- ナノ -

素直になれない

 静かだ。本を捲る音がしなければ、自分以外の呼吸音もない。あの香水の匂いもしない。コーヒーの匂いも。なんでもない日にふらっと姿を見せるくせに、今日みたいになんとなくひとりでいたくない日に限ってあの男は部屋に来ない。
 出張が決まった。パドキアにできる支社の視察のために、来月から二週間。営業部からは家庭を持たない私と先輩に白羽の矢が立って、ほとんど拒否権なんてなかった。仕事だし別にいいけど。いいんだけど。緊張や不安と同時に、そこそこ大きい仕事のせいでプレッシャーもあった。しかも下手したら立ち上げのために年単位で異動になるかもしれないと言われたら、心も荒むというものだ。悲しいかな、ただの一会社員である私たちに拒否権なんてほとんどないに等しい。
 ソファに体を沈める。クロロがいつもここで寛ぐからか、微かにクロロのあの匂いがした。くやしいけど落ち着く。こういうとき、クロロと出会う前はどうやってひとりの夜を過ごしていたのか、もう思い出すことすらできなくなっていた。


 浮遊感にふと目が覚める。ぼんやりとした頭のまま、背中と膝の裏を支える手があることに気付くのにそう時間はかからなかった。ゆりかごのように揺れて、それから柔らかい場所に寝かされる。
 あの匂いがする。夢にしてはやけに感覚的で、離れる匂いを追いかけるように伸ばした手がなにかを掴んだ。
「……クロロ」
 私がシャツを掴んだせいで動きを止めたクロロが、なんの表情も浮かべないままじっと私を見下ろしている。いつの間にかソファで寝てしまっていたところをクロロが運んでくれたらしい。珍しいこともあるものだ。
 カーテンの向こうの暗がりを確認して肩の力を抜く。時計を見ると真夜中もいいところで、こんな時間にわざわざ来るのは珍しいな、とまだ半分寝ぼけたままの頭でぼうっとクロロを見上げた。裾を掴んだままの手にクロロの指が触れる。剥がされるのかと思ってぎゅっと裾を握り込むと、クロロの手は諦めたように離れて、シーツに散らばる私の髪を指先で遊ばせた。
「朝までいるの?」
「ああ」
「そっか」
「…………」
 そっか。朝まで。さっきまで胸がすくような感覚に苛まれていたのに、それだけでなにか満たされるような思いがした。その感情の根っこの部分に触れるのが怖くて、考えるのをやめた。
 私を跨いで壁側に寝転がったクロロにつられて掴んだままの手が持ち上がる。寝返りを打ってクロロの方を向くと、クロロの手がまた私の手を解くように包んで、それに抵抗して握った拳に力を込めた。
「わかったから」
「なにが。やだ」
「こっち」
 裾から離された手が促されるままに胸元のシャツに触れて、大人しくそこを掴む。確かに横になるならこっちの方が掴みやすい。クロロの手が腰に回る。いつも通りだ。ひとり用のベッドから落ちないように手を回されただけ。それなのに、今日はなんでこんなに胸が苦しくなるんだろう。
 ぎゅっとシャツを握る手に力を込めると、頭の上から「皺になるな」と微かに笑いを含んだような声が聞こえた。素直になれないところまでクロロには見透かされているんだろうと思うと、また胸が締め付けられるように痛んだ。



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