二〇一七年十二月三十日 痕跡



 二〇一七年十二月二十五日早朝。テレビからはアナウンサーの陽気な声が響き、換気のため開けた窓の外からは道行く親子連れの笑い声が聞こえている。昨夜から机の上に投げ出され、放置されたスマートフォンに表示される文面に変わりはない。
 二〇一七年十二月二十四日 高専所属呪術師各位へ連絡。百鬼夜行首謀者呪詛師夏油傑は高専所属特級呪術師五条悟により討伐。新宿、京都各地の被害は――
 世界は、何も変わらなかった。冬の寒い朝を、多くの非術師達と共に迎えてしまった。インターホンは鳴らない。スマートフォンに新たな通知が入る事もない。家のリビングで、たった独り残された私は浅い呼吸を繰り返す。

 二〇一七年十二月二十六日。インターホンは鳴らない。新たな通話が入る事もない。

 二〇一七年十二月二十七日。インターホンは鳴らない。新たな通話が入る事もない。

 二〇一七年十二月二十八日。インターホンは鳴らない。新たな通話が入る事もない。

 二〇一七年十二月二十九日。インターホンは鳴らない。新たな通話が入る事もない。

 二〇一七年十二月三十日。インターホンは鳴らない。新たな通話が――一通入った。

 差出人は五条悟。メッセージアプリの通知欄に表示された名前を見ても私の感情は凪いだまま、微動だにしない。内容を確認する。それは呪術高専まで来い、とだけ書かれた短い文章だった。
 多分、断っても良かった。五条悟と言う呪術師は、私がメッセージを無視したところで気にするような繊細な性格をしてはいない。「あっそ」とスマートフォンを放り投げる五条君の姿を空目した。それなのに現在、私は高専最寄駅まで向かう電車に揺られている。私を含め三人の乗客の少ない車内で、機械的なアナウンスが次の停車駅を告げた。最寄駅はもう直ぐそこだ。

「ひどいもんでしょ」

 私の到着時間をどこで知ったのか、電車を降りて駅を出たそこには五条君が立っていた。彼の長い足に置いて行かれないよう小走りに追いかけて辿り着いた母校の有様に言葉を失う。五条君の無感動な言葉に一つ頷きを返して、今にも崩れそうな門を潜り抜けた。
 五条君は私の先を歩いた。高専までの道中とはうって変わり、彼はぐるぐると敷地内を巡るようにゆっくりと歩みを進める。向かう先は分からない。どうやら上層部との謁見に使われる棟や校舎ではなさそうだった。

「一斉連絡してあるから知ってるよね」
「うん」
「ハハ、何がって聞かないんだ」
「だって白々しいじゃない」

 思っていた以上に五条君は淡々としていた。数日前、親友を手に掛けたとは思えない――違う、思わせないように振る舞っているのか。希望的観測だったが、そうであれば良いと思った。五条君も私と同じ、否それ以上の感情を抱いてこの場に立っていたらいいと、心の底から望んでいた。

「傑の最期、知りたいなら教えるけど」
「いいよ。五条君が知っていたら、それでいい」
「そう。殊勝だね」

 角を曲がる直前、五条君は歩みを止めた。校舎から離れた、どちらかと言うと裏門に近い場所だった。崩れた壁の周りには規制線が引かれ、角の向こう側から感じるのは――
 気がつくと包帯の巻かれて今は見えない六眼が私を射抜いていた。夏油君よりも更に身長の高い五条君は身を屈める事もなく私を見下ろし、強い力で肩を押す。

「無理強いするつもりはない。嫌ならこのまま帰ってもいい。でも、名前はあの場に行く権利があると僕は思うよ」

 光に引き寄せられるよう虫のようにふらふらとした足取りで、私は歩みを再開させた。五条君は追いかけて来なかった。ここからは独りで、現実を見てこいと彼は暗に伝えているのだろう。
 角を曲がって数メートル、小道が現れる。その道に入るのは、とても勇気がいった。直視さえ出来ぬまま目的地を目指す。

