- ナノ -

うそつき

 零時を回った街には走る車も道ゆく人もほとんど見えない。ぽつぽつと等間隔で道を照らす街灯を辿るように早足で家までの道を歩く。そんなに遠くないはずの家までの距離が果てしなく感じて、それでも足を止めるわけにはいかない。
 入社してもうすぐ一年というところでやってきた初めての繁忙期は、まさに目も回るほどの忙しさだった。単純な忙しさだけじゃなく、疲れが抜けないせいで日に日に余裕がなくなって、みんながみんなピリピリしている。たくさんの堪えなければならないことが自分の中で積み重なって、あと少しのところをなんとか耐え忍んでいるような毎日だった。
 不意に踏み出した右足が足を取られたようにがくんと傾いて、剥き出しのコンクリートに思い切り体を打ちつけた。
「いった……」
 思わず漏らした言葉は誰もいない夜道に溶けて消えていく。おろしたてのストッキングの膝の部分は穴が空いて血が滲んでしまっていて、ヒールの折れたパンプスが少し離れたところに転がっていた。立てないまましばらく呆然としていると、捻った足がずきずきと痛み始める。
 ぎりぎりのところで繋がっていたなにかが切れてしまったような感覚に苛まれて、悔しくて惨めで、泣きたくもないのに涙が出そうになる。真夜中に差し掛かって誰も見ていないとはいえ、こんな道の往来で泣くのはなけなしのプライドが許さなかった。微かに滲みかけた視界を瞬きでなんとか堪える。深いため息の後に立ち上がろうとした瞬間、数歩先のパンプスが拾い上げられて、それを追うように顔を上げた。
 鈍い街灯の灯りでさえわかるほど、思わず息を呑むような綺麗な顔立ちをしているのに、その瞳の底が見えなくて鳥肌が立つ。いつからいたのか、その男の気配は全くなかった。根本から折れてぶら下がるヒールを揺らしながら数歩の距離を詰めたその人は、屈んで私のそばにパンプスを置いた。
「あ……すみません、ありがとうございます」
「派手に転んだね」
 そんなところから見られていたのか。無機質に見えたはずのその人の目は、見間違いだったのかと思うほど普通に見える。私の足に視線を落としたその人が唐突に「送ろうか」と口にして、その言葉を噛み砕くのに時間がかかった。
「……え?」
「近いの? 家」
「え、っと……ここから五分くらいです。でもあの、大丈夫です」
「そう?」
「はい、五分ですし」
 言いながらパンプスを手に取って立ち上がろうとした瞬間、雷に打たれたような痛みが走る。なんとか声には出ないで済んだけど、あまりの痛みに心臓の鼓動が早まった。痛みの余韻を耐えるために黙り込んでいると、肩にかけていた鞄とパンプスを取り上げられた。それに声を上げるよりも早く、子どもを抱き抱えるみたいに持ち上げられる。
「えっ!?」
「どっち?」
「は、いや、あの」
「こっち?」
「いえ、逆です……じゃなくて! 大丈夫です!」
 その人は逆方向に進み出そうとしていた足を戻して家の方に歩き始めた。歩くたびに揺れてバランスが取れないけど、どこを掴めばいいのかもわからない。それを気取られたのか、宙に浮く手を取られて肩に置くよう促される。恐る恐るその肩に手を添えると、自分より下にあるその人の顔がこっちを向いて、慌てて顔を逸らした。顔が近いし抱えられているせいで距離も取れない。必死に顔を背けているとなぜかふっと笑われて、なにかおかしなことでもしたのかと顔が熱くなった。
 ぽつぽつと道を案内して、その熱が冷めるころにようやくマンションに着いた。鞄を受け取り、部屋の鍵を開ける。玄関に降ろしてくれたその人を見上げると、靴棚の上のスペースに置いていたしっぽが動くワニの置物を見ていた。
「あの、すごく助かりました、ありがとうございます。なにかお礼とか……した方がいいんでしょうか……」
「それ、オレに聞くんだ?」
「……たしかに」
 どうすればいいのかと黙り込んで考えていると、その人は「冗談」と言って笑った。
「ただの気まぐれだからいいよ。でも、もしまた会う時があったらその時にお願いしようかな」
「え」
 それでいいのか。いいのか? 実質お礼は大丈夫だと言われているようなものだったけど、逆に迷惑なのかもしれないとなにも言わずに頷いた。その人は手に持っていたヒールの折れたパンプスを私の足元に置いて、薄く笑う。
「その時までに考えておくよ」
 半分は断るための口実で、もし次会うときだなんてあるかもわからない先のことを言ったのかと思ったのに、次があることを確信しているかのような物言いだった。困惑したままもう一度頷く。ドアを閉める直前に「鍵、閉め忘れないようにね」とひとつ忠告を落として、ただの気まぐれだと言ったその人は部屋を出た。


 懐かしい夢を見た気がした。カーテンを閉め忘れた窓の向こうから爛々と差し込む朝日のせいで、まだ起きるには早すぎる時間に目が覚める。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなったのは、まだ寝起きの滲んだ視界には馴染まない新しい部屋のせいだった。クリーム色だった壁紙は汚れひとつない真っ白なものに変わったし、余計なものがそこかしこに飾られていたはずの部屋はまだ必要最低限のものばかりで無機質に近い。持ってきたお気に入りの置き物たちも、まだ段ボールに入れたまま部屋の隅に置きっぱなしだった。
 乾いて張り付く喉を飲み込んだ唾液でなんとか潤して、傷のないふくらはぎを撫でる。パドキアに越して三ヶ月が経っていた。もうあの日の擦り傷はどこにもない。
 あの日、朝目が覚めるともうクロロの姿はなかった。次の日の夜のうちにあの犯人が死体で発見されたと報道されて、しばらくは私のところにもなにか事情を聞きにくる人がいるかもしれないと落ち着かなかったけど、どれだけ経っても特になにもなかった。
 心のふちにクロロの存在が引っかかったまま、異動までの約半年間は慌ただしく過ぎていった。引っ越す前も、引っ越した後も、結局クロロは私のところに一度も訪れることはなかった。それでもどこかで期待していた。いつかまた気まぐれに訪れたクロロが、勝手に部屋に上がり込んで寛いでいて、我が物顔でおかえりなんて言ってくるような、そんな日が来るって。

 それから二ヶ月後、とあるニュースが出回った。指名手配されていた大きな犯罪グループのメンバーを捕らえたというネットの隅に転がっていたその記事の中に、血塗れたあの顔を見つけた。並んだ顔ぶれの中にはクロロの知り合いだったあの人もいる。
 幻影旅団という組織の中に、リーダーとして属していたらしいその人が、過去にどんな酷い行いをしていたかなんて想像もつかない。そのせいか、思い浮かぶ出来事はクロロ=ルシルフルというひとりの男とのなんでもないような思い出ばかりで、私の中に溢れる感情もそれに合わせたものばかりだった。会いたいと思う。触れたいと思う。いけないことなのかもしれない。でもどうせ、どんなに願ったって叶わない。
 もう二度と触れることのできないあの匂いを忘れたくないのに、どれだけ遡ってもぼんやりとしか思い出せない。それがとてつもなく苦しくて、息をするのがやっとだった。震える指先で画面越しのその顔をなぞる。
 私のいるところに行くって言ったくせに。うそつき。



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