- ナノ -



深く



 一度しか乗ったことのない飛行船にもう一度乗ってみたい。次の目的を聞かれて少し悩んだ後にそう答えると、クロロさんは近くの空港から出ている便を調べて、いくつかの候補を出してくれた。乗ることしか考えていなかったから行き先については盲点だった。悩む私に「次はどこに行きたい?」とヒントをくれたクロロさんは、相変わらず行き先を私に委ねてくれるらしい。
「うーん……あんまり寒すぎないところですかね……」
 なんとか捻り出した希望を伝えると、候補の中に一応思い当たる場所があったらしい。例の財布のお金でペアチケットを買い、夕方の飛行船の出発までに空港に移動することにして、この街で最後のブランチを楽しむことにした。

 * * *

 湖に浮かぶボートの上にいるような不思議な揺れを感じながら、遥か遠くに薄らとある、海に面したあの街を見つめる。あの日見た朝焼けよりも遠くにある太陽が水平線に触れて、少しずつ海の向こうに身を沈めていく。僅かに浮かぶ雲のふちを、濃い赤橙が照らしていた。私の魂の色。無意識のうちに、首元に下げた服の下の指輪に触れる。
 ベンチが軋む音でハッとした。いつの間にか近くにいたらしいクロロさんが隣に座って、私が見ていた夕焼けを同じように眺めていた。大きくひらけた窓から夕陽が差し込んで、クロロさんの白い肌を影まで赤く染めている。
 クロロさんがなにも言わないから、私もなにも言わなかった。近くを通り過ぎる人たちの話し声が遠ざかって、微かに飛行船のエンジンの音と風が機体を撫でる音が聞こえる。風に煽られるたびに機体が揺れたけど、気になるほどじゃなかった。あの波の方がよっぽど激しい。
 どれくらいそうしていたのか、いつの間にか夕陽は海の向こうに姿を消していて、引き連れていた夜の気配が濃くなっていた。どんどん遠ざかっていく海と空の境目だけに、薄く橙色が残っている。それもそのうち見えなくなって、深い夜が訪れた。
「沈んじゃいましたね」
 窓の外を見つめたままぽつりと溢した言葉に返事がなかったとしても、それはそれでいいと思った。
「夕焼けが綺麗に見える時間は三十分もないらしいからね」
「そうなんですか?」
「朝焼けはもっと短いらしいよ。確か十分くらいだったかな」
「へえ……じゃあ、この間のは結構貴重な体験だったんですね」
 律儀に返事をくれたクロロさんとぽつぽつ言葉を交わす。クロロさんは分野を問わず、いろいろなことを知っていた。知らないことはないんじゃないかと思うくらい、ひとつの疑問にたくさんの答えをくれる。そのたびに自分の世界が少しずつ広がっていく感覚がした。
「オレはもう部屋に戻ろうかな。なまえさんは?」
「私は……せっかくなので、もうちょっと見てます」
「一人で平気? もう少し居ようか」
「いえ、大丈夫です。ちょっとしたら私もすぐ休むので。おやすみなさい」
 一瞬だけ動きを止めたクロロさんは「おやすみ」と返事をくれた後、そのまま部屋のある方に歩いて行った。その後ろ姿に特に変わった様子はないけど、あの間はいったいなんだったんだろう。そういえば昨日もちょっとだけ変な間があったような気がする。おやすみってなにか変な意味でもあったっけ、と頭を悩ませたけど、結局なにも浮かばなかった。


