「うそつき」



 物心がついた頃には視界は闇で閉ざされていた。見えるものは、醜悪な言葉を吐きだす肥え太った家畜のような大人達と汚泥、悪臭を放つ残飯のような食物。身体から垂れ流される排泄物の汚れがひどく身体に纏わりついて気持ちが悪かった。唯一残された同じ顔をした存在を、ただ一人の人間として身を寄せ合い明けない夜を過ごした。
 そうして数年が経過した暑い夏の日だった。多分、九月であったと思う。粗末な食事を運んでくる老婆が毎日日付だけは教えてくれていたので記憶していた。思えば、それは二人がこの村において罪人として扱われ始めてからの日数を伝えるためのものでしかなかったが、まだ幼い二人からすればその老婆は他の大人達に比べまだ話が伝わる貴重な存在と言えた。
 九月某日。突如として二人の世界は色を変えた。打たれ、蹴られ、傷だらけになった身体を寄せ合う二人の前にその人は悠然と現れた。初めて見る男の人だった。村人たちとは違う、綺麗な白いシャツと黒いズボンを履いたその人は、怯え縮こまる二人に向けて指先から黒い靄のような生物を伸ばすと「ダイジョウブ」と告げた。
 正直に白状すると後の事は、よく知らない。檻の中で「ダイジョウブ」の言葉を信じて待っている間、外では悲鳴が聞こえていたけれどまったく心は痛まなかった。

「おいで。行こう」

 二人でいくら叩いてもビクともしなかった檻の扉は、その人の手によって簡単に開かれた。白いシャツを血の赤で汚したその人は、手の汚れを乱雑に自身のズボンで拭い、二人の手をそっと握った。太く逞しい腕に似合わない優しい力に引かれ、導かれるように檻と社を飛び出した。夕日に照らされた村のあちこちに村人達だった物が転がっていた。その中には、毎日日付を教えてくれていた老婆の物らしき腕と着物の切れ端もあったが、二人はそれから目を逸らす事で喉元の痞えを飲み下す事に成功した。
 山を下る道中、その人は自身を「げとうすぐる」と名乗った。岩が張り出して悪い足場を物ともせず、二人を抱えて歩き続けるその人にどこへ行くのかと問い掛けたのは、意外な事に『みみこ』の方だった。『ななこ』も釣られてその人の顔を見上げる。その人は、二人を安心させるように優しく笑って柔らかい声で答えを返した。

「現時点で私が一番、信頼出来る人のところだよ」

 呪霊に乗って空を飛び、辿り着いたのは二人が過ごした村よりは活気のある田舎町だった。古びた一軒家のチャイムを鳴らすげとう様の腕にしがみ付き、家主を待つ間の恐怖は檻の中で体験した物と近しい。ただ、引き戸を開けて顔を出した女の人を見た時「あ、このひとはぶたない」と少し安心したもの事実だった。

 『みみこ』と『ななこ』。二人の名前だ。多分、名付けてくれたのは見た事もない両親だったのだろうが、二人をそう呼んだのは折檻と称して暴行を加えてくる村の大人達だけだった。だから、二人は自分の名前があまり好きではなかった。げとう様に聞かれたから教えたけれど、なるべくなら自ら名乗りたくはなかった。
 げとう様が信頼出来る人と称した女の人の元で過ごすようになって一ヶ月が経過した。綺麗な服と美味しい食事、暖かな寝床、ここには二人が夢にみていた全てがあった。げとう様と女の人、二人に手を引かれ、町を探索した事もあった。途中、見つけたお店でアイスを買ってもらった。家で食べる赤色の容器に入っている物の方が美味しかったと告げると、げとう様に肩を叩かれ女の人は顔を片手で覆っていた。なんで。
 そんな二人が真に自分の名前を得たのは、クーラーが止まった十月末の頃だった。常日頃二人の前では温厚なげとう様が、その日は朝から、珍しく難しい顔をしてペン片手に何やら悩んでいた。少し不安になって女の人、名前に聞いた。名前は、げとう様の手元を覗き込むと「ああ」と納得して、「大丈夫」と言いながら手を取り合う二人の頭を撫でた。

「美々子、菜々子、でどうだい?」

 その日の晩、名前に連れられて入浴を終えた二人をげとう様は嬉々としながら呼び寄せた。この日、初めて大好きな人の近くに寄る事の出来た二人は、げとう様の膝に乗ると一枚のメモ紙を見せられた。横棒と縦棒がいっぱいだ。汚れみたいな点々までついている。なんの事かよく分からなくて首を傾げていると、髪を乾かし終えた名前がようやくリビングに姿を現した。

