森宮莉子は突き進む。 | ナノ
医学の基本、解剖学
春がやってきた。
大学構内にはたくさんの初々しい新入学生が新生活に胸踊らせている姿が散見された。
そんな中で私はめでたく進級して2年生になった。1年時は他の学生と同じキャンパスだったけど、2年になると本格的な専門教育に移行するため、医学部キャンパスへ移動となった。
入学シーズンなものだからもれなく新歓が行われるのだが、私が部長として運営している教養サークルは敢えて目立つような勧誘行為はしなかった。
せいぜい新歓パンフレットの一部に活動内容と部長である私への問い合わせ先を載せたくらいで、新歓スペースで申し訳程度に誂えたブースには、過去のプレゼンで使用したレジュメのサンプルと、撮影していた動画をノートパソコンで閲覧できるようにしていただけ。
知識欲のある人だけが入ればいいんじゃないってスタンスである。
周りでは新入生獲得のために声を張り上げる学生達の声が響き渡ったが、積極的な勧誘をするつもりのない私はブースの中に設置した椅子に座って静かに教科書を読んでいた。
一般教養がメインだった去年と比べて、今年は一気に専門教科が増えた。
医学の基本は解剖学だ。
骨だけでも人体には200を超える骨がある。骨の名前だけでなく骨の突起やくぼみまでつけられてる名前を覚えなくてはならない。
しっかり座学で勉強した後、ご献体を使った解剖実習が行われることになる。
組織学という授業では臓器が顕微鏡でどのように見えるのかを学ぶ。座学の後に実際に臓器を顕微鏡で見て、スケッチしたものを提出しなくてはならない。
生理学では、腎臓がどのように尿を作っているか、肺はどうやって空気を取り込み、排出しているのか、体温はどうやって制御されているのかなど、人体の正常機能について学ぶ。
発生学では、人の体がどのように出来上がるのか、受精の仕組みや、受精卵が子宮に着床して生まれるまで、各臓器が受精卵のどこに由来してどのように形成して行くのかについて学ぶ。
生化学では、体の中で起こる様々な化学反応を学ぶ。例えばブドウ糖がどのように細胞の中でエネルギーに変換されていくのか、化学式を含めて学習する。
放射線基礎学は名前の通り、放射能が人体にもたらす影響について学習する。様々な科目を脳に叩き込む勢いで学んでいくのだ。
1年の時のように自分で授業を選択するのではなく、すべてが必修科目。時間割は予め決まってる。高校の時のように、指定の教室で待ってたら教科の先生がやってくるようなそんな感じで講義を受けることになった。
ちなみに1科目でも落とせば留年確定だ。1年の頃より忙しいのは間違いない。学年内には去年も2年生だった学生が在籍していることも。
「あの、入会希望なんですけど……」
「えっ。あっはい、ようこそ!」
思考の海に沈んでいた私は、恐る恐るといった体で話しかけてきた新入生の声に反応して我に返る。
入会希望者は初々しいまだ高校生の雰囲気を残した男の子だ。
「簡単にうちのサークルの活動内容を紹介しますね…」
うちのサークルは頻繁には活動しないし、はっきり言って地味だ。
学びをテーマにしたサークルのため、各自交代で発表しなきゃいけない。その資料を作る手間もある。
人によってはデメリットになりかねないことを説明したうえで、体験入会申込書に記名してもらう。
次回の活動日について入部希望者に話していると、その後ろを鼻息荒くどすどす歩く女の子がいた。
「なーにが、お嬢様大と医学部男子のためのインカレサークルだよっ! 大学は婚活場所か!」
あまりにもイライラしている様子だったので目がそっちに行ったが、聞こえてきたひとりごとで察してしまった。
どうやら今年も犠牲者が現れたらしい。あなたは去年の私か。
……もうさ、婚活インカレサークルですって表にそう書いてあげた方がいいと思う。毎回医学部所属の女子が不快な思いしてんじゃダメじゃん……
「先輩?」
「あ、ごめんね。えぇと2週間後の土曜で、場所は南陽キャンパスのここ。私たちは大学内の教室をお借りして活動しているんだけど、だいたいここが活動場所になるんだ。当日どうしても場所がわからなかったら連絡してくれれば迎えに行くから。なにかあったらメンバーに一斉通知しているから、通知設定しておいてね」
冷やかしや暇つぶしで立ち寄る新入生がいる中、その内何名かがうちのサークルに興味を持って体験入会してくれた。
特に何も考えてなかったが、初回は持ち寄ったもので、歓迎会的なものをしたほうがいいんだろうか?
