音は私が立てた物ではなかった。背後に別の気配を感じ取った。呪具の柄に手を掛けながら即座に振り返る。しかし、既に白刃は私のすぐそこまで迫っていた。

 目前に在ったのは人だった。呪力なんて一切感じない。非術師の青年が、笑みを浮かべてそこに立っていた。

 腹部が熱い。痛い。立っていられなくなる。呪具を落とし、代わりに押さえた両手が真っ赤に染まる。
 廃墟に不釣り合いな笑い声が児玉する。向こう側、私をすり抜けるように走って行く青年の後ろ姿が見えた。その片手には血のついたナイフがある。私の、血だ。
 全てを把握した途端、全身から完全に力が抜け去った。地面に横たわり、震える手でありったけの力を込めて刺された腹部を押さえる。激痛で意識が遠のく。呼吸が荒くなる。それでも、まだ意識を飛ばす訳にはいかない。血塗れの指先で携帯を操作し、祈るような気持ちで発信ボタンを押した。

『はい』

 電話口に出た人の声を聞いた時、耐えていた涙が溢れた。荒い呼吸と朦朧とする意識を必死に繋ぎ止めて場所を伝える。私の状況を悟ったのだろう、電話口で相手が何かを叫んでいる。それに返事をしたいのに、もう口を動かす事さえ出来そうにない。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。身体を丸め、何度も自分に言い聞かせる。きっともうすぐ迎えが来る。大丈夫、きっと傷は臓器までは達していない。こんな傷、硝子ちゃんなら直ぐに治せる。大丈夫――溢れ出る嗚咽を吃逆と一緒に飲み込んだ。

 ずっと一緒にいてほしい、とあの日夏油君は私に言った。私に初めて弱音を溢した。任務から戻った私を抱き締めて眠る腕が微かに震えている事を私は知っている。鼓動が何時もより早くなっている事も知っている。何か言いたげに薄い唇が震える事も、私は知っているのだ。彼が全てを吐き出しても良いと思えるまでは、私はまだ死ねない。向こう見ずに、取ってしまったあの手を、まだ離すわけにはいかない。

「っ、ああ、もう……」

 何より、私は彼を独りにしたくない。これは、私の人生最大のエゴだ。

20210615