「あ、決まったんだ。長かったねぇ」
「ひらがなのままでも可愛いとは思ったのだけどね。どうせなら漢字もつけてあげたくて柄にもなく熟考してしまったよ」

 どうやらげとう様と名前には分かっているらしい。頭上で繰り広げられる会話が、どうにも面白くなくて手足をバタつかせ説明を求めた。

「これはね、漢字って言うの。二人の名前の書き方だよ」
「私の名前もほら、夏、油、傑って書くんだ。それと同じ。二人の苗字は確か……枷場だっただろう。枷、場、美、々、子、菜、々、子。今は漢字を書くには難しいだろうから、ピンと来ないかもしれないけれどもう少し大きくなったらこう名乗ってくれると嬉しいな」

 勿論、嫌だったらいいんだよ。遠慮は絶対にしないでくれ。げとう様――夏油様の言葉に二人は急いで首を横に振った。『みみこ』は美々子で『ななこ』は菜々子。嫌なはずがない。
 字が書けるようになると二人は直ぐに自らの名前の漢字を覚えようと躍起になった。教えてくれたのは名前だった。鉛筆片手に何度も何度も書く練習を繰り返して、ようやく名前のお墨付きと自分達の満足のいく形になった時、二人は真っ先に夏油様に見せに行った。夏油様は、とても喜んでくれた。凄い、凄い、二人は天才だ。そう言って名前よりも大きな掌で頭を撫でてくれる。飛び上がるほど嬉しかった。
 枷場美々子、菜々子にとって世界は夏油傑になった。彼は、二人を狭い檻の中から救い出し、明るい光と広い世界を見せてくれた。名前をくれた。苗字名前は、二人に暖かな寝床と美味しい食事をくれた。夏油様と一緒に色々な事を教えてくれた。お風呂に入れてくれた。名前の書き方を教えてくれた。だから、美々子と菜々子にとって二人は第二の両親と言って差し支えなかった。自覚すると無性に恥ずかしくて、特に名前にはそんな事絶対に言えなかったのだけど。

 時は経ち、二人は十歳の誕生日を迎えた。夏油様と名前からそれぞれプレゼントを貰って、名前手作りの料理やケーキに舌鼓を打った。
 二人が六歳となる年の春、夏油様は、教祖様となった。非術師の猿共から呪いと金を集めるためだそうだ。対して名前は敵対している呪術高専所属の呪術師で時々任務に出ては疲れた顔をして帰って来る。それが二人は面白くなくて、同じく渋い顔をする夏油様の腕を掴んでは「名前にやめるようにいって」とせがんだ。ある日、夏油様は二人のおねだりを聞き入れるように名前へ向かい「一緒に行こう」と提案した。名前は絶対に一緒に来る、拒否するはずがない。二人の中で、既にそれは決定事項だった。やっと名前を呪術師の任務から解放出来る。今迄ずっと留守番していた名前と、向こうでも一緒に居る事が出来る。しかし、せっせと箪笥の中から、あの日以来袖を通される事のなかった白い着物を取り出す二人の耳に信じ難い言葉が飛び込んだ。

「私は行かないよ」

 あまりにもショックで、菜々子は着物を取り落とすと両目に涙を溜めながら名前の肩を力の限り叩いた。美々子は不安になって夏油様と名前の顔を何度も見比べた。けれど、夏油様は怒りも再度説得もしなかった。ただ、仕方ないと言いたげに苦笑するばかりで、二人は胸の内に燻る怒りに似た不安をどうする事も出来ずに眠れぬ夜を過ごした。
 教団を移住地と決め、新しく家になった雑居ビルの屋上は風通しもよく町を見渡す事が出来た。椅子とテーブルに観葉植物。全部、ここ最近でオシャレに目覚めた菜々子が美々子と相談しながら選んだ物だ。名前が作ってくれたお菓子をここで食べたいと思っていた。あっちの庭に埋めた樹のような大きな物は無理でも、ここで一緒に植物を育てたかった。洗濯物を干す名前の手伝いをして、その後ろの椅子では夏油様が本を読んでいて――五歳の頃のように夢にみていたのに、今回は叶わないのだと悟った。
 昨晩、名前の肩を叩いて以降、菜々子は泣かなかったし、美々子のように名前に甘えたりもしなかった。むしろ距離を置いてそっぽを向き、夏油様からは「いいのかい?」とその態度を心配された。それなのに今になって涙が溢れる。釣られて美々子も泣きだした。「最後まで名前にしがみ付いて泣いていたくせに」泣きながら叫べば美々子が「菜々子もそうすればよかったでしょう」と叫び返す。見るに見かねた夏油様が二人を優しく抱き寄せた。

