「あいしてる」



 雪山での任務が終わって二日後の約束の日、夏油君は家に帰っては来なかった。言われた通り彼が横になれるスペースを作って就寝したにも関わらず、起き抜けに見た真横のシーツは多少のよれはあっても綺麗に整えられたままで、部屋には残穢の欠片すらなかったのだから確実だ。確か、その次の日だった。高専からの連絡で「呪詛師夏油傑が高専敷地内に侵入。後、宣戦布告を行った」と聞いたのは。
 週末、夏油君は美々子と菜々子を連れて何の躊躇いもなく家の敷地を跨いだ。着いて早々に見慣れたスウェットへと着替えて、リビングの定位置で文庫本片手にお茶を飲んでいる。美々子と菜々子もいつも通りだ。高専へ宣戦布告した事を隠す事もなく報告して、その後竹下通りで食べたクレープの味を詳細に語った。言いたい言葉を未だ見つける事も出来ぬまま、ただボンヤリと生きる私だけが取り残されている。型抜きしたクッキー生地をオーブンへ入れる腕がカタカタと小さく震えて「名前、寒いの?」と心配してくれる二人の声が、狭い台所に大きく響いた。

「月曜日、帰って来なかったでしょう」

 思いの外、咎めるような声色で言葉を発してしまった己を恥じた。
 美々子と菜々子は二階の私の部屋、私と夏油君は一階の座敷。数年前に始まり今となってはすっかり定着してしまったそれぞれの寝室で向かい合わせに寝転んだ夏油君は、私の問いに考え込むように視線を上方へ彷徨わせている。ややあって合点がいったように「ああ」と声を上げた。

「君も知っての通り、私は呪術界に宣戦布告したからね。その準備でどうしても抜け出せなかったんだ」
「まあ、そうかなとは思ってたけど……」
「浮かない顔だね。やっぱり逃げたくなった?」
「まさか。そんな訳ないじゃない」

 上半身を起こした夏油君が這いずるようにして私の布団へ潜り込んだ。途端に狭くなった布団の中で向き合うのは、共に寝る事も増えた今となっても気恥ずかしい思いがする。目線を合わせていられなくて視線を下へ向けていると、身体の側面に無気力に垂らしていた手を大きな手に掬われた。そのまま指を絡めて握りしめられる。それがあまりにも柔らかい力だったものだから、否が応でも雪山での会話を思い出させた。唇を噛む。俯いたままだから、多分彼には見えていない。そうであってほしいと願った。

「美々子と菜々子も参加するんだよね」
「あの子達がそれを望んでいるからね」
「ねえ、もし」

 私も参加するって言ったらどうする? 口に出そうとしてやめた。八月の第三日曜日、待ってると言った口でそんな無責任な言葉を紡げる筈もない。すると、考え込む私に視線を合わせるように夏油君は、上体を少し下へとずらした。何時も晒してある彼の綺麗な額と私の額がコツンと音を立てて重なり合う。

「心配しなくてもあの子達は必ず名前の元へ帰って来るよ。大丈夫、絶対に死なせたりしない」
「うん。夏油君は……?」
「勿論、私も。何があったって君の元へ戻って来るさ」

 至近距離で顔を合わせているからか、かかる吐息が擽ったくて仕方がない。身じろぎすれば、その僅かな動作さえ許さないとばかりに身を引き寄せられる。大きな身体に押し潰されそうな体勢。厚い胸板の向こう側で規則的な鼓動を鳴らしている心臓の存在をヒシヒシと感じた。



 夏油君が忙しくなる、それは即ち宣戦布告を受けた高専側が忙しくなるのと同意義だった。百鬼夜行決行日は十二月二十四日。場所は京都、新宿。実戦に当たるのは準一級以上の呪術師を主とし、二級以下は待機と実戦要員のサポートを命じられた。私の等級は二級。実戦に加わる事はまずないだろう。その事実に心の底から安堵した。夏油君ひいてはあの子達と敵対するなんて、絶対に無理だと思ったのだ。
 十二月二十四日は日曜日。自然とその前日は土曜日となる。何時もなら彼らがこの家に帰って来る日である。しかし、この緊迫した状況を鑑みるに今週、彼らが戻って来る事はないだろう。次に会えるとすれば二十四日以降。勝敗が決して、世界がどう姿を変えていようと、私は三人に「おかえり」と声を掛けよう。そう心に決めて、静かな夜を過ごす筈だった。

「ええー! 名前、ケーキ用意してくれてないの!?」
「明日は忙しいからケーキ食べれないかもしれない」

 え、ケーキ食べるつもりだったの。それより何時も言ってるけど、そう言う事はちゃんと事前に連絡しなさい。頭の中でぐるぐると回り続ける数々の小言は声になる寸前で飲み込んだ。現時刻は午後十四時半を少し過ぎた。今からクリスマス用のデコレーションケーキを作るには時間も材料も足りやしない。それに加えて夕食の材料だって足りない。私は今日、ひとりで過ごす予定でいたのだから当然である。
 とは言え、何度も言うように私もこの子達に大概甘い。一番甘いのは確実に夏油君だけど、私もこの子達にお願いされるとコロっと靡いてしまうところがあった。「パウンドケーキで我慢して」なんて言いながら急ぎ混ぜ合わせた生地を、あらかじめ予熱しておいたオーブンにかける。よし、これで三十分の猶予が出来た。この隙に洗い物を済ませて少しの間だけでも布団を天日干ししよう。

