幕開け


 呪術高専の在る莚麓山から二つ程町を移動すれば、東京郊外の閑静な住宅地が広がっている。単身で住むには僅かに広い寝室書斎が備わっているマンションの一室に、夏油の悲痛な叫びが轟いていた。

「名前がお小遣い制を導入してくれない……!」

 先程まったく同じ文言を吐いたくせに、どうやらすっかり忘れてしまっているらしい。酒の力は恐ろしいものだ。
 ここは、五条の新居。ガラス張りのテーブルに叩きつけられたグラスがカタカタと音を立てて止まる。飛び散ったポテトチップスを急ぎ口に含みながら、五条は斜め前の家入と視線を合わせ一つ頷き合った。こいつ、かなりの重症だ。

 時は二〇〇九年年の暮れ。同期三人が一堂に会するのは、実に三月の卒業式以来である。家入は、入学した医大の勉強に忙しく、五条もごねる本家の説得や教員になるための準備に右往左往して、夏油も新生活に慣れるまでに時間を要していた。
 夏油は、高専卒業と同時に実質上肉親のとの縁を切り、かねてより懇意にしていた名前の元へ完全に身を寄せた。二年前、非術師と呪術師の責務との間で心身共に疲弊していた夏油も今では吹っ切れたように極力非術師に頼らない生活を送っている。今回の忘年会だって、春頃に名前が大量に漬けた梅酒を持参しての開催となった。あれほど好きだったビールにも一切手をつけず、随分と女性的な酒を好むようになったものだ。家入は、ひとり日本酒の瓶を抱えながら明後日の方角へ視線を向けた。
 名前さんに甘えすぎ、とは家入の談で、それを五条も否定はしない。だが、夏油は当の名前から遠慮はするなと言われているのもあって気にする様子はまるでない。食べたい物があれば言うし、してほしい事があっても言う。勿論そこには名前に過大な負担をかけないという大前提が存在するのだが、どうにも二個年上の苗字名前と言う女性は、夏油や彼の養女にあたる少女二人に対し甘すぎるところがあった。そう、話の発端であるお小遣い制というもの、元を辿れば夏油の我儘に原因がある。

「全財産の入った通帳ポンっと渡されて管理してほしいなんて言われたら、いくら名前さんでも引くに決まってんじゃん」
「傑の依頼料破格だしね。どうせ溜め込んでんでしょお前」

 高専側からの引き止める声を全て振り切る形でフリーの呪術師となり、生計を立てている夏油への依頼料は文字通り破格だ。依頼内容によって金額は変わるが、呪霊祓除だけでも相場のほぼ倍の額である。本人曰く同じくフリーの呪術師である冥冥よりは安いとの事だったが、側から見ればあまり差異はない。それでも夏油に依頼が舞い込むのは、やはり夏油傑本人の等級が日本国内にたった三人しかいない特級だからだろう。
 つい先日も高専からの橋渡し役としてこき使われた五条は、夏油並かそれ以上に稼いでいるのだが、自分の事は棚に上げる事にしたらしい。「イヤねぇ」と態とらしい悪態と共に大きな身体をくねらせてみせた。

「稼ぎを入れるのは男の甲斐性だろう」
「そう言うとこ拘るよねお前も」
「私は外食もしないし非術師が生産元の物を余計に買うつもりもない。だから依頼料なんて美々子や菜々子の養育費や私、名前の生活費に充てるしか使い道がないんだ。それなのに名前は、私と娘達三人分の最低限の生活費だけを受け取っていつまで経っても通帳の中身を使ってくれない。挙げ句の果てには夏油君が好きなように使ったらいいんだよ、だってさ……私は名前に管理してもらって家族のために使いたいんだ。私自身は彼女から渡される月三万円とか、そんな微々たるお小遣いだけで生活したいんだよ……」
「世のサラリーマンに刺されるぞ夏油」

