森宮莉子は突き進む。 | ナノ
温泉日帰り旅行へのいざない
コーヒーチェーン店に連れて来られた私は、奢られたコーヒーを飲みながらケーキをつつく。店内ではジャズ風な音楽が流れ、コーヒーの香りが充満していた。
「今日はじめて給料を貰ったんだ」
「そうなんだ、おめでとう」
25日締めの月末払いだから思ったより早く収入を得られたと久家くんは心底嬉しそうだった。
確かにはじめてもらうバイト代ってうれしいよね。私も緊急事態だったとは言え、真歌の代わりに働いて得た給料はとても嬉しかった。1週間の間だけだったが掛け持ちしていたこともあり、そこそこいい金額になったし。
私の家庭教師バイトのお給料は15日締めだから、手元に入るのは先なんだよねぇ。少しうらやましい。
「バイトにハマらないようにね。学業が1番なんだから」
「それはわかっているさ」
バイトに没頭するあまりに退学するって人の話をよく聞く。いや、バイトっていうか副業? お金稼ぐ楽しさを見出だして、大学を中退していく人もいるらしいのでそうはならないように釘を刺すと、久家くんは苦笑いを浮かべていた。
コンビニバイトは時給が低い割に仕事がハードだから、そこまで没頭しないか。
「だから日帰り温泉旅行に一緒に行こう」
その言葉に私は一口分フォークに掬ったケーキをお皿に戻した。
「だから、の意味がわかんないけど……何故?」
「莉子が行きたいと言っていただろう」
「言ってたけど、別に久家くんに付き合ってもらわなくても大丈夫だよ?」
言ったじゃん。お風呂は男女別で結局別行動になるからつまらないし、移動とか手間になるからいいって。
「俺が莉子と温泉に行きたいんだ」
しかし久家くんはマジな目をして私に圧を掛けて来る。
その勢いに閉口すると、彼は机の上に置いてた自分のスマホを手にとってなにやら操作しはじめた。
「こことかどうだ? 日帰りプランで温泉と名物のお茶菓子を部屋で楽しめる」
「う、うん?」
「金額は日によって変動するけど、安い日ならひとり5000円程度だ」
ぺらぺらと日帰り温泉宿のプレゼンを始める久家くんは饒舌だった。私が圧倒されているのを、温泉が気に入らないと勘違いしたのか、ハッとした顔をして別の温泉宿プランを見せて来る。
「ここは気に入らないか? こっちもよさげだけど、こっちは夕飯コースが付いているから少し値が張るんだ。俺はともかく莉子には負担が大きいだろう?」
「……別に休憩プランが付いている宿じゃなくても、お風呂利用だけのコースもあるでしょ?」
そっちはさらに安いと思う。ていうか私はそっちを利用しようと考えていたんだけど。私が指摘すると、久家くんは困った顔をしてなにやらいじけたような表情を浮かべていた。
「……旅館に宿泊した気分を味わえると思って。泊まりはいろいろと莉子にとって都合が悪いだろう?」
「まぁ……そうね」
交際してない男女がお泊りってどうかと思うし。別々の部屋に泊まってまではしたくないし。
久家くんはどうにかしてでも、私が楽しめる方法を模索していたらしい。
「ていうか冬休みに温泉入っただろうに、そんなに行きたいの? 久家くん、今回の休みもサークル一同で泊まり込みで山登りに行くって話だったのに、大丈夫?」
「……サークルの集まりには莉子がいないじゃないか」
「そりゃあね」
どよんと落ち込む久家くんを前にして私はなにを今更と呆れた。
当たり前だろう。サークルメンバーじゃないんだからいるはずがない。
「山登り先の宿泊地でも大きなお風呂に入れるかもよ?」
「それとこれとは別だ」
「えぇ……」
君そんなに温泉好きだったの?
