雨を嫌った、そんな日があった


 呪力を生まれ持ち、呪術師として生きている今の現状を良かったのかと聞かれれば「はい」と答えるだろう。けれど、生まれ持った術式を気に入っているかと聞かれれば、きっと私は迷った後に「いいえ」と首を横に振る。

 昨日急遽下された任務を無事に終え、重い足取りで自宅を目指す。とっくに終電も過ぎていたので最寄駅まで車で送ってもらったが、帰宅は深夜になってしまった。
 予定では二十時には戻る予定だったのに、何故こんな時間になってしまったのか。それは、何としてでも自分が対象の口を割らせてみせると当初あたった新任の術師が躍起になって時間を喰った為である。上も新人の技量を確かめたかったのかもしれない。それでも最後には、有効な術式を持った私にお鉢が回って来るのだから、無駄な時間を費やしたとしか思えない。元々気の進まない任務内容ではあるのだけれど、こんな事になるのなら最初から任せて欲しかった。

「おかえり」

 こんな時間だ。きっと夏油君も寝ているだろう。音を立てないよう細心の注意を払い玄関扉を開ける。しかし、既に寝ていると思っていた同居人は、予想に反して静かにそこに立っていた。
 玄関扉を後ろ手に閉めながら「ただいま」と返す声は無様に震えてしまっている。だって、まさか、名目上保護している後輩に、こんな疲れ果てた姿を見られるなんて思いもしない。

「起きてたんだね。寝付けなかった?」
「まあね。名前の事が気がかりでさ」
「そ、そっか。私遅くなったもんね。ごめんね、心配かけて。シャワー浴びたらさっさと寝るから夏油君も、もう寝なよ」

 先程まで夏油君が居たのだろうリビングの扉の隙間からは一筋の光が漏れている。まだ、玄関先は暗くて良かった。なるべく顔を見ないよう、俯き加減にパンプスを脱いで上り框へと足を踏み出す。そのまま、夏油君の横を通り過ぎて脱衣所を目指そうとして――腕を掴まれた。

「君は、そんな堅苦しいスーツやパンプスを履いて呪霊を祓うのか?」

 掴まれた腕は痛くはないけれど、とても力強く、私が引いてもびくともしない。
 夏油君の淡々とした指摘は恐ろしく玄関先へ響いて、私の残り少ない余裕を根こそぎ奪い去ってしまった。彼は、私に与えられた任務の内容を把握している。術師としての腕前は元より、頭の出来だって良い後輩だったのだからきっとそう。

「だって、私が役に立てるのはそれくらいだから」

 口から飛び出した言葉に嘘はない。私の術式は、視界に入った対象者の思考を読むものだ。戦闘ではあまり役に立たず、呪霊より対人間相手に適している。それに加え、私は同年代の呪術師と比べ体術や呪力も並みか中の上程度だ。世の中には適材適所と言う言葉がある。上も私の有効性を理解し、この任務を与えている。一級の呪霊には一級呪術師が。特級の呪霊には特級呪術師が。呪詛師には尋問に適した二級呪術師である私が。ただ、それだけの事だ。

「灰原が、以前君を高専敷地内で見たと言っていた。今日のように夜遅く、疲れた雰囲気をしていたとも。今回のような任務はこれで何回目だ?」
「多分、十回目……かな」

 三日前、夏油君を高専から連れ出した時と逆の立場になったかのようだ。
 振り向き見た彼の顔は、まるで自分の事のように傷ついた表情を浮かべていて、こちらが言葉に詰まってしまう。眉を寄せ、少し薄くなった隈の残る目元には力がこもり、薄い唇が何かを決意するように噛み締められたのが見えた。

「先程の口振りからして君は望んでその任務を請け負っている訳ではない、そうだろう?」
「……う、うん」
「分かった。それだけ聞ければ十分だ」

 夏油君は、一つ頷いてから拘束していた私の腕を解放した。そして今度は私の背中を押す。押し込められた先は、当初の目的地である脱衣所だった。

「とりあえずシャワー浴びておいで。飲み物を用意して待っているから」
「え、夏油君寝ていてもいいよ。だってもうこんな時間だし」
「いいんだ。横になっても今日は寝付けそうにないからね。ゆっくりしておいで」

 そう言って微笑んだ夏油君の顔が見えなくなった。静かに閉まった扉から洗面台の鏡へ視線を移せば、そこには確かに疲れ果てた女の顔が映っている。
 ああもう、これだから見せなくなかったのに。自覚していただけに腹立たしい。三つ下の後輩は勿論、保護監督している筈の後輩にすら心配を掛ける自分が何時になく情けなかった。