「名前を束縛してはいけないよ。二人はもうお姉さんだから分かるよね」

 それでも寂しさは消えないのだと二人は泣き叫ぶ。夏油様は、相槌を打って「そっか」と続けた。

「じゃあ、週末は向こうへ帰る事にしよう。ここは他の家族と過ごす家。名前の家は実家。どう、これなら名前とも会えるし寂しくはないだろう?」

 言葉の通り、夏油様は週末になると二人を連れて慣れ親しんだ名前の家へと帰ってくれるようになった。最初の帰省、二人は再度説得を試みたがあえなく失敗に終わった。靄は残ったが諦めはついた。
 そんな生活を一年と続ける内に夏油様に惹かれた家族は増えていく。その内の一人、ラルゥは用のない週末だけ何処かへ消える三人に疑問を持つようになった。

「ねぇ、あんた達、週末どこに行ってんのよ。まさか、傑ちゃんのコレじゃないでしょうね!?」

 ラルゥが家族であり実質トップである夏油傑に対して少し違った物を抱いている事を二人はなんとなく察知していた。巨体を乙女のようにくねらせたかと思えば、小指を立てて詰め寄って来る彼なのか彼女なのか分からない家族に、二人は顔を見合わせると脱兎の如くその場から逃げ出した。
 どうやら小指は、恋人を表すらしい。その日の夜、寝室にて買い与えられたスマートフォンでその知識を得た二人は、互いの顔を見合わせて唇の端をキュッと噛み締めた。考えた事がなかった。二人にとっての夏油様と名前は、夏油様と名前でしかなく、関係なんて気にも留めていなかったのだ。けれど、思えば二人の距離は何時だって普通の男女に比べて近かった。なお、普通の男女とは他の家族や信者達の事である。

「夏油様と名前って恋人同士?」
「違うと思う。だってキスしてるとこ見た事ないし」
「キスゥ!? で、でも抱き締めてるところは見た事あるし!」
「ハグは、私達もしてもらってるじゃない……」

 試しに想像してみた。夏油様と名前がドラマで見るような恋人同士らしい事をしている姿――意外な事に嫌ではなかった。少し恥ずかしい思いがしたけれど、むしろ嬉しいとすら思えた。だって二人が並んでいる姿は、美々子と菜々子にとって当然の光景だったのだ。

「夏油様は、名前の事を愛しているの?」
「驚いた。そんな難しい言葉、どこで知ったんだい?」

 二人の事をお姉さんと言う割りに夏油様は、まだまだ子供扱いをやめてはくれない。雑居ビルの屋上。文庫本を片手に相槌を打っていた夏油様は、問いに弾かれたように顔を上げると、少し思案するように首を傾げて苦笑を浮かべた。

「二人はどう思っているの?」
「え?」
「私が、名前を愛していると思っているのかい?」
「思ってます」
「だって夏油様、名前に対して優しいし」
「優しいだけなら誰にでも出来るよ。現に私は、皆に優しくしているつもりなのだけど」
「もう! その優しさとは違うもん! 揶揄わないで下さいよぉ!」
「はは、ごめんごめん」

 夏油様は開いていた文庫本を、栞を挟む事もなく閉じた。視線は、美々子と菜々子の方へ向けられていない。方角は分からないけれど、多分名前の家の方を見ているのだろうと思った。

「名前はね、特別なんだよ、昔から。高専で初めて会った時……とまではいかないけれど、それとあまり変わらない時からずっと私の中で彼女は特別だった」
「それが、愛してるって事?」
「否定はしないでおこうかな。その方が二人は嬉しいみたいだし」
「名前に言わないんですか?」
「言わないんじゃない。言えないんだよ。愛ほど歪んだ呪いはないそうだからね」

 二人が揃って首を傾げるのと、夏油様が椅子から立ち上がるのは同時だった。彼は、文庫本を手に階段へ向かい歩き出す。お喋りはもうお終いと暗に告げられているようだったが、二人はその後を追った。

「意味わかんない! なんで呪いなの?」
「そうだな……君達も大人になれば分かるようになるさ」

 階段の手摺に手を掛けて叫ぶ菜々子の頭に大きな掌が乗せられる。慣れた手つきで左右に揺れて、二人の大好きな人は見た事もない表情をしてぽつり、と呟くように言葉を落とした。

