- ナノ -

どうもしないよ

 それで新人くんはどうなの、と脈絡もなく言った先輩は、汗をかいたアイスコーヒーのグラスを傾けながら好奇心の浮かぶ顔を向けた。口に含んでいたサンドウィッチを飲み込んで「なんの話ですか」と白けた目を返す。
「第二の新人、みょうじさんに熱上げてるって聞いたから」
「根も葉もない噂ですよ」
「え、そうなの? でも俺この間みょうじさんのこといろいろ聞かれたよ」
 誤魔化そうとしたのに先手を打たれていた。先輩の言葉にぐっと眉間に力が入る。いろいろってなんだ。嫌な予感がして険しい顔のまま先輩を見る。
「……変なこと教えてないですよね?」
「うん、変な置きものばっかり集めてるって言っておいた」
「言ってるじゃないですか……」
 先輩の言うその新入社員に、正直なところ心当たりがあった。今年入ったばかりのその人は隣の第二営業部に配属された新入社員で、ほとんど関わりがないけど向けられる視線の違いくらいわかる。実際一昨日も同僚に「なまえのこと聞かれたんだけど」と言われたばかりで、まさか先輩にまで聞いているとは思ってもいなかった。
「プライベートなことはなにも答えてないよ」
「当たり前です」
「そもそも知らないんだけどね」
「言ってないですから」
「冷たぁ……でも他にも結構手当たり次第に当たってるみたいだよ。総務の子も聞かれたって言ってた」
「……どうしたらいいですかね」
 深いため息とともに吐いた言葉は思ったより暗い声色で、先輩もさすがに困ったような顔を浮かべた。どうでもいい相手だったら冷たくあしらえるけど、会社の人間で後輩。どうしたものかと頭を抱えたくなる。
「ほどほどにって俺から言ってみようか?」
 まだ実害という実害はないし、あくまで純粋な好意だと言われればそれまでな気もする。本人に悪意がないのもわかってはいるんだけど。少し悩んで、小さく首を横に振った。先輩は「あいつ天然っぽいしな。なにかあったらすぐ言って」と協力の姿勢を示してくれて、とりあえず大人しく頷いておくしかなかった。


 先輩と会社に戻ると、ちょうど廊下で鉢合わせた例の後輩が私と先輩に気づいてパッと顔を明るくさせる。ぎくりと顔が引き攣りそうになることに罪悪感を覚えるくらい、パートタイムの方たちから可愛がられているのも納得の愛嬌の良さだった。
「あ……! お疲れ様です!」
「おつかれ〜」
「お疲れ様です」
 そのまますれ違おうとする先輩に並んで、なんでもない顔で通り過ぎようとする。
「あ、あの!」
 かけられた声に先輩と揃って足を止めた。会う機会があまりないからか、こうして直接話しかけてくることはほとんどない。真っ直ぐ私を見つめる後輩に怖気付きそうになる。
「みょうじさんってこのへんに住んでるって聞いたんですけど、本当ですか?」
「えっ」
「うわびっくりした。それはギリギリアウト」
 後輩から飛び出た言葉に思わず身を引くと、先輩が私と後輩の間を遮るようにひらひらと手を挟んだ。きょとんとした目を先輩に向けた後輩は「アウトですか」と不思議そうな顔を浮かべている。
「アウトだね、一応女性の一人暮らしだからね」
「先輩、さりげなく情報漏らさないでください」
「あっ……ごめん……」
 だめだこの人。全然信用ならない。思わず立場も忘れてなにやってるんですかと責める視線を向ける。私の視線に気付いた先輩はものすごく申し訳なさそうな顔を浮かべていた。この人も大概ずるい。こういう顔に出やすいところが取引先のおじさんたちに刺さっているのかもしれない。
 私たちを交互に見た後輩は、少し落ち込んだ様子で「先輩たちは付き合ってるんですか?」と口にした。どこをどう見たらそう見えるのか不思議でならない。先輩が言っていた「あいつ天然だからな」の言葉を思い出して納得した。
「いや? みょうじさんは彼氏いるし」
「えっ!?」
「なんでみょうじさんが驚いてるの? この間の、ほら。駅まで迎えに来てくれてたじゃん」
 先輩の言葉に、夕立ちにあってしまった日のことを思い出す。あれは迎えに来てくれたというよりたまたまタイミングがあっただけだし、そもそもクロロは彼氏じゃない。かといってここで否定しても面倒なことになる気がして、肯定も否定もせず黙り込む。それを都合よく受け取ってくれたらしい後輩は「そうですか……」と肩を落として、自分の部署の島に戻っていった。