 * * *


 飛行船を降りてまず最初に驚いたのは、飛び交う言葉が全くわからないことだった。飛行船を降りたところでスタッフらしき女性に声をかけられて、思わずぽかんとしてしまう。すかさず横から顔を出したクロロさんが一言二言なにかを喋って、その女性はわずかに頬を赤らめながら満面の笑顔を見せて頷いた。まだなにか喋ろうとするその人を遮るようにクロロさんの手が戸惑う私の肩に回って、歩くように促される。もう会話は終わっていたのか、それさえもわからなかった。
「すみません……全くわからなくて」
「いや、オレが伝え忘れてたよ。荷物は預けてますかって聞かれたんだ」
「なるほど……最後まだなにか話してませんでしたか?」
「ああ。大したことじゃなかったから」
 そうですか、と返して、途端に申し訳なさが募る。旅において言葉が通じないって、かなりリスキーだ。改めてクロロさんの存在をありがたく思いつつ、この国ではよりいっそう迷惑をかけそうな予感がした。クロロさんの負担にはなりたくないし、あまり長居はできそうにない。
「公用語は全く通じないんですか?」
「ほとんど使えないと思っていた方がいいかもね。自然が豊かで観光客は多いけど、結構閉鎖的な国だから……公用語の普及はかなり遅れてるし治安も良くない」
 空港から一歩外に出ると、あの海辺の街とは違う、春先のような空気が肌を撫でた。本当にあったかいんだ。飛行船の中でクロロさんが教えてくれた、近くの海から流れ込んでくるあたたかい空気の仕組みを思い出す。神妙な顔で頷いておいたけど、ほんとはちょっと難しくてあんまりわからなかったことはクロロさんには内緒にしておこう。
 近くのホテルを目指して歩く道すがら、なんだかクロロさんの距離がいつもより近い。不思議に思ってクロロさんを見上げる。そんなにわかりやすい顔をしていたのか、「男連れだって分かっていた方がいい」と小声で教えてくれた。なるほど、確かに一人で歩いている女性はほとんど見当たらない。クロロさんが腕を軽く持ち上げて「掴む?」と訊ねてきたけど、丁重に断っておいた。


 頭が痛い。たどり着いたホテルの部屋で荷解きもしないまま、ベッドに突っ伏して動けずにいた。飛行船を降りたときから頭痛の片鱗は見えていたけど、ついに内側から殴りつけられるような痛みが襲って吐き気さえする。
 クロロさんと約束していた夕食の時間まで、まだ少し余裕があった。窓の外に目を向ける。そろそろ日が沈み始めそうだけど、まだほのかに明るい。分厚い雲のせいでわかりにくいものの、まだ時間もそんなに遅くなかった。確かホテルからすぐのところに薬も置いていそうなバラエティストアっぽいものがあったはず。財布と部屋の鍵を持って部屋をそっと出る。すぐに行ってすぐに帰ってくれば予定してた時間には間に合うだろう。
 そう思ってたのに。ホテルから三軒隣に離れただけのバラエティストアでなんとかジェスチャーが通じて頭痛薬を買うことができたと思ったのも束の間、店を出たところでビルとビルの間の暗がりにひとりの子どもが横から攫われるように姿を消した。
 なにかを考えるよりも早く、手に持っていたビニール袋を放って駆け出した。伸ばされた小さな手のひらが完全な暗闇に溶ける前に、力いっぱい握りしめる。反対側からの力を予想していなかったのか、掴まれた子どもの腕は思っていたより簡単に抜けた。自由になった子どもが泣きながら私に抱きついて、それを受け止めながら後ずさる。
 暗がりに浮かぶ三人の男の影を、私の目はしっかりと捉えていた。今まで目にしたことがないほど残酷な色を映した三対の目が、憎々しげに揺れている。ばくばくと跳ねる心臓の鼓動に合わせて頭痛がより激しくなっていたけど、それを気にかける余裕はなかった。
