- ナノ -

見る目がないね

 最悪だ。営業先から直帰を許された日に限って激しい夕立ちを食らって濡れ鼠になるとか。一緒に行動していた先輩もあちゃあ、と困ったような顔を浮かべてシャツについた水滴を手で払う。同じようにブラウスを手で払って、それから一応鞄の中を確認した。書類もパソコンもなんとか無事みたいだ。
 同じように雨に濡れた人たちで駅はごった返していた。ロータリーの編み込まれたような天井から覗く空には分厚い雲が少し先まで続いていて、まだとうぶん止みそうにない。
「傘ある?」
「いえ、持ってないです」
「だよね。どうしよ、すぐやむかな」
 駅前のロータリーは激しい雨が打ち付けて小さな川のようになっている。道の端の側溝に勢いよく流れていく水の音がよく聞こえた。バスの待機列を覆う安っぽい屋根に大粒の雨が当たる音がばちばちと鳴り続けていて、それが塊になって地面に落ちてあたりに飛び散っているせいか、そこだけ人が避けたようにぽっかりと空いていた。
「俺、忘れ物したから一回会社に戻りたいんだよね。最寄りどこだっけ?」
「ここです」
「そうなの? 近くていいね。傘買う?」
「んー、ここまで濡れちゃったので……金曜だし諦めて走って帰るか、雨がやむのを待つか悩んでるところです」
「まじでか」
 意外とパワフルだね、と言われて少し恥ずかしくなって俯く。そりゃそうか。言わなきゃよかった。気取ってタクシーで帰るとか適当に言っておけばよかったものを。ぼうっとしていたせいでなにも考えてなかった。
「あ、髪が……」
 顔を上げると、先輩の手が鞄のジッパーの部分に絡まりかけた私の髪に伸びていた。反射的に半歩下がってその手を避ける。伸ばしかけた手を止めた先輩はハッとして慌ててその手を引っ込めた。
「あ、ごめん! セクハラとかじゃないよ」
「あはは、思ってませんよ! すみません、びっくりして。ありがとうございます」
 空気を割るように着信音が響く。辺りの人が自分のポケットや鞄の携帯を確認していく中、震える携帯を取り出す。画面にはクロロの名前が表示されていた。先輩を見ると気にしないでどうぞと手で合図されて、お礼を伝えてから電話に出る。
「クロロ? どうしたの?」
「仕事は?」
「終わって帰るところ」
「前」
 短く告げられて電話が切れる。前ってどこだ。クロロはいつも言葉が足りない。かと思えば余計なことばっかり言うし。顔を上げて目を凝らすと、数メートルしか離れていないところにクロロが立っていた。直接声をかけてくれてもよかったのに、一応気を遣ってくれたらしい。そういう気遣いはできるのに人の家の合鍵を勝手に作ってはいけないとかいう常識は持ち合わせていない。いろいろとちぐはぐだ。
「どうかした?」
「あ……迎えが来たみたいで」
「そっか。親御さん?」
「いえ、知り合いというか……すみません、私はここで」
「うん、お疲れさま。また明日」
 軽く頭を下げて、人波をかき分けながらクロロに近寄る。近くにいた学生らしき二人の女の子が、クロロを見て小さくはしゃいでいた。濡れた傘を一本だけ持ったクロロはどうやらちょうど私の家に向かうところだったらしい。
「邪魔したか?」
「え? ううん、全然。先輩なの」
 なぜか浅く笑ったクロロに訝しげな顔を向けると、雨で濡れて肌に張り付いた髪を払われた。緩く内巻いていたはずの前髪も雨のせいですっかり伸び切っていて邪魔くさい。目にかかったその前髪も横に流されて、されるがままに大人しく目を瞑る。またふ、と笑う気配がして目を開けた。
「さっきからなんで笑ってるの?」
「いや。懐かれるのも悪くないな」
「はぁ?」
 クロロの口ぶりからして、私がクロロに懐いていると言いたいんだということはすぐに分かった。誰がだ。どこがだ。自意識過剰にもほどがある。文句を垂れようとしたところで、湿気で邪魔くさかった顔周りの髪を後ろに流されて首周りがすっきりする。そのとき触れたクロロの手が自分の頬よりもあたたかくて、それに気付いたクロロの手の甲が熱を分け与えるように頬にあてられた。
「冷えたな」
「……うん」
「帰るか」
 うん、ともう一度頷く。当てられたままの手の甲で頬を撫でられて、照れ臭くて緩みそうになる頬を奥歯を噛み締めて堪えた。今日のクロロはやけにやさしい顔ばかり向けてくるから調子が狂う。
 クロロの視線が私の後ろに向く。なにを見たのかと気になって振り向くと、先輩が私たちを見て目を瞬かせていた。振り向いた私に先輩は手を振って、それに軽く頭を下げる。
「警戒心」
 ぽつりと溢した言葉の続きを待つ。
「あったな。ほんの少し」
「でしょ?」
 相手は選んでます、と胸を張って答えると、クロロは「見る目がないな」とおかしそうに笑った。自分で言うな。



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