 宣言通り、夏油君は起きて待っていてくれた。濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに顔を出せば、ちょうど台所から出てきた彼と鉢合わせになる。

「ちょうど良かった。はい、これ風呂上がりの一杯」

 薄ら黄色がかった液体の注がれたグラスには、涼しげな水滴が滲み、鼻を近づければ爽やかな香りと共にシロップ系の甘い匂いがした。恐る恐ると唇を近づけ一口飲む。檸檬の風味とシロップの甘さが口いっぱいに広がる。レモネードだ。
 導かれるまま、広いリビングのごく僅かなスペースに隣同士座り込んだ。膝が触れている程の近距離で夏油君が「疲れた身体に染みるだろ?」と冗談っぽく囁く。それに頷きを返して、すっかり空になったグラスをローテーブルの上へ置いた。

「ねえ、名前」
「うん?」
「今日は一緒に寝ようか」
「ん!?」

 突拍子のない発言だ。レモネードを飲み終わっていて良かった。飲んでいる最中だったら危うく吹き出していたところだ。それでも衝撃で軽く咽せながら夏油君の顔を見上げる。何の恥ずかしげもない、至って平常通りの彼の顔がそこにあった。
 この子たまにこうやって女慣れしているところを見せてくるんだよな――だから、どこまで本気か分からないんだよな――なんて考えて咳払いをする。

「と、唐突だね……今までの会話の流れで何で一緒に寝ようって話になるの?」
「現時刻は真夜中の一時。夜更かししたせいで今から横になっても眠れそうになくてね。人肌に触れたら安心して眠れる気がするんだけど……やっぱりダメかな?」

 やっぱりダメかな。最後に加えたその一言が、彼がモテる男である所以を物語っている気がしてならない。特に、先程の苛立っている様子の夏油君を見ているからか、危うくそのギャップにほいほい騙されそうになる。
 私がこうしてああだこうだと考えている最中でも、夏油君の顔には戸惑いも羞恥もないのだから本当に信じられない。どうにかしてこの場を切り抜けたいと思うのに、疲労に加え入浴とレモネードの効果か、身体は今すぐに眠りたいと必死に訴えかけて来る。すると、膝の横に垂らしていた手に何かが触れた。何か、ではない。私は、これの正体を知っている。

「と言うのは建前で、本当は私が名前を一人にしたくないだけなんだ。ごめんね、狡い言い方ばかりしてしまって」
「……分かってるならやめてほしいんだけどなあ」
「ヤダ。ただ添い寝するだけ。私の事は良い湯たんぽ代わりにしてもらっていいから。ね、いいだろう?」

 今は夏だから湯たんぽなんて必要としていないよ、なんて言える雰囲気でない事くらい私でも分かる。
 握り締めて来る夏油君の手は、風呂上がりの私に比べ冷えていて、乾燥しているのか指先は少しカサついていた。拒否をするのは簡単で、ただ私が「ヤダ」と先程の夏油君と同じ言葉を吐くだけで良い。それでもその言葉を吐けないのは、彼が言う通り、私がこの後輩に甘いからなのだろうか。

 そんな事を考えている間に事態はとんとん拍子で進んだ。場所は移って私の自室。今まで祖母か父しか足を踏み入れた事のない自分の狭いテリトリー。そこに後輩の青年を招き入れている事実に、脳がくらりと眩暈を起こす。

「絶対狭いよ」
「そうだね」
「寝るにしても座敷にもう一つ布団敷いた方がいいと思うんだけど」
「ここまで来たんだし降りるのも面倒だろ」
「階段降るだけですが?」
「はいはい、とりあえず横になろうねー」

 今夜の夏油君は何時になく強引で、そんなに怒らせてしまったのかと背筋に冷たい物が走る。
 腕を引かれるまま倒れ込んだシングルベッドは、私ひとりでは丁度よくても体格の良い夏油君も一緒となると案の定狭い。身体をぺったりと壁に張り付けて夏油君の寝るスペースを確保する。彼は、枕を持って上がらなかったので、このベッドには私が日頃使っている枕一つしかない。私の分で申し訳ないが、それを使ってもらう他ないだろう。全て彼を思っての行動だったのに、夏油君はそれがまた大層ご不満だったらしい。「ねぇ」と平常より少し低い声が聞こえたと思えば、次の瞬間には腹部に腕が回り引き寄せられる。逃げ出す暇も隙もなかった。しっかりと背後から抱き抱えられる形になって、唯一動く指先が壁と言う名の行き場を求めてふらふらと揺れてしまう。

