森宮莉子は突き進む。 | ナノ
爪で掻きむしった痕
真歌は宣言通り、今年度は学業に専念するようでバイトをセーブしていた。
ただ、一切バイトをしないわけには行かない。来年度の足しとなるものを稼がなくてはならないからだ。教科書代とか試験料とか細々したものがかかってくるから余裕持って稼いでおきたいらしい。
「夏休みはバイトめちゃくちゃする! 実習中は居残りと休日返上してばかりで全然稼げなかったから!」
苦学生というものに暇などないと言わんばかりに彼女は気合いが入っていた。
真歌のいたグループは居残り率が圧倒的に高かったからな……こればかりは仕方ない。私が所属していたグループがスムーズ過ぎただけで、他のグループは軒並み居残り組ばかりだったもんね。
「莉子はいいなぁ。大石さんがいたから段取りよかったんでしょう?」
「そうなんだよ、彼女がリードしてくれたからさくさく進んでね。だから私も自分の勉強に集中できた」
「教授がランダムに決めた班とは言え、さすがに恨んだわ」
「ははは…」
大石さんは留年しているので去年も実習を行っている。
指示の仕方も的確だったし、私たちは彼女のおかげでつまずくことなく実習を終了できた。
じゃあ何故、彼女は留年したのか。
実習の休憩中におしゃべりした時に知ったのだけど、大石さんは真歌と同じく奨学金とバイトで学費を工面しているそうだ。そのうえ一人暮らしの費用も捻出しながら通っているとのこと。
それらを賄うためのバイトで体調を崩して、勉強に遅れが出て単位が取得できなかったらしい。不合格点を取った場合、追試というものもあるけど、医学部の科目は数日間みっちりやっただけじゃ点は取れない。シビアな現実だが、それもこれも人の命を支える医者になるための試練なのだ。
大石さんの実家は大学からだいぶ遠い場所で、彼女もまた親に進学を反対された人のようだ。だから学費や一人暮らし費用は自分でなんとかしなきゃいけないのだという。
……真歌は実家暮らしだからまだ何とかなるけど、一人暮らしだったら完全に終わってたってよく言っている。
真歌のバイトを肩代わりしただけでも辛かったのに、大石さんはそれ以上にハードな生活を送っていたのだろうと容易に想像できる。
◇◆◇
一学期末の試験が行われて、その成績表をもらった。
専用の学生用サイトでも試験評価結果を閲覧できるけど、私は紙でもらうこっちの方が好きだ。
私は今回もいい評価をいただいた。一番上の評価である「秀」にさらにプラスしたい的な解剖学の教授からのコメントが書かれていて、思わず拳を天井に向けて振り上げた。
「森宮さん、ひとりでなに奇行を繰り広げているんだ」
私の動きが怪しく見えたのだろう。通りすがりの久家くんに不審者扱いを受けた。
失礼な。喜びを表現していただけじゃないか。
「試験結果どうだったー? 私はすべて秀だよ。追試ゼロ!」
自慢がしたくなったので、イェェイとピースして見せると、彼はおどけるように肩を竦めていた。
「俺も追試はなかった。オール秀ではなかったけどな……」
なんだ、久家くんらしくない言い方だな。追試がなかったならそれでいいじゃないか。
私は特待生だからトップを維持する必要があるだけで、その必要がないなら問題ないだろう。程ほどにいい成績を取って、程ほどに遊べるなら、その方が楽しいんじゃないの?
