青い春


 しんしんと雪の降り頻る年の暮れ。吹き荒ぶ寒風に大きな身体を縮こませながら、夏油は目的地を目指していた。
 その背中と両手には大きな荷物が複数個もあり、防寒着ですっかり着膨れた姿と相成って人の目を強くひきつけた。好意的な視線でもなければ、相手は非術師だ。腹の奥、数千の呪霊と共に共存している黒い蜿がドロドロと煮え滾るのを感じる。
 耳と目、両方に蓋をするように夏油はさらに早足で角を曲がった。ここを過ぎれば後は直線の道のみ。もう既に、あれだけ遠く思えた目的地は見えていた。

「おかえりなさい夏油様ー!」
「おかえりなさい!」

 悴んだ指先でチャイムを鳴らすと、家の住人は玄関まで飛ぶように駆けてきた。
 すっかり鍵の開け閉めをマスターした美々子と菜々子は、雪空の下、沢山の荷物を抱えて立っている夏油に勢いよく飛びついた。道行く町の住人が、なんだ苗字さんの家の人だったのかと肩を撫で下ろして家の前を通り過ぎて行く。溜飲の下がる思いがした。
 初めて抱き上げた時よりも重くなった二人の身体を支えるようにして家の中へ入ると、暖房の温もりが冷えた身体に染み渡る。ほう、と息を吐いて抱えていた荷物を全て下ろしマフラーを解いた。すると、廊下の先、リビングの向こうの台所から名前が顔を覗かせる。

「おかえり夏油君、寒かったでしょう。先にお風呂入る?」
「ただいま。うーん、そうだなあ……うん、そうさせてもらおうかな」
「えっ、ななこも一緒に入る!」
「みみこも!」
「それはダメ。後で名前と入りな」

 途端に文句を言う二人を名前に引き剥がしてもらい、帰宅早々浴室に身を滑り込ませた。提案してくれた通り浴槽にはお湯が並々張ってあって、身体の大きな夏油が沈むと大量のお湯が流れ出た。
 名前なら量を調整するだろうし、大方美々子と菜々子がお湯を確認したのだろうな。
 濡れた掌で落ちてくる前髪を後ろへ流し、もう一度今度は大きく、ゆっくりと息を吐く。やけに大きく響いてしまい思わず自嘲の笑みが溢れた。
 たった一年で随分と親父くさくなったものだ。

「お風呂掃除、二人でやったんだよ!」
「あわあわ凄かったの」
「へえ、偉いね二人共。通りで気持ち良いと思ったよ」

 夏油が浴室から出てくるのを待ち構えていたのか、二人はリビングの扉から上下に顔を覗かせてこちらを見ていた。
 風呂上がりで湯気の立つ夏油の大きな手にしがみ付いた二人は、お茶を取りに台所へ足を踏み入れても離れる事はなく、夏油様、夏油様、と会えなかった間の出来事を事細かに語ってくれた。夏油は相槌を打つのに忙しく、冷蔵庫から取り出したお茶を飲む暇さえない。すると、会話を聞きながらコンロに向かっていた名前が小さく両肩を震わせているのが目に飛び込んだ。僅か六歳の少女達のパワーに圧される夏油の姿が余程面白かったらしい。

「名前」
「っ、ごめんごめん。はい、二人共お手伝いして。お皿並べたらもうご飯にするよ」
「あ! 名前、なんでブロッコリー入れてるの!」
「人参も!」

 子供の興味の移り変わりは早いもので、出来上がった料理に瞳を輝かせたかと思えば、自分の嫌いな食べ物を見つけて文句を言う。しかし、名前も共に過ごし始めて一年も経てばそんな文句には慣れっこなようで、足にしがみつく二人の身体を器用に支えながら洗い物を始めた。
 それでも小さく「昔は好き嫌いなかったのに何でこうなった」と悪態をつくものだから、今度は夏油が吹き出す番だった。お茶を飲んでいなくて良かった。危うくおろしたてのスウェットを汚すところだった。

「美々子と菜々子、二人とも身長伸びたんじゃない?」
「あ、やっぱり分かる? この間測ったら美々子の方が五ミリ高かったんだよ。成長が早いね、この年頃は」

 美々子と菜々子は特別番組に夢中になっている。その間に洗い物を始めた名前の背中を眺めるこの時間が夏油は好きだった。
 名前の祖母の代から物置代わりとなっているダイニングテーブルに肘をつき、揺れるエプロンの紐を眺める。少し形が歪な蝶々結びは、菜々子が結んでくれたと言う。最近の菜々子は、双子である美々子よりも一足先におしゃれに目覚めつつあり、この間も子供用のリップを強請られたそうだ。