「……」

 壁には血の痕が残っていた。一度洗っているのか色は薄いけれど、確かにそこには彼がいた痕跡が残されていた。指先でその痕に触れ、なぞる。勿論、私の指先に血がつく事はなかったが、それでも指先を離す気はなかった。するすると痕をなぞり、彼の後を辿る。段々と血の痕が太くなってきた。
 多分、ここら辺で一度身体を預けたのだろう。筆で塗ったような痕は、多分長い髪でついたんだろうな。
 小道を抜ける寸前で痕は途切れた。血は下へ垂れて、大きな血溜まりがあった痕跡だけがその場に残されている。だから私の指先も下へ垂れ、最後は地面に触れた。しゃがみ込んだまま、何をするでもなく地面を見つめた。
 ここだけ、やけに色が濃いな。やっぱり血って落ちづらいよな。私も、何枚も制服や私服をダメにしたもの。

「……」

 年末だ。冷気をふんだんに吸い込んだ地面は、固くて冷たい。忘れていた寒さを感じ、途端にやるせなくなった。
 唇を噛み締める。意味はなかった。口を両手で押さえる。薄らと香る血の匂いで逆効果だった。最後の手段と目蓋を落とした。もう、耐えられなかった。

「ひ、っぁ、ぁぁ……う、ぁあ"……っ」

 引き攣ったような汚い声と共に、両目からはぼろぼろと水滴が落ちてくる。両手で塞ごうとしても関係なしに落ちて地面を濡らす。
 今まで私は、こんな汚い泣き方をした覚えはない。子供の頃は、あったのかもしれないけれど大人になってからは特に。ああ、情けない。つらい。苦しい。やるせない。胸の内で負の感情はどこまでも膨らんで、私と言う殻を今にも破りそうなのに現実はそうもいかなくて。ただ、嗚咽を溢して止める事の出来ない涙を両手で受け止め続ける。

「……っ、ぅっ……っ」

 最後に、僅かに残った矜持で名前を呼ぶ事だけは避ける事が出来た。こんな風に泣き縋る事を、きっと彼は望んでいない。
 滲む視界で目前の赤を見る。もう彼はいないのだと、その現実を身体に教え込むように、どんなにつらくとも視線を逸らす事はしなかった。




「名前が捕まるのも時間の問題だよ。呪詛師夏油傑の協力者、間諜として逃す事は出来ないからね」

 律儀にも私が戻って来るのを待っていてくれた五条君は、正門までの道中突如としてそんな発言を落とした。

「なにその顔」
「言っていいの? 私が逃げるとか考えないんだ」
「別にー。名前程度の二級呪術師相手に僕が駆り出される事はないし、捕縛の任にあたるのはせいぜい一級でしょう。君の好きにすれば?」

 包帯の巻かれた六眼は真っ直ぐに前を見たまま、私を映す事はなかった。黒のマウンテンパーカーに両手を突っ込んでマイペースに歩く姿に、学生時代の彼を空目する。その姿に、一気に気が緩んで、思わず肩から力が抜けた。

「逃げないよ。十年前にはもう覚悟は出来てた」
「ふぅん。大人だね、名前」
「そう? 諦めたって言う方が適切だと思うけど」

 正門が見えてきた。五条君に私を捕まえる意思はない。このまま門を抜け、最寄駅へ向かい、電車に乗ってひとりきりの家へ帰る。そして私は、呪術界から派遣された同僚の誰かに捕縛されるのだ。
 門を抜ける直前、五条君は長い足をその場に留めた。自ずと私の足も止まる。彼は、無言のまま包帯を解いた。逆立っていた白い髪が降りて、同色の長く豊かな睫毛が震えながら持ち上がる。青い宝石のような瞳に、立ち竦む私だけが映っていた。

「十年前、あいつ痩せてさ。ソーメン食い過ぎたって聞いたんだよね、僕」
「う、うん」
「あの時、一瞬思ったんだ。名前を呼ぼうかなって。でもやめた。もし、あの時名前を呼んでたら少しは違ってたかな」

 その『たられば』は、何度も私自身が行い、何時だって同じ答えに辿り着く。
 五条君は、きっと私以上につらいはずだ。五条家と言う由緒正しい名も、特級呪術師と言う肩書きも、ただでさえ彼の背負う全ては重いのに、そこに親友を殺めたと言う事実まで乗ってしまった。こんな私と言う存在に、ほんの僅かでも縋ってしまうくらいには疲弊困憊している。天上天下唯我独尊としていた彼らしくもない姿に、伸ばそうとした手を寸前で押し留めた。手を後ろで組んで言葉に音を乗せる。震えたりしないよう、何時も以上に力を込めた。

