その夜は、月がとても明るかった。
湯浴みを終えた私は、ソファに横になってほわほわとした暖かい感じに浸りながら、これから眠るか夜を更かすか迷っていた。何もするべき事はないはずだけれど眠る気にもならなくて…何かしなくてはならない気がして。だけど何もする事がなくて。
とりあえず読みかけの児童書を手に取り、栞に手を掛けた……その時だった。
(…あ…!)
心臓が少し跳ね、心が騒ぎ出す。ぼーっとした感じは一瞬にしてどこかへ吹き飛んで、私は跳ねるようにソファから飛び起きた。そのまま一目散に玄関へと駆けて行き扉を開ける。
「サラマンダー様っ!」
庭の径に大好きな人の影(シルエット)を見つけて、夜中だというのについ大きな声を出してしまった。抑えきれない嬉しさに口角は上がり切って痛い程だ。
「どうなさったんですか?今日は確かお仕事…だっ…て……サラマンダー様?」
無言のまま微妙な距離を空けて立ち止まられる。どこか違和感を覚えて顔を見上げるが、月明かりが逆光になって表情はよくわからない。
「……どうか?」
ふいに不安の様な…それでいて確信の様なものが沸き起こり、心がざわざわと波立つ。
何となく触れたくなって、触れて欲しくなって、一歩あゆみ寄った瞬間。
「…サラ…きゃっ!」
まるで捕えるかの様に抱き寄せられ、肩にかけていたタオルがぱさりと地面に落ちる。普段の安心させてくれる様な、優しい感じとは違う…少し乱暴にも思える抱き締め方。…こんな事は初めてだった。
「どうしっ…、……っ!」
本能的に振りほどこうともがいて、はっとする。
どこか鼻につく…それでいて甘い、しかし噎せ返る様な──血の、におい。
確かめる為に目を向ける事は叶わない、けれど一度気づけばそれは何より明らかで…気が狂いそうな程に濃くこの場に充満していた。
…このにおいは、決して良い記憶を呼び起こさない。
しかし今の私には、その恐怖よりずっとずっと怖いと感じる事があった。
「…サラマンダー様…っ…どうしたんですか、どこか痛いんですか…?ね、サラマンダー様…お家、入りましょう?このままじゃ冷えちゃうから…お風呂も入ってます、だから…!」
必死に呼び掛けても返事はない…ただただ腕の中に捕らわれるだけ。髪の水気で濡れた背中が夜風に撫でられ、ぞくりと寒気が走る。
どうすれば良いの?
どうすればこたえてくれるの?
どうすればいつもの彼に戻ってくれるの?
わからない。何をしたら、私の知る[彼]に会える?
…それは可能なの?
本当にいつかこたえてくれる?
本当にいつかいつもの彼に戻ってくれる?
天に願うしか出来ない自分の無力さが恨めしい。私はいつも助けてもらってばかりで…こんな時には何も出来ないんだ。
「ねえ…サ、…うっ!?」
突然身体中の骨が折れてしまいそうな程の力を込められ、思わず悲鳴を上げる。
「やめてっ、離して…サラマンダー様…っ!……っ……。」
痛みと苦しさに霞んで行く意識。気を失いかけた時、私の意思とは違う所で力が働く感覚がした。
『ね…むれ…っ!』
もちろん支えることは叶わず、後ろに大きく体勢を崩してしまう。彼がどこかを打ち付けないよう今度は意識的に術を発動させたが、それでも勢い良く倒れ込んでしまった。
「……っ、は…っ……はっ…。」
荒い息の中、次から次へと頬を伝って行く涙。凭れ掛かって来る彼の身体はとてもとても重かった。
「…っ…!」
立ち上る血臭に包まれながら、大きな躯を抱き締める。
守ってもらうのは私で、
撫でてもらうのは私で、
聞いてもらうのは私で、
抱いてもらうのは私で、
助けてもらうのは私で、
慰めてもらうのは私で、
いつも何かを与えてもらうのは私で──…
…──いま私は何もこの人にあげられない。
大切な人が苦しいのに、何ひとつ出来ない。
こんなに、好きなのに。
……いつも私を暗闇から引き上げてくれたこの人は、どんなに強いのだろう。こういう時でも、不安に呑まれずに居られるだなんて。
広い広い背中を撫でてみる。いつもしてもらうみたいに、優しく…優しく。
「………。」
私は、心細い時に射し込む光がどれだけ心強いかよく知っている。
いつも彼がくれたから。
たとえほんの少しでも良いから、彼の光になりたかった。
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