「やっぱり中退しようかな、私」
「あと三ヶ月だよ。いいの?」
「寂しいんだよ、これでもさ」

 手を伸ばしてリボンの裾に指を掛ける。そのまま指先に巻きつけてパッと離した。

「ま、短い青い春だしね。存分に満喫するさ」

 名前に全てを吐き出した秋の晩は、もう一年以上も前になる。呪霊の硬い背中の上、通話では語り切れなかった思いを吐き出した夏油の背を撫でて、名前は「君の好きにしたらいいよ」と夏油の全てを肯定した。
 その際、高専から離れる事も考えた。すると、名前は術式を用いたのか夏油の悩みを見越した上で中退は踏み留まるように語りかけた。勿論、無理強いするわけではない。最終判断は夏油に委ねた上で、短い青春を自分なりに楽しむようにと微笑んだのだ。
 結果として夏油は、卒業を後三ヶ月後に控えた四年生として呪術高専に在籍している。総監部に脅しと共に切った啖呵は現在も効力を持ち、夏油に回ってくる任務は非術師の絡まない対呪霊任務ばかりで、名前にも尋問官としての任務はあれ以来与えられていない。夏油が頭を悩ませて名前の漢字を与えた美々子と菜々子は、一時的に名前の保護下におかれ、夏油が成人すると同時に彼女達の意見を聞いた上で養子縁組する手筈となっていた。

「あ、そうだ夏油君。年明け、高専に戻る時の作り置きのおかず何がいい?」
「んー肉じゃがかな」
「あれ、この間も作らなかったっけ私」
「……目を離した隙に悟に食べられたんだよ」

 当時を思い出した夏油の眉間に深々と皺が寄る。苛立たしく唇の端を歪めた夏油に、名前は苦笑しながら了承の意を返した。五条に取られた。想像出来る光景だ。
 卒業まで高専に在籍するにあたり、夏油は毎週末名前の家へ帰る事を望んだ。五条と家入は、それぞれ別の意図があれど両者共に露骨に表情を歪めたが、夜蛾が許可を出した事により毎週末の帰省が認められた。とは言え、夏油は特級呪術師である。一級呪術師では手におえない呪霊が発生すれば、五条と同じく祓除任務にあたらなければならない。
 人間の負の感情が消えないように呪術師に休みなんてものが存在するはずもなく、今日だって本当は冬休み初日には帰省する予定がクリスマス明けになってしまった。しかも与えられた任務は、当初の予定から変更され非術師絡みのものであった。当然、夏油は荒れた。表面はいつもの優等生面を引っ提げていたが、夏油をよく知る五条達には分かる変化があった。いつもなら文句を言う五条が「早く行け」と荷造りを手伝うくらいなので相当参っていたに違いない。

「でも五条家の御子息が食べてくれるなんて少し光栄かもね」
「名前までやめてくれよ。また取られそうで不安になる」
「ごめんね。じゃあ多めに作っておくから、もし五条君がまた食べる気でいたら少し分けてあげたら?」

 洗い物を終えた名前がタオルで手を拭きながらこちらへ振り返る。彼女の顔にのせられた困ったような笑みを見て思い出す事があった。
 紅一点である級友家入による有難い助言は日々更新されている。今日もまた、高専を立つ直前に言われたのは「名前さんにあんま我儘言うんじゃないぞ」だ。まるで保護者のような事を言うものだな、と感心するのが半分。自分はそんなに我儘ばかり言って来たのかと驚くのが半分。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした夏油に、家入は苦々しい表情をして煙草を噛んだ。

「ねえ、名前」
「ん?」
「以前、私が高専を卒業したらここに住んでもいいって言ってくれたよね」
「うん」
「本当にいいのかい?」
「うん?」

 名前の顔から笑みが抜け落ちた。目玉が溢れそうなほど大きく目を見開いていて、口はポカンと開いている。あまり見た事のない名前の間抜けな表情に、夏油はキュッと唇を一文字に結んだ。

「え、なに、やっぱり一人暮らししたくなったとか?」
「いや、そんな事はない」
「じゃあ、どうして……」
「最終確認かな。あの子達の世話も任せっぱなしだし、そこに私まで来たら君の負担が増えるんじゃないかって、そんな考えが頭を過ってね」