 身長の割に軽すぎる子どもを抱き上げて、弾かれるように走り出す。夜の気配が迫る街を歩く人はほとんどいない。向かいの道に座り込んだおじさんが酒瓶を片手ににやにやと笑顔を浮かべていたけど、助けになってはくれないとすぐに察した。クロロさんの言葉を思い出す。
公用語の普及が遅れているし、治安も良くない
 治安、良くないどころか酷すぎる。日中、クロロさんが私に寄り添うように歩いていた意味がわかった。この街じゃ観光客や女子供はいいカモなんだ。どこか簡単に捉えていた自分に舌を打つ。
 ホテルはほんの二、三軒先だった。せめてそこまで行くことができれば。ずり落ちそうになる子どもを抱え直しながら全力で走る。必死に首にしがみついて震える子どもの背を離さないように力を込めると、その小さな体に収まる心臓の音が私にも伝わって、訳もわからず泣きそうになった。こんなことが、許されてたまるか。
 大人になってからこんなに思い切り走ることなんてなかったから、何度も足が絡まりそうになった。ホテルの隣の建物に差し掛かったとき、後ろから思い切り髪を掴まれて顔を歪める。
「いっ……!!」
 振り返って睨んだ先で、さっきの男のうちの一人が腕を振りかぶるのが見えた。子どもの頭を守るように胸に抱えた瞬間、頬を殴られてその場に倒れ込む。怒声には慣れていたけど人に殴られるのなんて初めてで、痛みと衝撃で頭の中が揺さぶられるような感覚に陥った。
 なにかを叫ぶ男の言う言葉がわからないことが、今は救いだった。言葉の意味が分かってしまったら、きっと比べ物にならないくらい足が震えて立つことすらできなかった。口の中に広がる慣れない血の味が不快で、じんじんと痛み出す頬に生理的な涙が滲んだ。胸倉を掴まれて上半身が浮く。怖い。でもそれ以上に胸の内を占め、体中に溢れるのは怒りだった。必死にしがみついて泣き続ける子どもを離すつもりはさらさらない。言葉が通じないならと、抵抗するように男の顔を睨み上げる。
 反抗的な態度が気に食わなかったのか、怒りに満ちた表情を浮かべた男の腕が再び振り上げられた。衝撃を堪えるために歯を食いしばって、それでも男の顔だけは睨み続けた。その瞬間、後ろから伸びてきた足が男の顎を蹴り上げる。
 仰向けに倒れ込んでいった男の手から開放されて地面に体を打ち付けるよりも早く、誰かの手が背中を支えた。へたり込んだまま見上げた先には今いちばん求めていたその人がいて、情けなく泣き出しそうになるのを奥歯を噛み締めて堪える。
「クロロさん、」
「後で言いたいことが山ほどある」
 お説教が確定してしまった。クロロさんの呆れたような視線と絡んだと思ったら、その視線が少し下がって私の頬を見る。
 なにかを小さく呟いたクロロさんに聞き返すよりも早く、クロロさんは私から視線を外した。倒れた男を指差しながら後ろに立っていた二人の男に冷たい声色でなにかを伝える。男二人は倒れた男を両脇から抱えて、引きずるようにあの暗い路地に消えていった。
 続いて私に抱きついたまま泣きじゃくる子どもに視線を落としたクロロさんは、なにかを考え込んだかと思うと、ふうと息を吐いてへたりこんだままの私の腕を取った。
「一先ずホテルに戻ろう。その子どもはその後にオレが家まで送り届ける」
 支えられながらなんとか立ち上がる。ぐちゃぐちゃな顔で不安そうに私とクロロさんを交互に見る子どもになんて伝えたらいいかも分からず、とりあえず安心させるためにその頭をやさしく撫でた。


