そして君は勝利する


 五条と夏油が連れ立って戻って来たのは、意外な事に早く、あれから十五分後の事だった。何でもアラートを聞きつけた夜蛾が飛んで来て、問答無用で鉄拳制裁を加えたらしい。消化不良を起こして冴えない表情をした二人は、頭に出来た大きめのたんこぶを気にしながら事の次第を語った。
 そんな経緯を経て、ようやく顔を洗い終えた夏油は名前を連れ、医療棟内の別の病室を訪れていた。その病室は、名前の部屋と同じ階ではあるものの反対側の端にあり、元々二人部屋だっただけあって面積は名前の部屋の約二倍もある。
 既に点滴は外れたものの、まだ足取りな覚束ない名前の腰を支えつつ、横開きの白い扉を二回ノックする。中の二人が慌てふためく様子を思い浮かべながら、ゆっくりと扉をスライドさせた。

「お邪魔するよ」

 二人部屋なだけあってベッドは二台用意されているにも関わらず、少女達は同じベッドで身体を休めたらしい。手前の真新しいシーツのかかったベッドを横目に挟みつつ、奥のベッドの上で身を寄せ合う二人に優しく声をかけた。
 少女達――みみことななこは、病室に入って来たのが夏油と分かると緊張が解れたのか、肩から力を抜いて小さく口角を上げて見せた。げとうさま、舌足らずな発音で夏油を呼んだ。様付けはやめてもらいたいな、と内心苦笑する。

「どう? 昨日はゆっくり眠れたかな」

 もう一台のベッドに名前を座らせ、夏油もその横に腰掛ける。しかし、二人の視線は夏油の真横、名前へ釘付けで質問に答えてくれる気配はない。
 夏油は、対角線上の三人を見渡した後、穏やかな声色でみみことななこを呼んだ。今度こそ二人の視線が夏油に合う。安心させるように、にこりと微笑んだ後、名前の肩に片手を置いた。

「紹介するね。彼女は苗字名前さん。君達がしばらく過ごす事になるこの医療棟に同じく入院している呪術師だ。この通り私とも仲が良いし、何より信頼出来る人だよ。だから、二人もなにかあったら遠慮せず頼ると良い」

 夏油の言葉に、二人は顔を見合わせると、ややあって小さく頷いた。非術師から虐待を受けて来た二人にとって、呪術師という言葉は一番の安心材料になる。しかも、夏油の信頼という折り紙付きだ。それでもまだ多少の怯えはあるのか、二人はそれきり黙ってしまった。
 今度は名前が動く番だった。甲斐甲斐しく手を貸そうとする夏油の掌を断って、二人のベッドから数歩離れた位置で腰を下ろす。自然と目線は、ベッドの上にいる二人の方が高くなり、大人から見下ろされる威圧感を軽減する事が出来た。

「今紹介してもらったけど改めて、はじめまして。苗字名前です。もう知ってるけど二人のお名前を教えてもらってもいいかな?」
「みみこ……」
「ななこ……」
「じゃあ、みみことななこって呼ぶね。私の事は好きに呼んで」

 名前が柔らかく表情を崩す。みみことななこが、ほうっと息を吐いたのが分かった。

「私もね、入院生活に退屈していたの。遊び相手になってくれたら嬉しいな」

 これならもう大丈夫そうだ。
 完全に警戒を解いたみみことななこの姿に、夏油もようやく肩の力を抜く事が出来た。
 新たな理想が次の一手を急かす。けれど、それにはまだまだ準備が必要で。耳心地の良い幼い会話を聞きながら眉を下げる一方で、冴えた頭は着実に、これからの段取りを練り上げていた。



 貴方は二〇〇七年九月〇〇日旧■■村にて一級相当呪霊の祓除任務にあたりましたか――はい。
 任務遂行の後旧■■神社社にて村民達より虐待を受けていた呪力を持った少女二人を発見しましたか――はい。
 その際非術師二名に呪力による暴行を加えましたか――はい。
 今それは必要な事であったと思いますか――はい。

 以上。審議の日どりやそれに関する情報は追って沙汰するものとする。



 二〇〇七年九月末。
 夏油は、旧■■村での非術師に対する暴行の是非を問い、呪術界総監部により審議にかけられる事となった。
 総監部の息のかかった呪術師からの聴取を終え、明日は朝から上層部にかけられる以前に夜蛾の方から再度事情聴取があるらしい。
 その間、夏油は処分保留の休学という身の上となり、寮での謹慎を命じられていた。しかし、それに素直に従う道理もない。彼は、教師陣や高専に滞在する呪術師達の目を盗み、足繁く医療棟へ通う日々を送っていた。