「私はね、彼女を呪いたくないんだよ」



 きっと、夏油様は最期まで名前に「あいしてる」と言わなかった。百鬼夜行は失敗した。夏油様は戻って来ず、夏油様に惹かれ集まっていた家族は散り散りになった。ラルゥを始めとする数人の家族が美々子と菜々子、未成年者である二人の事を心配し、共に行こうと言ってくれたが二人は首を縦には振らなかった。
 帰る場所ならある。夏油様がいなくなった世界で最後に残された家が、私達にはある。今まで車か呪霊に乗って移動していたら、名前の家に辿り着くまでには相当の時間を要した。それなのに、ようやく辿り着いた家に名前の姿はなかった。二人は、零れ落ちる涙を耐えて身を寄せ合い、名前が戻って来るのを待った。
 夕日が沈み、夜になった。寒さが身を裂くようで寄せ合った互いの体温すらもはや意味を果たさない。頭の中では、ぐるぐると今まで過ごした十年間が走馬灯のように流れていた。夏油様に救われて、名前の家に身を寄せた。初めて食べたアイスが美味しくて、名前と一緒にお風呂に入った時は水の怖さに震えた。夏油様と名前に手を引かれ、桜を見に行った。街にも行った。去年は夏祭りにも行った。何時だって二人の傍には大好きな夏油様がいた。それなのに、今、彼の姿は何処にもない。もう、二度と会う事も叶わない。

「名前が、帰って来なかったらどうする?」
「そんな事ない。名前は、名前だけは私達とずっと一緒にいてくれる」

 溢れ出る嗚咽を無理やり飲み込んで抱えた膝に顔を埋めた時だった。カツン、と靴がアスファルトを叩く音がして二人は顔を上げた。名前だ、名前がそこに立っていた。驚いたように目を見開いて、二人の名前を呼ぶ。動き出したのは、ほぼ同時だった。
 名前が地面を蹴って両腕を広げる。二人は迷いなくそこに飛び込んだ。名前の身体は温かかった。何時もの名前の匂いがした。ひどく安心して涙がぼろぼろと零れ落ちる。

「大丈夫、大丈夫だからね」

 名前は泣かなかった。二人の背中を摩って、力強く抱き締めながらその言葉を繰り返すばかりで一言も夏油様の事には触れなかった。その日から、名前の傍を離れる事が怖くなった。子供の頃のようだと自分達でも思う。とにかく、名前の姿が見えないと不安でたまらなくなって情けない涙声で名前の名を叫んだ。そうすると名前は、慌てた様子で顔を見せて二人の事を抱き締めてくれる。

「大丈夫だよ、美々子、菜々子。大丈夫だからね」

 けれど、その言葉とは裏腹に名前が何かに怯えている事を二人は察知していた。何か言わなければと唇を震わせる度、聞きたくなくてしがみ付く腕に力を込めた。
 離れたくなかった。夏油様がいなくなって、唯一残された両親の片割れと片時も離れたくはなかったのだ。だから、ソレが、夏油様のふりをした別のナニカが戻って来た年明けのあの日。たった数時間、名前から離れた事を二人は心底後悔している。

「う……つ、き……」

 全然、大丈夫なんかじゃなかったじゃないか。何度も何度も同じ言葉を繰り返して抱き締めてくれたくせに、あの言葉は何の意味も持たなかった。
 美々子と菜々子は、手を取り合い呆然と燃え盛る家を見上げる。煌々とした赤色の炎が夜空を染め上げて、黒い煙が宙を舞う。ここにはきっと何も残らない。食事を取ったリビングも、沢山水遊びした浴室も、四人で寝そべった座敷も、名前の部屋のベッドも、花火をした縁側も、庭に植えた樹も、過ごした思い出何もかも全て灰になって燃え尽きてしまう。

「うそ、つき……」

 口からは、壊れた人形のように同じ言葉ばかりが零れる。握り合った手にどちらからともなく爪を立てた。綺麗に整えた爪が肉に喰い込んで血が滴る。その痛みが、目蓋の熱さを忘れさせてくれた。

「嘘つきィッ!!」

 もう帰る場所はどこにもない。抱き締めてくれる腕もない。大丈夫の言葉は意味を持たなかった。今の二人には互いだけがある。まるで、五歳、あの村で檻の中身を寄せ合って生きていた頃のような心細さの中、喉がやける迄叫び続けた。返って来る言葉は、勿論ないのに。
 二〇一八年一月の冷たい夜の事だった。

20210502