「そんなに壁が好きかい? 離れていたんじゃ一緒に寝る意味がないだろう」
「だ、だって、夏油君狭いでしょう? それに枕も一つしかないし使ってもらおうか、と……」
「なるほど。またしても私に気を遣ってくれたわけだ」
「っ、だからそんなんじゃ」

 続きの言葉は声に出す前に喉元で消えてしまった。視界が暗くなる。すっぽりと、夏用の薄い掛け布団を頭まで被せられたのだ。そのまま、もう一度抱き寄せられる。背中に夏油君の胸が当たっていた。心臓の鼓動が聞こえる。

「落ち着いた?」
「……」
「ハグってね、ヒーリング効果があるんだよ。幸福ホルモンが分泌されてストレスが軽減されるんだって。所謂人肌効果ってやつかな」
「今、逆に心臓バクバク言ってるんだけど」
「はは、そう。それは残念」

 言葉とは真逆に、声色は全然残念とも思っていなさそうで思わず笑ってしまった。すると夏油君は「笑うなよ」と少し恥ずかしげにボヤいて、布団から這い出した私の頭頂部に顎を乗せる。そして、キュッと私の腹部に回した両手に力を込めた。

「少しね、私の方が不安になっていたんだ」
「え? なにが不安なの」
「ここに来て三日。あまりにも日々が良く出来過ぎていて私の夢なんじゃないかと、情けない話怖くなったんだよ。特に今日は、名前も家にいなかったからね」

 夏油君には申し訳ないが、その言葉を聞いた時、確かに私は喜んだ。私のエゴでしかなかった筈の向こう見ずな行為が、彼にとって良い方向に捉えられている事が嬉しくてたまらなかったのだ。
 緩んでしまった頬を布団に埋める。部屋は真っ暗で、背中を預けているこの体勢では私の顔も見えないだろうが、心理的に落ち着く事が出来た。
 二人の間には、しばらくの沈黙が横たわっていた。先に口を開いたのは私の方で、物音一つしない室内に「あのさ」と会話の切り口を落とす。

「花火、今日出来なかったじゃない。明日、晴れたらやろっか」

 任務のせいで花火は用意出来ていないが、スーパーにまだ売っているはずだ。日が登って、朝ご飯を食べて、洗濯物を干して、掃除をして、それから昼ご飯を食べて、その後二人で買い物に行ったらいい。どうやら私は、思いつきで物を多く買い過ぎてしまう癖があるようなので、力のある夏油君がついて来てくれると大変助かる。数日分の食料を買い込んで、あとこの際もっと別のお菓子作りにも挑戦出来たらいいな、なんて――考えている間に目蓋が重くなって来た。

「名前、眠い? 私も眠くなって来たよ」
「うん」
「じゃあ、もう寝よう。明日の花火、楽しみだね」
「そうだね、うん、楽しみ……」
「おやすみ、名前」
「夏油君も、おやすみ」

 身体から力が抜けて、意識が遠のいて行くのが分かる。夏油君は、相変わらず私を抱き締めたままで、心地良い寝場所を求めて少し身動ぎすると、そのまま寝息を立て出したようだった。

 しかし、私達の希望も虚しく翌日は夕方から天気が急変。この季節にしては珍しい土砂降りの雨となった。用意した花火は使えず仕舞い。残念ではあったけれど、お互い心は穏やかだ。向かい合って、雨の音を聞きながら食事を取り「この天気じゃ仕方ないね」と笑い合う。
 その時、ローテーブルの片隅に、息を殺すようにひっそりと置かれていた携帯がけたたましく着信音を響かせた。お互い肩を震わせて、私は慌てて折り畳まれた画面を開く。電話の相手は夜蛾先生だった。一瞬だけ夏油君と目が合った。彼は不思議そうに首を傾げて私の動向を見守っている。小さく息を吸い込んで通話ボタンを押した。

『名前か。落ち着いて聞いてほしい。二年生の灰原が――』

 そこからは二人共慌てていて、あまり良く覚えていない。気が付けば着のみ着のまま呼び付けたタクシーに飛び乗り、呪術高専を目指していた。
 雨足は更に酷くなっていた。薄暗い車内で盗み見た夏油君の表情は、色を失くしてしまったかのように固まっていて。それでも、家を出る時からずっと握られた手だけは、痛い程力が込められていた。

20210613