「名前、来たよ」

 とは言え、医療棟入り口から堂々と立ち入る事は出来るはずもなく、夏油の入り口は常に名前の病室の窓であった。
 医療棟における夕食も終わった十九時過ぎ。いつも通りエイの形をした飛行型呪霊の背から降りた夏油は、ベッドの上でテレビを見ていた名前の背に声をかけた。
 名前は、夏油の来訪に気付いていたのだろう。テレビの電源を落とすとシーッと人差し指を立てる。何事だ? 首を傾げつつベッドサイドのカーテンを引いて納得した。名前のベッドの上には、丸まるようにして眠る少女二人の姿があった。

「すっかり懐いたね」
「うーん、だと嬉しいんだけど」
「ん?」
「なめられてる気がしなくもない」

 まあ、いいけどね。そう付け加えて苦笑しながらも、彼女は二人に自分の毛布をかけてやった。すると暑かったのか、ななこが毛布を足で跳ね除ける。名前が肩を落として、もう一度、今度は腹部にだけ毛布をかけてやった。今度はお気に召したらしい。健やかな寝息が大人二人の鼓膜を震わせる。

「昼間もね、私が昼寝していたら突然上に乗って来てさ。危うく背骨を痛めるところだったよ」
「大丈夫だった?」
「うん、この通りね。この子達、少し重くなったよね。さっきも夕飯、一緒に食べていたんだけど、綺麗に食べ切ってたよ。それとね……」

 好き嫌いが少なくて安心した、子供らしく味のしっかりした食べ物を好む、七海がお見舞いに待って来てくれた高級アイスをとても気に入っていた、一緒にテレビを見るようになって様々な言葉を覚えて来た、まだ水が怖いようで顔を洗う時や入浴も共にしている、髪を櫛でといてあげると嬉しいそうにする事――名前は、夏油が出てこれない昼間の出来事を事細かに伝えてくれる。
 それが夏油にとって嬉しくもあり、寂しくもある。

「いいな。私も名前やみみこやななこ達とずっと一緒にいたいよ」
「……」
「名前? どうかした」
「……夏油君、また疲れてる?」

 名前の指摘は、実に夏油の核心をついた。目の下にくっきりとついた隈を綻ばせ、名前の横に腰掛ける。みみことななこを起こさないよう注意したおかげかスプリングが大きく軋む事はなかった。

「眠れてないの? 食事はちゃんと取ってる?」
「前よりは眠れているよ。食事は……まあ、ぼちぼちかな」

 呪術高専東京校の学生寮には非術師の寮母が駐在しており、事前に申請していれば食事を用意して貰う事が出来る。夏油は勿論、名前も在学中は非常にお世話になっていた。
 しかし、今の夏油に非術師の用意した食事を取る余裕はない。その事を、あの一ヶ月間で名前は痛いほど知っている。

「私、作ろうか?」
「入院中の君にそんな事任せられない……ああ、そうだったね。もう退院か」

 夏油の正式な処遇を待つ事なく、名前は明後日この医療棟を退院する。反転術式の成果により傷はすっかり塞がって、足の筋力も戻りつつあった。任務にあたるにはまだ厳しいが、日常生活を送るにはまず支障はない。
 名前の回復は喜ばしいはずなのに、素直に良かったと言えないのは、やはり寂しさが拭えないせいなのだろうか。
 夏油は、そのまま名前の肩に顔を預けた。すっかり慣れた名前の家の物ではない、医療棟内で使用されている洗剤の香りがひどく腹立たしく思えた。

「私が退院した後も、夏油君、きっと忙しくなるだろうし何個か日持ちするおかず作って行こうか? 私が作った物なら少しは食べられるよね」
「それは嬉しいけど、悟に取られそうでやだな」
「ええ……じゃ、じゃあ取られないように五条君の分も作ろうか?」
「ふふ、いいよ。大丈夫」

 みみことななこを起こさないよう、極力声量を落としたコソコソ話が、腹の奥で煮え滾る苛立ちを軽減させる。
 身体の側面に垂らしていた手で、名前の手を握り締めた。細い指先がしっかりと握り返してくれるのが嬉しい。

「夏油君、私ね」
「名前、話を聞いてもらえないかな」

 本当は、まだ言うつもりはなかった。全てを終えてから改めて言おうとしていた内容だった。それでも咄嗟に口に出したのは、名前が何かを告げようとしていたからだ。
 顔を埋めていたなだらかな肩から顔を上げた。そのまま繋いだ手を引いて立ち上がり、窓辺へ誘導する。開け放たれたままの窓の外、宙に飛行型の呪霊が浮かんでいた。

「私の中にある大義と、これからの事。全部、君に聞いてほしいんだ」

 まず、夏油が窓枠を飛び越えて呪霊の上に飛び乗った。そのまま名前の腕を引く事もなく、判断は彼女に委ねる。
 きっと名前は、これからの話の内容の大半を察しているはずだ。手を取れば、夏油の中にある大義や歪み、全てを受け入れる事になるとも。
 だから、このまま手を離されればそれはそれで良いと割り切ろうと夏油は決めていた。名前を縛り付けたいわけではないからだ。けれど、同時に確信があった。
 苗字名前は、絶対に自分を拒絶したりはしないのだと。