◇◆◇
2年になると、一段と講義の内容が難しくなった。
実習に入る前に絶対に身につけておかなくてはならない知識を詰め込み、ほぼ毎回のように小テストを受けさせられた。
暗記することが多いので、それにうんざりする学生もちらほら出現するようになった頃、いよいよ解剖実習が実施された。
換気システムの整った大部屋に学生全員が集まり、教授がランダムに決めた5人編成のグループで解剖が行われる。
残念ながら友人とは別々になってしまった。
その代わりといってはなんだが、久家くんと同じ班になった。そして2年生を留年したという大石さんという女性、あとはあまりしゃべったことのない男子2名だ。
教科書や解剖の手引き書を参考にしながら、指定された体の構造物を実際に剖出していく。剖出というのは文字通り、解剖して取り出すって意味だ。
神経や筋、動脈や肺、心臓、肝臓といった臓器を剖出する。
しかしそれは決して簡単なことではない。教科書や参考書で見るものとは全く違い、人の臓器は皮膚や筋肉、骨に守られていて、そこから取り出すのはとても大変なのだ。
その日のうちにこなさなくてはならないノルマをクリアできなかったら、どんどんタスクが溜まって行くため、徹夜で泊まり込み、もしくは休日返上をして解剖室にこもる必要性も出てくる。
実習が進むにつれて居残りグループもちょいちょい現れるようになった。
だけど私の班は割とスムーズだった。
去年も2年だった大石さんが主導となって動いてくれたので、悪戦苦闘する他の班と比較してわりかし余裕だったのだ。
「私は2年生2回目だからね」
と大石さんは苦笑いしていたが、私としては大助かりだ。
今日の作業に入る前に、私はいつも仏様に感謝の意味を込めて手を合わせる。これは決められたことではなく、自分の気分的な問題だ。
医師を目指す自分の覚悟のために
「じゃあ森宮さん……」
大石さんが私に作業をさせてくれようと次の指示を振ろうとしたその瞬間、ばたぁーんと背後でものすごい音が立った。
振り返ると同じグループの男子が白目を剥いて大の字で倒れていた。
「寝かせて来るから、君は作業を続けて」
慣れた様子で久家くんが男子を介抱していた。驚いた様子は全くない。私も見慣れた光景のようにそれをチラ見して、すぐにご献体に視線を戻した。
そうなのだ。気絶した彼は初日からこうして何度も気絶を繰り返している。
最初は驚いたけど、教授が「よくあることだから」と解剖室脇にあるベンチに寝かせている光景を見て、琴乃のお父さんの言うことは本当だったのかとしょっぱい気持ちになった。
倒れた男子は大丈夫かと気になるところだが、こちらも学んでいる最中だ。私は今日のノルマをこなすため、大石さんの助言を聞きながら仏様の体を解剖用の器具で剖出した。
露出した臓器には見るからに病変部分と見られる腫瘍が残されていた。それを素早くスケッチして、教授の指示通りに作業する。
解剖実習のある期間中は、夜遅くまで解剖室でご遺体と向き合う時間を過ごしていた。
これも医者になるための試練。
精神的にくるものもあったけど、その苦しみすらも共有したグループ内のメンバーとは絆が深まった気がする。ほぼ毎回気絶する男子は除いて。
実習で実際に解剖をしたその時から、私は将来医者になるのだという実感が湧いた。
自分の手で内臓を取り上げたその瞬間から──もう後戻りはできない、そんな覚悟が生まれた。
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