「多分、私を呼んだとしても彼の大義は変わらなかったと思う。でも、もしかしたら違う道はあったかも。私は彼の家になりたかったから」

 私の返答が、彼の望むものであったかは定かでない。けれど、五条君は怒りも悲しみもしなかった。ほんの僅か、長い睫毛を落とすように目蓋を伏せて解けた包帯を見下ろし「そっか」と頷いた。

「残念だな。僕ね、実は学生時代夢があってさ。傑と名前が結婚して、その子供が生まれて、僕が名付け親になるの。そんで、あの似非優等生がさ「そんな名前認めない!」って怒って喧嘩して、名前が夜蛾先呼んで僕ら揃ってたん瘤出来んだよ。学生時代みたく綺麗に二個も」
「……随分まあ壮大な夢だね。と言うか、本人の意思は無視?」
「無視してないよ。だって名前、傑の事、男として好きだっただろ」

 五条君の問いに疑問符はついていなかった。彼の中で確信を持って発せられた言葉に、胸の内側が喜ぶようにざわめき出す。けれど、私の返事は決まっていた。

「そう呼ぶには、この感情は熟れすぎてるかも」

 正門を潜り抜けた。五条君は、後を追って来ない。階段を降りる私を上から見下ろし、ややあって「待って」と再度引き留める。

「僕の事、呪う?」

 見上げた五条君の表情は、逆光で見えなかった。少し残念に思う。彼の形の良い唇は、言葉とは裏腹に弧を描いていたから、きっと今の彼はとても良い表情をしていたのだろうに。

「呪わないし恨まない。五条君でよかった。彼を殺せる存在は他にいなかったから」

 これ以上、五条君は私を引き留めなかったし私も足を止める事はなかった。
 高専最寄駅に到着し、来た時は逆方向の電車に揺られ家を目指す。家の最寄駅に着いた頃、空はすっかり暗くなり、街頭の灯りが心許なく夜道を照らしていた。足取りは来た時より重くはない。軽くもないけれど、あれだけ膨らんでいた筈の負の感情が今は凪いでいる。けれど、家が見えた瞬間、私の身体は大きく震えた。
 田舎町の奥にある我が家の前は、夜間人通りが少なく、特に私の一人暮らしである我が家に人が寄り付く事はなかった。ゆえに、我が家の前に人影があった場合、それは私の知る人間に限られる。しかも、家の前に居るのが二人の少女――となれば導き出される答えは一つしかない。

「美々子、菜々子……?」

 寄り添うようにして立っていた二人は、私の呼び声に弾かれたようにして顔を上げた。生気のない目を一瞬捉えて、私の足は地面のコンクリートを蹴っていた。広げた両腕に二人が飛び込む。私の胸に顔を埋めた二人は、私の背や腕を力の限り握り締めて肩を震わせる。次第に大きくなる嗚咽を聞きながら二人を支え家の中へ飛び込んだ。

「名前、名前っ」
「なんで家にいな、かった、の!? 私達、ひっ、必死にここまで来たのにぃ……っ」

 靴を脱ぐ事もできぬまま、縋り付く二人の重みに引きずられるようにその場に腰を落とした。なおも二人の泣き声、叫び声は止まらない。

「名前、げと、さまが、夏油様がぁっ!!」
「うん、うん」
「なんで、なんで、ぁ、ああ"っ、なんで夏油様が死、死んで……っ」
「分かってる、分かってるよ。大丈夫、大丈夫だからね」

 喉を痛めるのではないかと心配になってしまう程の絶叫に、私の声はかき消され二人には届いていない。何度も何度も彼の名前を呼んで苦しみを吐き出す姿は、まるで先程の自分自身を見ているようでいて少し違う。私は、彼の名前を呼べなかった。

「大丈夫、大丈夫だからね。美々子、菜々子、大丈夫だよ」

 抱き締めた腕の中で、二人は必死に首を縦に振った。痛みを訴える身体を無視して、私も何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
 私は、逃げも隠れもしない。今も招集があれば応じるつもりでいる。しかし、まだこの子達を二人だけにはしたくないと、ただそれだけが気掛かりで、私は迫る現実から逃れるように抱き締める腕に力を込め続けた。