 夏油が言葉を重ねる度に名前の眉間に皺が寄る。エプロンの紐を解く事もなく、腰に手をあてた名前は、空を睨み、それから下を向いて小さく唸り声を上げた後、顔を上げた。

「私、そんなに疲れたような顔してた?」
「いや」
「あの子達の世話や夏油君が帰って来るのが苦ですなんて一言でも言った?」
「聞いた事ない、です」
「じゃあもうそんな事聞かないで。悲しくなるから」
「うん、ごめん」

 萎れるような謝罪の言葉を聞いて名前の溜飲は下がったらしい。
 名前は、早々に話題を切り替えるべく冷蔵庫へと向かった。夏油が美々子と菜々子への土産として数日遅れのクリスマスケーキを買って来ていたのである。実際は、サンタやトナカイは乗っていない、少しお高めのホールケーキなのだけど二人が喜ぶのは必至だ。
 ケーキの三分のニは二人の胃袋に、残り三分の一の内ほんの一口を夏油が貰って、残りは名前の胃袋に収まる事になる。特別番組が終わったのか菜々子が台所に顔を出し、名前が手に持つ白い箱を発見した。「ケーキだ!」喜びの声に美々子も駆けて来る。大きな瞳をキラキラと輝かせて、早く見せてと名前に飛び付きかねない小さな二人の身体を、夏油は軽々と抱き上げた。

「名前」

 すっぽりと腕の中に収まった美々子と菜々子が何事だろうかと、夏油の顔を見上げている。色彩は違えど、そっくりな二人に微笑みかけてやり、取り皿を用意する名前へ再度目を向けた。

「ありがとう。大好きだよ」

 途端に、名前の頬が赤く染まる。視線がうろうろと泳いでいて動揺を隠し切れていない。

「それ、何回か言われたけどやっぱり恥ずかしいね」
「なぜ? 私は全く恥ずかしくもないけど」
「あーそりゃあ、夏油君は慣れてるのかもしれないけどさ……うん」

 赤色の抜けない頬を軽く指先でかいて、名前が眉を下げた。なんとも下手くそな笑い方だったけれど、名前らしくて、それがまた夏油の胸を熱くする事を彼女は知らないでいる。

「こちらこそ、ありがとう。私もね、三人の事大好きだよ」

 今度は、美々子と菜々子が頬を赤く染める番だった。名前と違い、恥ずかしがるわけでもなく歓声を上げて、感情のまま、夏油の腕の中バタバタと手足を揺らす。
 二人の足が腹部を殴打する度少し痛い。確かな成長を文字通り肌で感じつつ、夏油は隈の薄くなった目元をくしゃっと柔らげた。
 寂しさなど全く感じない。今、心の底から幸せだと思えた。



 二〇〇九年三月初旬。
 まだ冷たい風の吹く初春、東京都立呪術高等専門学校に在籍する四年生三人は卒業式を迎えていた。
 四年間過ごした学舎を巣立つ事となるが誰ひとりとして泣く者も感慨深くなる者もいない。唯一二年生になる伊地知が、五条からの後輩指導と言う名の嫌がらせがなくなると涙ながらに喜んでいたが、目敏くも察知した五条により学生時代最後のマジビンタが約束されてしまった。
 家入は医師免許取得のため大学への進学が決まっていたし、五条も準備期間を経て高専の教師となる道が定まっていた。二人とも高専に所属しながらの新生活となったが、夏油はひとり違う道を選んでいた。

「フリーの呪術師ね。ま、特級なら有りだわな」
「そ。だから依頼宜しくね五条先生。あ、勿論呪霊祓除だけでたのむよ」

 現在、日本における呪術師の過半数は呪術高専に所属し任務を請け負っている。けれど、中にはあえて所属先を持たず、舞い込んでくる依頼だけを受ける呪術師も存在していた。

「そんなに嫌かよ、ここが」
「高専の全てが憎いわけじゃない。ただ、今はやりたい事が山ほどあるんだ。組織に縛られたくないだけさ」
「高専史上最大の問題児め」
「なんとでも。それに君も同類だろう」

