- ナノ -

たとえ全部が嘘だとしても

 二週間の出張をなんとか終わらせて無事に帰ってきたというのに、街の周辺で流行っている婦女連続暴行事件のせいで手放しで喜べなくなっていた。まだ飛行船の中だった一昨日にはついに隣町で被害が出たそうで、会社から残業は避けて帰りは遅くならないこと、それからなるべく一人で帰らないようにと連絡が回った。警察や賞金首ハンターが追っているらしいから、捕まるのも時間の問題だろう。
 そうは言っても支社の立ち上げのプロジェクトは止まるわけでもない。視察が終わっていよいよ本格的な立ち上げとなり、結局私も先輩も立ち上げのメンバーとして最低数年間はパドキアへの異動が決まった。若手にしては大抜擢で、嬉しくないわけじゃないけど、せっかく仲良くなった同僚たちとの別れが寂しくもある。だけどそれに浸る余裕もない忙しさで、帰って早々目を回した。今日も終業時間から一時間ほど遅れて、例の事件があるからと目の下にクマを作った先輩が先に帰らせてくれるほどには忙しかった。

 
 途中までの記憶は確かにはっきりとあった。会社から家までの道を、なるべく明るい道を選んで早足で歩いていた。栄えてないわけじゃないけどそんなに大きな駅じゃないせいか、電車が駅に着くタイミングじゃないと途端に道を歩く人が少なくなる。たぶん、ただ、運が悪かっただけだ。
 まだ夜は更けたままで、そんなに長いこと意識がなかったわけじゃなさそうだった。ズキズキと痛む後頭部に触れたらありえないくらい腫れ上がっていて、近くに転がる鉄製の棒の先端が赤くなっていたからそれで殴られたのだとすぐにわかった。
 頭が割れるように痛い。痛みを堪えるために奥歯を噛み締めて、視線だけで辺りを探る。肩にかけていたはずの鞄が見当たらない。どこかに落としてきてしまったらしい。鍵はかけてるけど、あれには会社のパソコンが入っている。情報漏洩とか大丈夫かな。考えながら視線を下げた先の自分の格好に思わず乾いた笑いが漏れる。引き摺られたのかストッキングのふくらはぎの部分はボロボロに穴が空いて血が滲んでいるし、右足のパンプスはなかった。
 じゃり、と靴が擦れる音がする。アスファルトの上の小石を踏み潰したような音だった。音のした方に顔を向けると、荒々しく肩で息をした男が血走った目をしっかりとこちらに向けながら立っていた。目が覚めるとは思ってもいなかったのか、体を起こしている私を見て動揺している。その姿にはなんとなく見覚えがあった。連日ニュースで流れる防犯カメラの荒い映像の中で見た、その男によく似ている。
「クソ、当たりどころが悪かったな」
 この場合の当たりどころはどちらかというといいんだけど、この男にとってはそりゃあよくないかと納得した。こんな状況なのに、いやに冷静でいられることが不思議でもあった。
 男はずっとひとりでぶつぶつ喋っていた。女一人くらい。生きたままでも。たまには自分の手で。意識があったって。どうする。どうする。繰り返しながら、自分で自分に問いかけている。次の瞬間、首を覆った男の手が壁に押し付けるように容赦なく締め上げた。
 死ぬ。ここで。誰にも見つけられないような、寂れた路地裏の冷たいコンクリートの上で。ネットニュースで見た限り、殺してから事に及ぶらしい。それならまだいいかと考えるくらい、血走った男の目も、首を覆う自分より大きな手のひらも、取り込めない酸素も、割れるように痛む頭も、なにもかもをどこか他人事みたいに捉えていた。
 脳よりも体の方が必死なようで、男の手を剥がそうと爪が食い込んでその肌を裂いた。それでも緩まない。指先が痺れる。頭がぼうっとして力が抜けていく。頭の中に駆け巡るものはなくて、走馬灯って案外存在しないのかもしれないと思った。その瞬間、男の顔がズレる。
 声にならない男の叫び声を聞きながら、少し遅れて自分がコンクリートの上に倒れ込んでいる事に気がついた。打ちつけた肘がじんと痛む。その痛みがまだ自分に命があることを教えてくれた。目の前にはさっきまで首を絞めていた男の手首が落ちている。それからブラウスの胸元からスカートの裾までべっとりとペンキをこぼしたような血がついていた。暗闇のせいか、それは赤より黒に近い。