 * * *

 例の出張の件で少しバタバタしていて、ここ最近はちょっとした残業続きだった。帰ってからご飯を作るのも面倒だし、なにか買って帰ろうといつもの帰り道から逸れて駅の方へ向かう。あのあたりならこの時間でもまだお店が開いてるはずだった。いくつかのお店の候補を思い浮かべながら歩いていると、後ろから肩を叩かれる。
「みょうじさん!」
 引き攣った声が喉の奥から出かかって、なんとか堪えた。真後ろに立っていた後輩は、もう夜も更けたというのに太陽の如く眩しい笑顔を浮かべている。
「あ……お疲れ様です」
「お疲れ様です! 帰ってるの見えて追いかけてきちゃいました」
 そのまま隣に並んで歩き出す後輩を止める理由が思い浮かばなくて、そうなんだ、と適当に返す。揃わない足音と遠くに聞こえる車の音が少しの沈黙を埋めた。自分の足より少し前の地面を見つめながら無感情のままひたすらに歩く。突然後輩が「あの、」と緊張した面持ちで声を上げた。
「この後時間ありますか?」
「あー、いや、もう遅いし……」
「じゃあ週末! どっちか空いてませんか!?」
 食い下がる後輩に眉を下げる。この状況で足を止めた後輩を無視して先に行くことはできなくて、なんて断るのが一番無難で納得してもらえるだろうと真剣な表情を浮かべる後輩に対してずるいことを考えた。また罪悪感が胸に募り始める。
「困らせてしまってるのはわかってるんですけど、でも、あの……チャンスがほしくて!」
「ストップ、近い近い」
 物理的にも間接的にも、距離の詰め方が劇的に下手くそだ。両手の拳を握ってぐっと身を乗り出すように迫る後輩に慌てて体を逸らして逃げると、逸らした背中が誰かにぶつかった。
「あ、すみませ……」
 振り向いた先、街灯の頼りない光源でもはっきりとわかる見慣れた男の顔にぎょっとする。ぶつかった私の肩を支えたクロロは呆れた顔で「何やってるんだ」と言いながら私を見下ろしていた。クロロの顔を見た瞬間に、張り詰めていた気持ちが緩む。
「な……なんでいるの?」
「なんでって」
 不自然に言葉を止めたクロロの視線が目の前に立つ後輩に向く。それを辿って後輩を見ると、ぽかんとした顔を浮かべてクロロを見つめる後輩が緩めた手のひらを処なさげに宙に浮かせていた。クロロは特に気にした様子もなく、後輩からふっと視線を外して再び私を見下ろす。
「今日は遅いな」
「あ、うん、ちょっと残業。ご飯買って帰ろうかと思って」
「それなら食べて帰るか」
「えっ、あ……うん」
 断ったばかりの人の前で了承するのはなんとなく申し訳ないけど、うまい言い訳も思い浮かばなくて浅く頷く。もともとご飯だけじゃなく休日の約束も断るつもりだったし、正直、クロロがこのタイミングで現れたのは都合が良かった。
「ごめん、じゃあ……また来週」
「あ……」
 彼が悪くなければ、私だって悪いわけじゃない。溜まった罪悪感を振り切るように背を向ける。後輩はなにかを言いかけた様子だったけど、追いかけてくる気配はなかった。
「八方美人」
 前を向いたまま呟くように言ったクロロの言葉にどきっとした。前になにかの話のときに意味を聞かれて教えた言葉だ。たった一度教えただけなのによく覚えてるなと思いながらも、その言葉が少し刺さる。もともとなにかを断ったりするのが苦手ではあったけど、こういうのはどっちつかずな態度がよくないこともわかっていた。言い訳もできずに黙り込む。
「まだ見てるな」
 そう言ったクロロは前を向いたままだった。頭の後ろに目でもついてるのか。適当に言ってるのかと思ったけど、冗談を言っているようには見えなくて浅くため息を吐く。
「どうする?」
 夜道で明かりが鈍いせいか、言いながらようやく私に視線を向けたクロロの目からはなにも読み取れない。
「どうするって、どうもしないよ。放っておけばそのうち他の人に興味持つんじゃないかな」
 たぶん、なにかのきっかけでたまたま彼の目に私が少しばかり良く映っただけだ。また別のきっかけがあれば他の人に目が行くだろう。もしなにかあれば先輩や上司に相談すればいい。少なくとも、今ここで個人でできることはなにもない。
「虫除け、手伝ってやろうか」
「え?」
 手伝うって、どうやって。戸惑いながら顔を上げる。クロロの顔がすぐ目の前にあった。思わず身を引こうとすると、いつの間にか頭の後ろに回っていたクロロの手がそれを遮る。
 逃げられない。唇にクロロの息がかかって、思わずぎゅっと目を閉じた。
「…………っ、」
「……ふ、」
 いつまで経っても触れない。クロロの笑う声に恐る恐る目を開けると、鼻先が触れそうな距離でクロロが「真っ赤」と目を細めて笑っていた。
「…………女たらし」
「褒め言葉か?」
「そんなわけないでしょ。ていうか外ではやめてよ」
 夜遅い時間とはいえ、駅の近くだからかまだぽつぽつと人通りがある。はたから見たらそれこそ頭に花でも咲いてるバカップルだ。小っ恥ずかしくて胸焼けがする。実際はせいぜいただの半居候がいいところなのに。まだ熱の冷める気配のない頬を手で仰いでいると、クロロがわざとらしくからかうような声色で言った。
「外では、って?」
「揚げ足とるな!」
 最悪だ。こんな顔じゃ店になんて入れない。真っ直ぐ家までの道を辿りはじめた私に、横を着いて歩くクロロが「帰るのか」と素っ頓狂なことを言う。あんたのせいだよ。



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