「凄い、昔見た有名な映画みたい」

 キザだなあ、そう笑って名前は自分の力で窓枠を飛び越えてみせた。
 病室ではない外の世界で名前に会うのは久々で、夜風に遊ぶ髪を押さえる彼女の姿はやけに美しく映る。無性に縋り付きたくなって、伸ばした腕でその身体をしっかりと腕の中に閉じ込めた。

「大好きだよ、名前。ずっと、私と一緒にいてくれ」



 二〇〇七年九月某日。夏油特級呪術師に対する事情聴取報告書。担当官夜蛾正道。
 旧■■村における非術師二名に対する暴行罪を夏油呪術師は是認――なお、非術師二名は腰の骨を折る等の重症であるが呪術総監部指定の医療施設で治療を施され現在は回復している。
 同呪術師の行動は呪力を持つ女児二名の保護を優先した結果と考えられ、当時の状況を鑑みた結果、処分は一ヶ月間の停学並び三ヶ月間の給与減額とする。

「幾つか私からもいいでしょうか」

 一部を結い上げた長い黒髪の大半を下ろし、高専の制服に身を包んだ夏油は、朗々とした声で発言し、自身を取り囲む面々を一度見渡した。

「下された処分は甘んじて受けましょう。けれど、幾つか私からもお願いがあります」

 にっこりと満面の笑みを浮かべ人差し指を立てる。

「まず一つ目。私は非術師が大嫌いです。これから先、呪霊を生むばかりの彼らを守る気は毛頭ありません。ですので在学中私に与える任務は、非術師救出や非術師に関わる内容は極力避けて頂きたい」

 次に二本目、中指を立てる。

「次に二つ目。枷場ななこ、みみこ両名の処遇についてです。彼女達の親権を私に預けて頂きたい。これには彼女達の同意も得ていますし法律上成人まで難しいようでしたら苗字名前二級呪術師に一時預けます。こちらも苗字呪術師から承諾を得ていますのでどうぞご心配なく。何をまごついているのです。あなた方は汚い手がお得意でしょう?」

 最後、薬指を立てた。笑みは消さない。

「最後に三つ目。今後苗字名前二級呪術師に尋問官としての任務は一切与えないように。彼女の術式には別の使い道がある。尋問官に適任の呪術師は先日私を取り調べた彼らのような存在が既にいるでしょう。彼女に望まぬ任務を無理矢理与えるのは直ちにおやめ頂きたい」

 以上。締め括り、夏油は指を全て下げた。身体の側面に両手を垂らしたまま、顔から表情が抜け落ちる。黒々とした底の見えぬ双眼がゾッとするほど鋭く光っていた。

「今お願いした三つを違えた場合、私は即刻高専から離反します。私は、悟より弱くとも特級呪術師の一人だ。あなた方も国内にたった三人しかいない特級呪術師から呪詛師を出したくはないでしょう」

 声には出さずとも、夏油の双眼は雄弁に語っている。私に従え。
 各方面からの返答は無言であった。夏油は、それに気分を害するでもなく、優等生然として丁寧に挨拶を述べると謁見棟を出た。
 一気に視界が明るくなり、片手で目の上に傘を作っていると前方に眩しい白髪が見えた。五条は、柱に寄り掛かるようにして総幹部との謁見を終えた夏油を待っていた。

「よお、問題児」
「君に言われたくはないな」
「爺さん達にあれだけ啖呵切っといてよく言うわ。で、なに。お前、約束破ったら離反しちまうわけ?」

 五条の問いに、夏油はなんの動揺も見せずに「ああ」と頷いた。
 下ろした黒髪が風にそよぎ、五条は見慣れないその姿に唇を一文字に引き結んだ。

「お前、なんつーかこう、開き直ったな」
「ああ、なるほど。そうかもね」

 隣立って歩きながらの会話は以前と変わらないようでいて少し違う。
 夏油の目の下の隈は消えていないし身体も以前に比べて細いまま、聞けば髪もこれから伸ばすと言う。変わりゆく親友に多少の気まずさを持ちながら、五条はポケットの中から取り出した飴玉を乱暴に噛み砕いた。

「もし私が離反して呪詛師になったら、詰みは君だといいな」
「ハッ。一生御免だね」

 ふと、夏油を呼ぶ幼い声が聞こえた。夏油が片手を上げて答え、五条は露骨に嫌な顔をする。駆け寄ってくる二つの小さな塊を両腕に抱き抱えた夏油が「やっぱり私も中退して、今すぐ名前の家に行こうかな」と真剣な声色で呟くので、五条は一言「笑えねえよ」と返すのだった。

20210629