錨を下ろし、海岸沿いに停泊したブルー・ナルシスの甲板。

「ミノン? 良かったら少しおいで。」

真冬にしてはやや暖かい風を頬に受けていた少女は、船内から出て来たフライヤに呼ばれて振り返った。黙ったまま静かに駆け寄る。

「これから、ビビとエーコに文字を教えようかと思っておるのじゃ。良ければで構わないが……来てはみぬか?」

意外な提案だったのか、ミノンはほとんど動かない表情にほんの少しだけ驚きを滲ませた。確かに今は空き時間である。買い出しに行ったメンバーを待っているからだ。しかし、戦いの最中であることに変わりはなかった。何かを学ぶ――その言葉が纏う印象を、不似合いだと感じたのも無理はないだろう。

「以前おぬし、文字が読めぬと言っておったじゃろう? たまには戦から離れ……学んではみぬか。」

だが、そんな時だからこそ学ぶべきだとフライヤは考えていたのだ。ビビとエーコは本来大人の庇護下に在れる歳でありながら、日頃は大人に交ざって戦っている。もちろんそれで得る糧もあるだろうが、決して良いことばかりではない。普通の子供ならできない経験をしている分、普通の子供ならできる経験に欠けているのだ。

――ねえフライヤ、この絵本読んで?

そんな子供達に、少しでも普通の子供らしいことを経験させてやりたい――彼女は常日頃からそう願っていた。そこで、読み書きを教えることに思い至ったというわけだ。

――……自分達で読めるようになりたいとは思わぬか?

提案を受けた二人はすこぶる意欲的で、我先にと机へ向かった。エーコは「おじいさん」の読み聞かせのお陰か部分的に読めるし、ビビとて「おじいちゃん」に読み方の基礎を習ってはいる。しかしまだまだ学びたいという気持ちは持っていたのだ。

――まずは、…………。

いざ教えようとした時、フライヤは成人でありながら読み書きができないという少女の存在を思った。その事実を知った日から、陰ながら気にしていたのだ。そしてこうして呼びに来たというわけである。

「どうじゃ、良い気分転換になると思うぞ。」

「……はい。……行きます。」

しばらくの間の後、ミノンが小さく答える。それを聞いて微笑むと、フライヤはミノンの手を引いて一室に案内した。部屋の扉を開けると共に、中から高い声が響く。

「あ、きたきたミノン! そうだ、ね、フライヤ、ビビと話したんだけどね、エーコたちペン使ってみたいの! もしも自分で文字を書けたら、すっごくステキじゃない?」

かつて目の前でアレクサンドリア一の学者がペンを走らせるのを見たエーコらしい発言だった。子供特有の好奇心に、フライヤが顔を綻ばせる。

「なるほど、わかった。それなら持ってくるから、少し待っていなさい。」

自身も勉学に熱心な彼女は、すぐに万年筆と紙を持ってきた。エーコとビビが興味津々で触ってみる。

「まずは正しく持ってみよう。エーコ、私の言う通りにやってくれるか。」

それを穏やかに見守りつつ、フライヤは持ち方の指導に入った。自分の身に付けた持ち方ではなく、一種の知識として記憶している持ち方でエーコに握らせていく。自身の手とヒトの手では形が違うためだ。やがて小さな手にペンが納まる。

「ミノン、おぬしもやってみなさい。」

何もしない彼女は、どう動けばいいのかわかっていないようにも見えた。フライヤがペンを手渡して介添えしようとする。しかしミノンが受け取ったペンは、まるでそうあることが当然かのようにしっくりと、正しい持ち方で手に納まった。そこに不慣れな様子は見えない。

「……おお、きちんと持てておるの。では、書いてみようか。まずは自分の名前からやっていこう。」

そう言うとフライヤは紙に手本の字を書き始めた。高度な教育を受けていることを感じさせる、美しい形が並ぶ。

「これを書けば良いのね?」

子供達が真剣に真似た字は、お世辞にも綺麗だとは言えないものだった。大きくいびつで、書く度に形が変わっている。しかし特有の愛らしさがあった。

「なかなか上手く書けているではないか。」

「ほんと!?」

誉められたエーコが嬉しそうにもう一度書いてみる。それから気になったのか、ちらりと横の紙を見た。そしてそのまま目線を留める。

「……キレイな字ね。……さっすが、オトナってカンジ。」

「…………そうじゃのう。」

最初は書字の姿勢も覚束なかった二人と違い、ミノンは黙々と慣れた様子で書き連ねていた。エーコの言う通り、字も綺麗だ。筆遣いが安定しているのは年のせいだけではないだろう。持ち方を知っていたことといい、ペンを握ったことがないはずがなかった。

(ならば、何故……。)

言葉遣いは良く、振る舞いも上品。身なりもきちんとしている。知らぬ者に彼女の身分を問えば、上流層か裕福な中流層だと皆が答えるだろう。見たところ文字が書けなかったり、覚えられなかったりするわけではない。それなのに……どうして読み書きができないのか。知った日から心に残り続けている疑問を、フライヤはまた新たにした。

「……練習すれば字はどんどん上達するぞ。エーコもビビも、学ぶ気持ちを忘れぬことじゃ。学ぶことは、決して余暇に為す贅沢などではない。立派な糧なのじゃ。」




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