 その年の暮れは静かに過ごした。年越し蕎麦もなく、お節もお雑煮も用意しなかった。三人いるのにシンと静まり返った我が家は、まるで違う家のようで少しだけ居心地が悪い。
 美々子と菜々子は身を寄せ合ったまま、時折思い出したように泣き声を上げる。目蓋は赤く腫れ上がり、日々手入れを欠かさなかった桜色の唇はひび割れ、その隙間から漏れ出る声は常に彼を呼び続けた。

「名前ー!」

 庭で洗濯物を干している時だった。リビングの方角から聞こえた叫び声に、反射的に手に持っていたシャツを放り投げた。駆け足にリビングの窓辺へ戻り、あらかじめ鍵を開けておいた窓を投げ飛ばすに開け放つ。瞬間、二人の身体が私へ吸い込まれるように倒れ込んだ。
 二人は、幼い頃のように置いていかれる事をひどく怖がるようになった。私の姿が見えなくなると不安になるらしい。嗚咽を隠す事もなく、私の胸や首筋に顔を埋めた二人は、やはり手加減なしに身体のあちこちを握りしめてくる。痛い、私の身体痣だらけだな。なんて内心ひとり呟いて、落ち着くまで二人の背を撫で続けた。

「名前は、どこにも行かないで」
「ずっと、私達のそばにいてくれるよね」

 美々子と菜々子は、彼が死んだと知った瞬間、他の家族の制止を振り切りこの家まで身一つで帰って来たらしい。何時も彼に連れられて呪霊か車移動だったから、電車の使い方も分からず相当苦労と恐怖を感じた事だろう。そして、家に帰って来てから幾度となく繰り返されるこの言葉に、私は上手く返事をする事が出来ないでいる。
 きっと高専は、呪術師を送り込んでくる。早くて明日、否もしかしたら今日かもしれない。その時、この子達がいたらどうなるか――考える度、身が竦む。自分の身を案じているのではない。この子達が無事、これから生きられるように、たったそれだけがひどく気掛かりだ。

「……っ」

 多分、答えを出すまでに与えられた時間は、思っているよりひどく少ない。
 この子達を連れて逃げる? 私の力じゃ無理だ。
 なら、この子達だけでも逃す? きっと私の後を追ってしまう。
 ならば、どうすればいい。最適解はどこにある。

「……美々子、菜々子」

 なるべく優しい力で、と心掛けて背に回していた手で二人の肩を押した。真正面から二人の顔を見るのは久々で、あまりに悲痛な面持ちに言葉に詰まる。けれど、私は言わなければならない。この子達はもう五歳の子供じゃない。まだ、十五歳ではあるけれどもうちゃんと自分達で考えて行動する事が出来る。そう信じたい。だから私は、これからの事を包み隠さず全て伝えるべきなのだ。

「ああ、いたいた」

 それなのに、突然割って入った第三者の声が私の決意を台無しにしてしまった。

「……ぁ」

 二人が、私が、その声を間違えるはずがない。弾かれたように後ろを振り返った二人が驚愕に目を瞠らせる。そして、私もまた似たような表情をしている事だろう。だって、あり得ない。私は、確かに血溜まりの痕を見たのだ。

「夏油、君……?」

 彼は、夏油傑は、十二月二十四日に、確かに死んだはずなのに。一月の冷たい空気に黒髪をそよがせて、切長の目で綺麗な弧を描いて、逞しい腕を広げて、額に縫い目のような傷をつけて、夏油君はそこに立っていた。
 夏油君は、広げた腕をそのままに早足にこちらへ近寄ると呆然とする美々子と菜々子を推し退けるようにして、しゃがみ込む私の前に立った。

「ごめんね、待たせて」

 そして、彼はゆっくりとその場に膝をつくと私の身体を抱き寄せた。肩に顔が埋まる。長い黒髪が垂れて頬を擽る。香るのは白檀の香りだ。全てが夏油君で、それなのに私の身体は歓喜でない恐怖で大きく震えてしまっている。

「ただいま、名前」

 これは、誰だ?

20210428