- ナノ -





 クロロさんと旅を始めて二日目にして、早くも大きな問題に直面していた。早めの夜ご飯を食べて明日の朝のために休もうと立ち寄った、大通り沿いの小洒落たカフェの一角。伝票の挟まったバインダーを離すまいと両手に力を込める私に対して、クロロさんは片手でそれに対抗してくる。私だってそんなに力が弱いわけじゃないのに。どんな力してるんだ。
「ここは私が払います、今日のお昼はクロロさんが払ってくれたじゃないですか」
「昨日の昼はなまえさんが払ったから」
「それを言うなら昨日の夜はクロロさんが払ったじゃないですか……あっ!」
 ついに奪い取られてしまった伝票を追う間もなく、クロロさんは一瞬でお金と伝票を店員さんに預けた。お釣りだけ受け取ったクロロさんにほら、と促されて店を出る。無言でお金を差し出しても普通に無視された。思っていたより強情だ。もしかしたら私もクロロさんにそう思われているのかもしれない。
「……わかりました。ちょっと待っててください」
 踵を返した私をクロロさんが振り返る気配がした。出たばかりのカフェを早足で通り過ぎて、ご飯を食べる前に通り過ぎていた雑貨店に入る。
 カウンター代わりのテーブルの前にはやる気のなさそうな店員がいて、飛び込むように店に入った私にチラリと視線だけを向けた。アンティークな小物が並ぶ棚を抜けて、財布やキーケースが置いてある場所を目で探す。ちょうどいいシンプルなデザインの財布を見つけて手に取った。お値段もちょうどいい。そのままさっさとお会計を済ませて店を出る。
 追いかけてきてくれたらしいクロロさんが店の外で待っていて、私の手にある買ったばかりの財布に不思議そうな視線を向けていた。
「これを私たちの共同財布にします」
「……共同財布?」
「同じ額をここに入れて、一緒にご飯を食べに出たときとか、ペアチケットの類を買うときなんかはここから出すようにしましょう。これでどうですか」
 どうですかなんて聞いておきながら、実際には拒否権なんてない。それでも面倒だとかなにかしらの否定を吐かれるかと思っていたけど、クロロさんはあっさりと頷いた。
「いいアイディアだね」
「ホテルなんかは別会計ですし、あくまで二人でなにかを買ったときにここから出しましょう。旅もどれくらい続くかわからないので、少なくなってきたら足す方針で」
 頷いたクロロさんの横に並んで、今度こそホテルに帰る道を歩く。夜が訪れたばかりの大通りはまだ店の明かりが爛々と光っていて、人の騒めきも衰えない。
「でも、珍しいタイプだな」
「え?」
「今まで会った女性はあまりそういう考えの人はいなかったから」
 ああ、と少し納得する自分がいた。確かに、故郷を出てヨークシンで働き始めたとき、同僚の話を聞いて驚いた。
「国民性ですかね。もちろん全員がそうじゃないんですけど、私の故郷では少なくなかったです。結構謙虚というか、内気な人が多いというか。……でも、私は謙虚なんかじゃなくて、自分の非をできるだけ少なくしたいだけなんです」
「非?」
「非というか、責められる部分というか……なにかをしてもらったら、なにかを返さないといけない気がして。後々あの時ああしてあげたのに≠チて思われるのも嫌なんです。クロロさんがそうだってわけではないんですけど……」
 そういう考えが染みついてしまっているせいか、クロロさんみたいに女性に何かをして当たり前という考え方に慣れない。故郷でも私の考え方が一般的というわけではなかったけど、ヨークシンに比べたらその差は歴然だった。知らない人がわざわざドアを開けてくれたり、階段でエスコートしようと手を差し出したり、カフェに居合わせて少し話しただけの人がお金を出してくれたり。初めはなにかの詐欺かと思ったくらいだ。まだまだ知らない世界がある。
「みんな言葉にしないんですけど、心のどこかでそう思ってて。私の国では特に、平等にこだわる人が多かったような気がします。いい意味でも、悪い意味でも」
「謙虚なのに?」
「ふふ、はい、そうです。変でしょ」
「変だね」
「あはは!」
 はっきりと言い切ったクロロさんが面白くて思わず声を上げて笑う。それこそ故郷では本音は隠している方が美徳とされがちだったから、新鮮で嫌いじゃない。
 見慣れたペンションが視界に入る。たった一晩しか泊まっていないのに、知らない街の中だとここが自分の家のように不思議な安心感を覚えた。これからも行く先々でそう思うのかもしれない。
「私、結構この旅を楽しんでるんです。もちろんクロロさん込みで。こんなに一日が早く感じるの、初めてなんです」
「…………」
「せっかくの旅路をこんなことで台無しにしたくないし。他の部分でクロロさんにものすごく迷惑をかけてるので、お金くらいは自分で出します」
「迷惑なんてかけられてたかな」
「今一番申し訳なく思ってるのは……朝の、海水をかぶらせてしまったことです」
「はは、あれ。まだ落ち込んでたの?」
「はい。たぶん、しばらくは」
 ペンションに着くと、クロロさんが「これは?」と言いながらドアを開けてくれた。その顔はどこかからかっているようにも見える。こればかりは流石に慣れた、と首を振った。
「生きづらそうですか?」
「まあ、思わなくはないかな」
 お互いの部屋の前で、どちらからともなく足を止める。隣で歩いていたときより私たちの距離は離れていたけれど、外よりもペンションの中の方が静かなおかげでクロロさんの声ははっきり聞こえた。
「もっと自由に生きてみたら?」
「……好きなように?」
「そう。好きなように」
 好きなように。その言葉で、あのメッセージカードを思い浮かべた。思うままに。ほとんど同じ意味をもつその言葉たち。クロロさんなら、おばあちゃんが書いたあの言葉の意味を私よりも理解していそうだ。おばあちゃんとクロロさんにはわかって、私にはわからない私のこと。
「…………むずかしい」
「ま、ゆっくり考えればいいよ。せっかくの休暇なんだから」
 それもそうか。おとなしく頷いた私にクロロさんは小さく笑って、自分の部屋に入ろうと背を向ける。
「あ、クロロさん」
 クロロさんは呼び止めた私を不思議そうに振り返った。まだ寝るには少し早いけど、多分次に会うのは明日の朝になるだろう。
「おやすみなさい。また明日」
「……おやすみ」
 一瞬遅れて言葉を返してくれたクロロさんは、今度こそ部屋に入っていった。


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