 怒り狂った様子の男が逆の手で私の首を掴もうとして、今度は手じゃなくて首が落ちた。頭がボールのように転がって壁にぶつかる。男の目は血走ったまま虚空を見上げていて、人間というよりはマネキンみたいだった。一瞬遅れて、頭のなくなったその身体が真横に倒れ込む。切り口から滴る血がコンクリートの上に血溜まりを広げていく様子を、ただ黙って見ていた。
「………………、」
 なにが起こったのかも分からないまま、その血がどんどん広がっていく。それが地面につけたままの袖に染み込んでも動けなかった。私と死体の間に影がかかって、ようやくその死体から視線を外す。靴の裏に血がつくことも厭わず、クロロは倒れ込んだままの私の前に屈んだ。
 どうしてここが分かったんだろう。起こった出来事のどれかひとつくらいは夢なんじゃないかと思った。クロロの手が首に触れる。さっきまでの男の手の感触を思い出したのに、避けようとは思わなかった。血の気の引いた私の顔を見下ろしたまま、クロロはなにも言わない。
 クロロに伸ばそうとした手の爪が男の手の皮膚を裂いたせいで血が滲んでいて、それを隠すように手のひらに握り込んだ。引っ込めようとした手をクロロの手が掬うように取る。服の前側にべったりとついた血を隠すように脱いだコートをかけられて、腰の抜けた私の背中と腕に手が回り、軽々と抱え上げられた。
 自分以外の人間の体温を感じて、ようやく現実を受け入れたようにばくばくと心臓が音を立てる。その鼓動の早さに眩暈がした。真下に転がるさっきまで人間だったものから目を逸らすと、視界を遮るように頭を肩口に押し付けられる。生臭い血のにおいをかき消すようにクロロの香水の匂いが鼻を掠めて、それに縋るようにクロロの首に腕を回した。深く息を吸う。吐く。また吸う。覚えてしまった血のにおいを薄めるように何度も何度も深い呼吸を繰り返しているうちに、いつの間にか家に着いていた。
 どこから拾ってきてくれたのか、クロロは手に持っていた鞄と右足のパンプスを玄関に置いた。左足にぶら下げたままのパンプスも抜き取って床に落とされる。ヒールが床にぶつかる軽い音を聞きながら、クロロの顔を見れずにいた。
 されるがままにベッドに降ろされる。コートを剥がされると、濃い血のにおいが漂った。血塗れの服を早く脱ぎ去りたくて、震える手でブラウスのボタンを外そうともたついていると、クロロの指が伸びてきて呆気なくすべてのボタンが外される。キャミソールのおかげで下着と肌には血が染みていなかった。ブラウスもキャミソールもスカートも、ボロボロになったストッキングも脱ぎ捨てる。
 服から漂う錆臭い血のにおいで胸焼けがした。逃げるように、もう一度クロロの首元に頬をすり寄せる。私の手の中の血濡れた服たちが引き抜かれて、部屋の隅に投げ捨てられる音がした。
 このまま甘えても、クロロは許してくれるだろうか。さっきまでと同じように、そっとクロロの首に腕を回してみる。クロロはなにも言わなかった。背中を支えるように回された手が熱い。それが無性に心を落ち着かせた。肩の力を抜く。それからまた、ゆっくり息をした。
 なんとなく分かっているつもりだった。クロロと私の生きる世界が掠めもしないほど遠いこと。ほとんどが一方的な関わりだった。クロロは私の住む街を知ってる。仕事も家も、勝手に合鍵まで作って。私はこの人のことで、なにかひとつでも本当だと信じられるものがあるのかどうかもわからない。
 きっと、今まで触れてこなかった、触れさせてくれなかったクロロの芯に触れてしまった。たとえ全部が嘘だったとしてもいい。それでもこの手を離したら、もう二度と会えない気がする。首に回したままの腕に力を込めて、柔らかい黒髪に額を擦り寄せる。冬が迫る冷たい空気にさらされた素肌が、クロロのシャツに擦れた。縋る私の髪を梳くように撫でる手さえ、胸を苦しくさせるのに。
 クロロの言うとおりだ。本当に見る目がないね。



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