「名前、フルーツと生クリーム盛りたい!」
「アイスも」
「……冷蔵庫の中だよ」

 さよなら、私の高級アイス。

 私の労力と高級アイスを犠牲に、二人によって綺麗に盛り付けられたパウンドケーキの味は今回もまた大変好評を博した。とは言え、今回使用した生地の大元はホットケーキミックスであり、味は製品会社の努力の賜物なので私が威張れる筈もなく。心ゆくまで写真を撮った後、舌鼓を打つ二人を眺めながら苦い気持ちを紅茶で流し込んだ。
 ようやく息を吐く事が出来たのは、夕食の片付けが終わった後だった。現在、菜々子は入浴中。美々子は二階の寝室で明日の準備をしている。必然的にリビングには、私と夏油君の二人だけとなっていた。十年前から夏油君は、テレビ番組を好まなくなった。あの子達に付き合って音楽番組やドラマ等を片手間に見る事はあっても、一人の時や私と二人の時は基本的にテレビが点いている事はない。高専の学生だった頃は、バラエティ番組を見ながら同級生達と大口を開けて笑っていたのにな、なんて考えるのは私が感傷的になっている証拠だ。文字通り命運を分ける日が明日に迫っているにも関わらず、夏油君の様子は常となんら変わりはない。表情一つ変える事もなく手元の分厚い文庫本に視線を落として、時折ページを捲る。ただそれだけの動作を眺め続けているのが良くなかった。

「見過ぎ。穴空いちゃいそう」

 視線を動かす事なく、くすりと小さく笑った夏油君に指摘されて慌てて顔を背けた。本を閉じる音が聞こえる。そして視線を感じる。多分、彼は私の方を向いている。

「後でゆっくり話そう。夜は長いのだから」

 それは一体どう言う意味なのか聞く猶予はなかった。タイミングよく入浴を終えた菜々子がリビングに入って来たからだ。入れ替わりに次に入浴するのは私である。菜々子の怪訝な眼差しを受けながら逃げるように駆け込んだ浴室で、シャワーに打たれながら深く長い息を吐き続けた。
 時刻は午前〇時を回り、とうとう日付は十二月二十四日へ上書きされてしまった。美々子と菜々子は「明日、早いから」と何時もよりも早く二階の私の部屋へ上がった。あの子達の表情に曇りは一切ない。ただ、夏油君を信じて明日の勝利を確信しているのだ。その事実がいじらしく、そしてほんの少しの靄を私の中に残した。

「あ、ちゃんと起きていてくれたんだ」

 夏油君が濡れた髪を拭きながら家中で唯一明かりの灯っている座敷へ顔を出す。布団の上で手持ち無沙汰にスマホを眺めていた私の横に腰掛けた彼からタオルを奪った。真っ黒な髪は艶やかだけど毛先が少し痛んでいる事を私は知っている。昔から身嗜みには気を使うタイプの人ではあったけれど、髪の手入れは疎かにしがちなのだ。

「せっかく伸ばしてるんだからもう少し手入れすればいいのに」
「それらしく見えればいいのさ。非術師共も教祖様の髪の質までは気にしないだろう?」
「私は気にするよ。きっと、あの子達もね」
「そっか。ありがたい限りだね」

 水分を含んですっかりボリュームが落ちてしまった黒髪を丁寧に拭きあげて手櫛で整えてやる。あとはドライヤーと櫛で乾かすだけなのだが、勿論座敷に置いている筈もなく。ドライヤーを取りに行くため仕方なく腰を上げるが、中腰のまま動けなくなってしまった。夏油君が私の手首を掴んでいたのだ。

「なに?」
「ここにいてよ」
「でも乾かして寝ないと明日大変な事になるよ。朝、早いんでしょう?」
「大丈夫。いいから、ほら」

 引き寄せる力は優しかったから逆らう事はしなかった。膝が柔らかい布団の上に乗って膝立ちになるように彼の前へと身体を傾ける。

「積もる話もあるだろう? 時間が勿体ないよ」
「さっき夜は長いって言ってたじゃない」
「そんな事言ったかな。名前の気のせいじゃない?」

 今日の彼は随分と都合の良い記憶力をお持ちのようだ。呆れて言葉を失くした私の目の前で夏油君は笑みを絶やさない。日付が変わっても尚、平素と変わらぬ様子を見せる彼はクスクスと笑い声を上げたかと思えば、大きな身体をこちらへ傾けて来る。男女と言う性差を除いても元から体格差のある私達だ。不安定な体勢でいた私に彼の身体を支えられる筈もなく体重を掛けられるまま仰向けに倒れてしまった。痛みはない。布団と準備よく背中に回された大きな掌がクッションになったおかげで頭をぶつけずに済んだ事に安堵する。