他に行ってくれそうな友達はいないのかね。男同士で行けない、爺臭いと一蹴されちゃった後なのだろうか。
「出費がきついと言うなら俺が出すから! もちろん俺が身を粉にして稼いだバイト代だ。文句は言わせない」
まさに前のめりである。かつてこんなにも余裕のない久家くんを見たこと……あるな。去年の誤解事件のときだ。
頑張って働いたバイト代で私を持て成すというのか。そこまでして行きたいのか……温泉に。
久家くんの切羽詰まった様子に私は負けた。
「あーあー、わかったわかった。行くよ、行けばいいんでしょ。5000円の方でいい? それと利用費は自分で出すから」
「本当か!?」
ぱぁぁっと効果音がなりそうなほど久家くんは喜色満面の笑みを浮かべた。
いつもクール然とした久家くんが見せた違う表情に私はドキッとする。これがギャップというものか……
「予定のない日はいつ? 予約を入れておこう」
久家くんは私の動揺には気づいていないのか、早速言質とばかりにその場で予定を立てていた。
「近い日だと、今週木曜かなぁ。来週なら火曜」
「……火曜の予約枠が空いてるな。じゃあ来週火曜にしよう。朝に出れば間に合うから君の家まで迎えに行くよ」
さくさくと日帰り温泉旅行の計画は立てられ、当日久家くんが家までお迎えにやってくることで話が決まった。
「いつも普通に送ってもらって今更だけど、今回の燃料代は私が支払うね」
大学から自宅までとは話が違う。さすがにそれくらいこちらが負担するってのが筋ってもんだ。久家くんの車、どのくらいガソリン消費するんだろうな……外国車は燃費が悪いと聞くけどどんなもんか。
「そんなのいいのに……なら、交代で運転するか?」
「あの高級車を? 怖いなぁ」
「練習になるだろう。俺が付いているし、途中サービスエリアで交代すればいい」
「……じゃあ、それで」
行きも帰りも運転するのはそこそこ疲れも蓄積するはずだ。それなら交代で運転する方がこちらも気兼ねしなくていい。
◇◆◇
そんな訳で週明けての火曜日になった。
温泉旅館に行くとは言っても、日帰りなので荷物は少ない。大学に行くときのような普段通りの格好で家から出ると、うちの前に高級車が止まっていた。
運転席にいる久家くんが私の姿に気づいて運転席から降りてきた。そして扉を開けて私に「どうぞ?」と運転席へ誘った。
「どうも」
交代で運転するという条件を飲んだのは私だ。妙に緊張しながら運転席に乗り込むと、座席の調節したり、車の構造を確認したりして大忙しだった。自分ちの車とは配置が違うからね! もうすでに怖いよ。
「まずはここから高速道路に行って、途中のパーキングエリアまで頑張ってみよう」
ピッピッとナビ設定をしながら、指示して来る久家くんは自動車学校の教官みたいである。
しかし助手席側にはブレーキがついていない。安心しては行けないんだぞ。
「シートベルトよーし、ルームミラー、サイドミラーよし、死角もよし。発車します」
指差し安全確認すると、私はハンドルを握り、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
実家の車とは発進する感覚も音も違う。
「あぁ、変な感じ」
「怖いか?」
助手席に座る久家くんは余裕そのものだ。
私が事故を起こしたりするんじゃないかって不安はないのだろうか。
「外国車って日本車よりスピード出そうだもの。怖いに決まってるでしょ」
ましてや人様の車なんだ。緊張感をもって運転するのが当然だ。
世間では平日だったこともあり、渋滞に巻き込まれることもなく、何とか無事に温泉地へ辿り着けたときはもうすでに疲弊していた。
家の車で少し遠い神社まで遠出したことはあったけど、下道だったし、県を跨いだりはしなかったもの。そりゃあ疲れるってものである。あー肩凝って首が痛い。
予約した旅館に到着すると受付後すぐにお部屋に通された。お部屋は立派な日本旅館で、畳のい草の香りに日本人の心がくすぐられた。そのまま畳にダイブしたい気分になったが、一応一緒にいるのが男子なのでそれはやめておいた。
「じゃあ、またあとでね」
「俺のことは気にせずゆっくり浸かって来るといい。まぁチェックアウトの時間までには戻ってきて欲しいけど」
いや、さすがに5時間もお風呂には入れないから。
戻ってこなかったらお風呂で溺死してると想定してほしいところである。
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