 呪詛を吐き出すように全てを語り終えた夏油の頭がテーブルに吸い込まれる。長く伸びた黒髪が広がり、意外と傷付いていない毛先に名前の繊細な心配りを見た気がした。
 このまま夏油の、世の中から見れば贅沢な愚痴を聞いていたところで埒が明かない。家入が新しいボトルを取りに台所へ立ったと同時に、五条は早々に話題を切り替えにかかった。

「それで? 首尾は上々なのかよ教祖様」

 夏油の中には新たな理想――大義が燃えている。それを知る五条から投げかけられた問いに、夏油はゆるゆると顔を上げた。テーブルに肘を立て、そこに顔を寄せながら切長の目を更に細くさせ、薄い唇で緩やかな弧を描く。
 その表情が全てを物語っている気がして、五条は親友からの返答を聞くまでもなく、うんざりとした様子で舌を出した。



 同期三人の飲み会――下戸の五条はソフトドリンクだったが――は深夜まで続き、珍しくぐでんぐでんに酔っ払った夏油の帰宅は零時を回り切った午前一時過ぎとなった。
 ここまで背に乗ってきた呪霊を仕舞い込み、予想通り真っ暗な我が家を見上げると、腹の奥にすーっと冷たい風が吹き抜ける心地がする。少しだけ酔いも覚めた気さえした。
 元は名前の祖母の持ち家だった古い一軒家は、玄関を開けると直ぐ廊下を挟み左右にリビングと座敷が広がっている。すっかり寝室と化した座敷で眠っているであろう三人を起こさないよう、合鍵で解錠の後、慎重に横開きの玄関扉を開けた。しかし、どうした事だろうか。玄関から見て左側、リビングから灯りが漏れている。右側、座敷を覗けば、子供用布団に包まり健やかな寝息を立てる美々子、菜々子の姿があった。昨日とは左右が逆だ。今日は菜々子が夏油の横で眠る番らしい。

「名前、まだ起きてたのか」
「あ、おかえり夏油君」

 リビングの扉を開けてみれば、名前がテレビ前のソファで膝を抱えていた。どうやら映画を見ていたらしく、画面には悲鳴と狂気に満ちた叫び声と共に不快感を煽るような映像が次々と映し出されていた。
 行儀悪く床に放り出されたままだったケースを拾い上げる。黒い背景にあえてなのかモノクロの人物画。タイトルは『ミミズ人間』だ。

「これ、学生の頃悟と見た覚えがあるな」
「それね、五条君が見てみろって貸してくれたんだよ」
「やっぱり。で、名前の感想は?」
「……ごめん、よく分からないや」
「だろうね」

 男の自分でもまともな感想を抱けなかったのだ。女である名前が首を傾げるのも無理はない。
 ケースをテレビ台の上へ移動して、名前の横の空いたスペースに腰掛ける。拳一つ分ほどの距離感を保ったまま正面の液晶画面を見れば、ちょうどラストシーンだと気が付いた。確かあまり良い終わり方ではなかったはずだ。
 顔は正面に向けたまま視線だけを投げれば、よく分からないと言いつつも、律儀に最後まで見届けようとする名前の横顔が見えた。緊迫したシーンに感化されたのか、神妙な面持ちで画面を食い入るように眺めているものだから、ちょっとした悪戯心が湧いた。ピンと立てた人差し指で無防備な脇を突く。すると名前は、悲鳴を上げて勢いよくこちらへと振り返った。

「なに!?」
「いや、真剣に見てるなって」
「さては夏油君、酔ってるでしょう」
「酔ってないよ」
「酔っ払いは皆そう言うんだよ」

 正確には先程までは酔っていたが、今は酔っていないというのが正しい。元々夏油は家入程ではないにせよ酒に強い。現在も少々頭がボンヤリとはしているが、気分がやけに高揚していたり、記憶を飛ばしたりなどする程のものではなかった。
 けれど、名前は夏油の言葉を信じてはくれなかったらしい。彼女はソファから立ち上がると台所へ入り、片手にミネラルウォーターを持ってリビングへと戻って来た。その間に映画はもうエンドロールに入り、おどろおどろしいBGMと共に長いスタッフクレジットを流すのみとなっていた。