「なに、いきなり。重いよ」
「え、私、体重増えたかな」
「いや、それは知らないけど……夏油君、体格良いしこうも圧し掛かられると重いに決まってるじゃない……」

 どうやら夏油君に退ける気はないようで、私の上に乗り上げたまま、ちょうど私の頭を挟むように肘をついた。しかも逃す気はないようで、私が足を動かすだけで「こら」と咎められてしまう。それなのに彼は、私が抵抗するのを止めた途端眉を下げて困ったように首を傾げた。

「名前、もう少し危機感持たないと」
「今更でしょう。それに私、こうしてくっついているの嫌いじゃないもの」

 まだ乾き切らず、湿り気を帯びた黒髪が私の頭を囲い込むように垂れていた。まるで帳のようだと思う。狭い空間で外界から遮断されたような感覚。けれど心細くなんてない。むしろ安堵さえしている。

「時々心配になるよ。君は、本当に私に対して甘いから」
「夏油君の方が私に甘いと思うけどな。って、この会話するの何度目だろうね」
「さあ、どうだったかな。途中で数えるのを止めてしまったからね」

 そう呟いて夏油君は上半身を少し前へ倒した。私と同じシャンプーの香りが強くなって鼻先が触れ合う。視界が夏油君でいっぱいになって、それでも私の手足はシーツに沿うようにだらんと垂れたまま、彼の胸板を押すことさえしなかった。多分、ほんの少しでも私が動けば唇が触れ合う。そんな距離まで迫って、彼はピタリと動きを止めた。

「ほら、やっぱり私に甘いじゃないか」

 少し顔を離してから落とされた呟きは、今までにないほど掠れていて何処か婀娜っぽく聞こえた。長く節立った指先が私の髪をすいて頬に触れる。感触を覚えるかのように丁寧にゆっくりと上下して、やがて親指が唇に触れた。

「名前は、絶対に私を拒絶しないと分かってた」

 十年前にも似たような事を言われた記憶が蘇り、今度は懐かしい思いがした。ああ、そうか。だから彼は十年前、私を頼ったのか。
 輪郭をなぞって親指は離れて行った。ふと、夏油君が身体から力を抜く。完全に私の上に乗る形となった彼は、首筋に顔を埋めると、痛いくらいの力で私の肩を掻き抱いた。

「十年前、君を抱いていれば良かったのかな」

 あまりにも直接的な言葉には、愛情や後悔――隠し切れていない様々な感情が含まれているようだった。その言葉は、急速に染み渡り、胸を強く締め付た。垂らしたままでいた両腕がようやく動き出す。私の意思ではあったのだろうけど、こうしたのは半ば無意識だった。彼の脇を通り抜けるようにして回った私の腕は、しっかりと彼の背中を抱いていた。

「ねえ、夏油君。私、不安だよ」
「うん」
「待ってる、私はこの家でずっと待ってるよ。でも、今日が近づくに連れてどんどん怖くなった。大人のふりをする事に何処かで限界を感じてた」
「うん。ごめんね、無理させて」
「謝るくらいなら行かないで……ここにいてよ」

 衣服越しに重ねた胸の奥から鼓動が聞こえる。彼が生きている証だ。夏油君は、首筋から顔を上げると、眉を下げたまま「泣かないで」と私の目尻を指先で拭った。泣いているつもりはなかったから少し驚く。しかし、慌てて片手を自身の目元へ添えるが水滴はつかなかった。

「泣いてないじゃない」
「私には泣いているように見えた」
「うそ……」
「本当。ひどく、怖がっている顔だ」

 何度も何度も、夏油君はありもしない涙を拭うように指先を動かし続ける。

「雪山での任務からそうだ。名前、君は、私がいなくなる事が怖いって顔をしているよ」

 瞬間、頭の中でマイクが叩きつけられる音が響いた。その通り、正解だ。私では辿り着けなかった思いの真理を、夏油君は簡単に口にしてしまった。意味もなく唇が震えたのは、動揺なのか羞恥なのか恐怖なのか、それとも安堵なのか。もはや分からぬまま、ただ夏油君を見上げていた。

「名前、君には……いや、君だからこそ、私は呪いを残したくないんだ」

 だから、分かってくれよ。そのまま、再度かき抱かれた腕の中、私はもう何も言わなかった。
 ズルいよ、夏油君。君、こんなにもズルい事を言う人だったんだね。
 今、術式を使えば彼の本心が分かる。けれど、この言葉を前にそんな事が出来る筈もなかった。すう、と息を吸い込む。夏油君本来の香りは忘れたまま、ただただ、さらに強く抱いてくれと身を寄せて小さく呼吸をしていた。
 朝、起きた時。きっと夏油君はもうこの家にはいない。美々子も菜々子もいない。たった独りとなったこの家で、私は何を思うのか。考えただけで、私は、怖くてたまらなくなる。

20210420