「久家くんは夏休みなにすんの?」
試験が終わり、追試もない私たちはもうすぐ夏休みを迎えることになる。
実習を通して親しくなれたこともあったので何となく話を向けると、久家くんは珍しいことは何もない風に、淡々と返してきた。
「海外へ語学留学に。それとサークルの先輩方と合宿かな」
「ふぁー金持ちはやることが違うなぁ」
はしゃぐ様子がまるで見られない。いいなぁ。私もサラっとそんな発言してみたいよ。
「せいぜい一月の留学と、一週間程度の合宿だ。費用はそんなにかからないぞ」
「もうその発言の時点で庶民とは隔たりがあるんだよ。久家くんは自分がお金に悩むことのない恵まれている立場だと言うことを知るべきだね」
私の指摘に彼は眉間にしわを寄せて渋い顔をしていた。
いいか、そういった発言を苦学生の前でするんじゃないぞ。
留学費用、滞在費、渡航費を合わせたら一月いくらかかるかってのは想像できる。自分の妹が大学進学後に海外留学するためアルバイトで貯金しているからね。たった一月といえど、それは安いとは言えない金額だと私は思う。
「将来、お医者さんになったとき、患者さんそれぞれの経済状況等を想像できなくて、患者さんを傷つける発言をする恐れもありそうだから、庶民の経済状況というものを理解しておいた方がいいと思う」
日本にだって貧困がある。
世の中には歯科代も出せないくらい困窮している人もいる。金銭的事情で治療をあきらめて死に逝く人もいるの。仮に便利な制度があったとしても、それでも工面できない人もいるんだよ。
出費を抑えろとは言わない。お金のある人には是非とも経済活性化のために湯水のように使ってほしい。しかし、周りも自分と同じことができると勘違いするのは危険だということを理解すべきだ。
私の指摘を受けた彼は難しい顔でため息をついて頷いていた。言われて気づくことがあったのだろう。
久家くんは「それで、君は?」と聞き返してきた。
さっき私が彼に夏休みの予定を聞いたから、相手も水を向けてくれたのだと気づいてはっとする。
「私は復習と予習を兼ねた勉強と、オンライン語学レッスンと、家の車の運転、古本屋街や図書館に行く程度かな」
地味だろう。ほぼお金を使わないことばっかりだよ。
「友達と遊んだりしないのか?」
「真歌はバイトだし、琴乃は追試になった教科があるらしいからどうだろう……妹も高校入学してバイト始めちゃったからなぁ。妹も真歌と同じく怒涛の勢いでバイトしてるから、遊ぶ時間もないだろうなぁ」
女子大生らしくないと思われているだろうなぁ。
世間一般の女子なら、彼氏と海に出かけたり、友達とショッピングするんだろうけどね。私は昔からそういうものに関心がないんだよ。
だから当時の友人達から一緒にいてつまらないと言われて……うっ古傷が傷む。
「私の妹はね、留学するために働いているの。妹は自分の力量を考えてバイトと勉強両立しているから心配はいらないだろうけど……相手してくれなくてお姉ちゃんはすこし寂しい」
私が家計になるべく負担をかけないように特待生枠で大学に通っている姿を見て、妹も留学費用は自分で稼ぎたいと考えるようになったみたいだ。
本当にしっかりしているのうちの妹。ちゃんとワークバランス取れるように考えて、普通科に進学していたし。私の母校の特進科は拘束時間が長いし土曜登校もあるから、バイトするには不向きなんだよね。
聞かれてもいないのに、私がぺらぺらと妹自慢していると、久家くんがぽつりと「高校に入学したばかりなら4歳差か」とつぶやいた。
「そうそう。この間までランドセル背負っていたのに早いものだよ」
「発言が親戚のおばさんみたいだぞ」
「やかましい」
姉目線の発言なのに、親戚のおばさん扱いとはどういうことだ。
久家くんは一人っ子だからわからんのだよ、この感傷的な気持ちが!
「あ。大石さん、こんにちは」
「こんにちは」
「……森宮さんに久家くん、こんにちは」
久家くんと肩を並べて構内を歩いていると、大石さんとかち合った。
同じ実習グループメンバーとして過ごした仲だったので、親しみを込めて気軽に声をかけたつもりだったのだが、彼女の顔色の悪さに気づいて困惑する。
あれ……? 大石さん皮膚炎でも起こしてるのかな?
首周りからデコルテにかけて爪を立てて掻きむしったような痕が残されており、とても痛々しかった。
「大石さん、肌どうしたんですか、首のところ掻きむしったんですか? アレルギーかなにか……」
虫刺されにしては範囲が広すぎる。そうじゃないならなんらかのアレルギーだろうかと思って尋ねてみたのだが、その瞬間彼女の表情が強張り、ただでさえ青白かった顔色がさらに悪くなった。
両手で首元を覆って私たちの視界から隠そうとする大石さん。……見られるのを嫌がるそぶりをするその行動に私は異変を感じた。
「……何かあったんですか?」
「ごめんね、バイトに行かなきゃ。じゃあ」
「大石さん!」
彼女は私から逃げるように走り去ってしまった。私は呆然とそれを見送る。
私がなにかあったのかと聞いたときに見えた表情。
泣きそうな、怯えたような表情は何だったのだろう。
「……そういえば、大石さんが事務局の職員に呼び止められてなにかを話しているのを見かけた。彼女は一度留年しているからな……悩んでいるのかも」
久家くんは、心因的なストレスで掻きむしったものじゃないかと推測したらしい。
……だから様子がおかしかったのかなぁ。そしたら、首まわりのあれは蕁麻疹かなにかだろうか。
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