「家にあった残りの梅酒全部持って行ったでしょう。春までお酒飲めないよ」
「それは困ったね。どうしようかな」
「困ってなさそ」
「うん。まあ今日で飲み溜めしたし、暫くはいいかなって」

 非術師に頼らない生活を心がけていても、実際のところ全てを自給自足するのは無理があった。それでも名前は、夏油の信念に合わせ、出来る限り自作してくれるのだから頭が上がらない。
 水を飲む夏油の前に立ったままの名前の手を取った。尋問官としての任務がなくなった代わりに呪霊祓除任務を請け負う事の増えた彼女の手は、以前にも増して硬くなってしまった。呪具の柄を握りすぎて皮の厚くなった指先を、己の指先でなぞる。「眠いの?」と微笑まじりに名前が問い掛け、それに「そうかも」と肯定の言葉を吐く。

「布団も敷いてあるし今日はもうこのまま寝なよ。菜々子ってば、せっかく横で寝られる日に夏油君が帰って来ないから拗ねちゃって、寝かしつけるの大変だったんだから」
「寝たいのは山々なんだがシャワー浴びようかな。朝、あの子達に酒臭いって言われたくないしね」
「そんなにお酒の匂いしないし大丈夫だと思うけど……あ、気になるなら二階の私の部屋で寝たら? ベッドあるし」
「うーん、でも一人寝は寂しいな」

 ああ言えばこう言う。名前の眉が跳ねる瞬間を目撃した。
 だが、夏油は慌てない。笑みを消す事もなく、握りしめたままの名前の手を揺らしながら次の言葉を待っている。
 名前は、夏油に甘い。高専時代に始まり、今は更に甘さが増した。家入は勿論、あの五条も認めているし、夏油もそれを理解している。唯一、首を傾げているのは名前だけで、彼女は夏油の我儘に大概弱い。
 結局、名前は折れた。一人寝が寂しいなんて宣う一八〇を優に超える大男の我儘を呑んでしまった。
 二階に上がる前に一度座敷を覗いてみれば、美々子と菜々子は相変わらず健やかな寝息を立てていた。二人の頭を一撫でして足音を立てぬように階段を登る。
 名前を抱えたままシングルベッドに横になるのは久々だった。鼻下に収まった彼女の頭に顔を擦りつけ、深く息を吸う。嗅ぎ慣れたシャンプーの香りに、段々と目蓋が重くなる。

「ああ、そうだった名前」
「んー?」
「年明けから少し出掛ける事が増えそうなんだけど、美々子達の事、頼めるかな」
「いいけど、なに、仕事?」

 名前も睡魔に負けかけているのだろう。億劫な口ぶりに苦笑しつつ、腹部に回した腕を自分の方に引き寄せた。彼女の背に、自分の胸を寄せ、本格的に入眠体勢に入る。

「仕事じゃない。やりたい事があるんだよ」

 夏油の答えに名前は疑問符を浮かべる事もなく、そのまますぐに意識を夜の奥へと沈めた。その身体をしっかりと抱いたまま目蓋を閉じる。
 二〇〇七年頃からすっかり目蓋の下に根付いてしまった隈は、今はもう影も形もない。各所から痩せたと心配された身体も、生活の改善によりすっかり厚みを取り戻している。
 使われる事のない通帳の中身を思い出すと、やはり寂しいような気持ちになるが、何を言ったところで名前は首を縦には振らないだろう。二歳の年の差を埋める手立ては、未だ見つかっていないのである。
 今の関係性を言葉で表すならば、きっと家族と言うものが一番近い。幾度となく告げた大好きという言葉の真意を互いに理解はしていたが、あえて口にするのは避けている節があった。

 家族という言葉の上に胡坐をかいたまま、時は刻一刻と過ぎて行く。年が明け、正月飾りを目にする事がなくなると、夏油は宣言通り家を空ける頻度を増やした。
 全ては己の中にある譲れない大義の為。
 鏡の前。袖を通した僧衣は、やけにしっくりと身体に馴染んだ。

20210710