 正門前では在校生や夜蛾に混じり、家入が無表情に最近買い換えたスマートフォンを弄っていた。夏油達に気が付いた家入が顔を上げて、早く来いと二人に手招きをする。

「おい、クズ共。写真撮るぞ」
「クズ……なんで?」
「クズ……なに硝子、寂しくなったのか?」
「絶対に違う。さっきメールが来てて、名前さんがせっかくだから記念写真撮って送ってくれってさ」
「え、今から私帰るのに」
「いいから。ほら、さっさと並べ」

 問答無用とばかりに腕を引かれ、三人横並びになる。中央には家入、左右には五条と夏油が並び、スマートフォンのシャッターは夜蛾が切った。撮れた写真を確認すれば、意外な事に皆晴れやかな笑顔で、らしくないなと笑えてしまう。特に五条は、サングラスを外す暇がなかった事に不貞腐れていたが、再度写真を撮る事はしなかった。
 誰も別れの挨拶はしなかった。まず、家族の迎えが来た家入が高専を出た。五条も本家より迎えの車が来る予定だったが、それを頑なに拒んだ。夏油と共に在来線を乗り継いで、それぞれの自宅へ戻る予定だ。
 胸には布で出来た花飾り、手には卒業証書。昨年よりも長く伸びた黒髪を揺らし、夏油は五条と並んで正門を出た。莚麓山が小さくなった頃、手に持った大きなボストンバッグに花飾りと卒業証書を入れ込んだ。
 電車の本数は少なく、待ち時間は長い。二人並んで色褪せたベンチに座り込む。五条は不機嫌顔でスマートフォンを操作して、夏油はボンヤリと幾度となく利用した駅のホームを眺めていた。

「意外だったな。悟が教師を目指すなんて」
「傑こそ、まさかフリーの呪術師になるなんて思わなかったよ、僕は」
「ぷっ、あの悟が僕だなんて……はあ、聞き慣れないな。会う度笑っちゃいそう」
「あん? お前が一人称変えろって言ったんだろ」
「そうだね。偉い偉い」
「保護者かよ。変な前髪」
「懐かしいな、それ」

 時間は刻一刻と過ぎていって、定刻通りならもうすぐ電車がホームへ滑り込んで来る。
 さて、そう掛声を上げて夏油はベンチから立ち上がった。手にはボストンバッグを持って、人気のないホームに見慣れた飛行型の呪霊を顕現させる。

「なんだよ、やっぱ公共交通機関は使わないわけね」
「高校生活最後だしたまにはいいかなとも思ったのだけど、やはり非術師だらけの空間に耐えられる気はしないな。誤って手にかけるわけにもいかないし」
「正直だな」
「我儘になっていいと言ってくれた人がいたからね」

 ホームに電車の到着を知らせるアラートが鳴り響く。夏油は素早く呪霊の背に飛び乗ると、五条に片手を振って空高くへと飛行した。
 夏油は、卒業と同時に実質、実家との縁を切った。非術師は嫌いだと言う本音を選んだ以上、たとえ実の両親であっても例外には出来なかった。
 やはり今回も、名前は夏油の決意を否定しなかった。卒業式直前の週末でさえ高専から離れた名前の家で過ごす夏油を見て、仕方がないとでも思ったのかもしれない。たとえそうだったとしても、批難や否定をしないでいてくれる事が夏油にはありがたかった。この選択に後悔はない。両親を深く悲しませる結果となってしまったが、自分が生きる上で必要な選択だったのだ。
 ポケットの中で震えたスライド式の携帯には、メールが一件届いていた。差出人は名前で、件名には「卒業おめでとう」と書かれている。キーボードを操作して本文を開くと写真が一枚送付されていた。顔を真っ白にさせて何かを練って伸ばしている美々子と菜々子の姿だった。

『二人が卒業祝いに夏油様の好きな物を作りたいと言うので蕎麦打ちに初挑戦しています。掃除が大変そうです』

 最後に付け加えられた一言から名前の苦労が窺える。同時に、蕎麦粉で真っ白になった台所をせっせと掃除する名前の姿も容易に想像出来て、思わず目に涙が浮かぶほど笑ってしまった。
 春は出会いと別れの季節だと言う。二年前、あれほど苦しさを覚えた春も今回は、ちゃんと出会いを連れて来てくれた。寂しさは全く感じない。
 胸についた渦巻き模様の釦を引き千切り、力一杯宙へと投げた。遠く、キラキラと輝いて消えて行く高専所属の証を、夏油は静かに見送った。
 青い春は手を振って去って行った。明日からは、また新たな春が待っている。

青い春/20210630