 ホテルの自分の部屋でソファに座りながらそわそわとクロロさんを待つ。暗くなり始めてからはあっという間で、すっかり日の暮れたホテルの前の通りは最低限の街灯しかなく、昼間の雰囲気とはがらりと変わっていた。ドアの開く音に窓の外から視線を移す。
「あの子は、」
「無事に返したよ」
 クロロさんの言葉にほっと肩の力を抜いて、それから近寄ってくる気配に顔を俯けた。怒りの熱よりも呆れたような冷たさを感じて、それが余計に辛い。迷惑をかけている自覚もあった。人に怒鳴られることに慣れていたと思っていたのに、心を許し始めている人に嫌われたかもしれないと思うと、上司やさっきの男たちのどんな罵声よりもつらかった。クロロさんがなにかを言う前に口を開く。
「本当にすみません。私が浅はかでした」
「自分が危ない目に遭うとは考えなかったのか?」
 責めるような口調や声色じゃないのに、勝手に問いただされているような気になって、ぐっと唇を噛み締める。
「なにも考えていなかったというか、考えるよりも早くというか……あの子の手を掴んでから思いました。実際、ちょっとだけ後悔してる自分が嫌になるくらい、痛いし怖かった」
「…………」
「でも、あのまま見過ごしてたら、きっと今以上に後悔してました」
 そこまで言って、これだとまるで自分の行動を正当化しているみたいに聞こえてしまうんじゃないかと慌てた。
「あの、反省してないとかじゃないんです。……迷惑かけてごめんなさい…………」
 クロロさんの顔が見れない。握りしめて白くなった手の甲を、滲む視界を堪えながら見つめる。ふっと笑う気配がして驚いて顔を上げると、怒っていると思っていたはずのクロロさんが笑っていた。
「な、なんで笑ってるんですか」
「叱られた子どもみたいだったから、つい」
 子どもはともかく、実際に叱られているつもりでいたんだけど。目線を合わせるようにしゃがんだクロロさんは、握り締めたままの私の指をやさしく解いた。
「運が良かっただけだ」
「はい」
「ああいう時は相手を挑発するな」
「はい、」
「向こうがもっと上手だったら今頃ここにはいないかもしれない」
「……はい」
 手のひらに食い込んだ爪の跡をさするように撫でられる。少しだけ自分よりも低いところにあるクロロさんの目が真っ直ぐ私の目を見つめていて、私は何度も頷くしかできなかった。
「で、そもそもどうして外に?」
「頭が痛くて、近くに薬が売ってそうなお店があったなと……」
「頭痛? いつから?」
「飛行船を降りたくらいからなんとなく……ホテルについて痛みが強くなって」
 薬は結局落としてきてしまったままだ。クロロさんは少し考えた後、なにかを思い出したようにああ、と呟く。
「気圧のせいかな。夜のうちに雨が降るみたいだから、明日は少し良くなってるとは思うけど」
「気圧……」
「少し話したけど、ここは気温が高くなりやすいし日が長いから……いや、長話はやめておこうか」
 クロロさんに手を引かれてベッドに横になるよう促される。喋っている間も脈拍に合わせたような痛みに襲われていたから、正直ものすごくありがたかった。
 横になった私に毛布をかけたクロロさんが、ベッドの端に座って私を見下ろす。その静かな瞳はもう怒っているようには見えなくて、なにかを話そうとするクロロさんの目を見つめ返しながらじっと待った。
「聞いてるだけでいい。ただこの間、なまえさんが非の話をしてた時に言い忘れたことがあって」
「はい、」
「オレがエスコートをしたり、言語のサポートをしたり、あとは……そうだな、波を被ったり。そういうのはなまえさんの非にカウントしなくていいよ」
「…………」
「顔に出すぎじゃない?」
「……難しいです」
 私を見下ろすクロロさんの顔は天井から吊るされている蛍光灯のせいで影がかかって暗くなっている。それでもその表情が思っていたよりずっと穏やかに見えるせいで、さっきまでの緊張や不安が少しずつ溶けていく感覚がした。
「今回のこれも、なまえさんにとっては非になるんだろうから」
「はい」
 素直に頷いた私を見て、クロロさんが薄く笑う。
「なまえさんは自分のせい、の範囲が広すぎる。もっと人のせいにしてみたら?」
 人のせい。クロロさんの言いたいことはわかるけど、うまく自分の中で噛み砕けない。黙ったまま視線を逸らした私に、クロロさんが言葉を続ける。
「エスコートもサポートもオレが勝手にやってるだけだし、波を被ったのは波のせいだし、さっきのあれも、そもそも人攫いをしている奴らのせい」
 あれ人攫いだったんだ。私もあの子も、今頃どこか見知らぬ土地に売り飛ばされてたりしたのかもしれない。そうなったら取り返しがつかないことになっていた。クロロさんが言っていた今頃ここにはいないかもしれないって、そういうことだったの。改めて顔を青くさせた私にクロロさんはちょっとだけ呆れたような表情を浮かべている。
「まあ、もう少し警戒心を持ってもいいとは思うけど」
「すみません……」
 自分のことをそこまで酷い世間知らずだと思ったことはなかったけど、それは世間を知らなかったからだったとようやく思い知った。黙り込む私の前髪を指でやさしく払ったクロロさんが「でもいいところでもある」とおまけ程度に付け足してくれる。
「夕飯は買ってくるよ。ついでに頭痛薬も」
「……すみません」
「食べたいものは?」
「口の中が切れてて……食べやすそうなものだと嬉しいです」
「見せて」
「えっ」
 それは流石に。戸惑う私の頬にクロロさんの手が触れて、内側の傷と歯が擦れて痛んだ。痛みに顔を歪めると、クロロさんに視線で訴えられて渋々口を開く。
「結構深いな。口腔薬も買ってくる」
「……はい」
 不甲斐ない。慰めるように頬を撫でられて唇を噛む。今やさしくされるとみっともなく泣いてしまいそうになるからやめてほしい。毛布を引っ張って目の上まで覆い隠すと、クロロさんがふ、と笑う気配がして、「行ってくる」と言いながら毛布で隠せなかった頭をくしゃくしゃと撫でられた。ドアが閉まる音を聞いてようやく鼻を啜る。
 クロロさんが戻ってきたらまず、ちゃんとありがとうって伝えよう。さっきは謝ることに必死になりすぎて、一番大切なことを伝え忘れていた。クロロさんが帰ってくるまでに泣き止んで、それから目を洗えば誤魔化せるだろうか。たとえバレてしまったとしても、クロロさんならきっと気づかないふりをしてくれるような気もした。


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