- ナノ -



いつか星になる



 あの連中にまた会うと厄介だから、と慌ただしく滞在場所を移動して、いちばん近くの国境を超えてすぐの街にホテルを取り直した。こうして比べて見ると、確かに街灯の数も多ければゴミも壁の落書きもない。道は大通り以外もきちんと舗装されているし、街を歩く人の身なりも整っていた。
 私の部屋で今後の相談をしながら、旅をするにあたってクロロさんと約束事を決めた。どれだけ治安がいい街でも、夜にはひとりで出歩かないこと。携帯をきちんと携帯すること。約束は状況に応じて足していくこと。
「で、今さらだけど連絡先を交換しよう。何とかなると思っていたけど、流石にあれは想像以上だったから」
 クロロさんのいうあれ、が昨日の出来事だということは考えなくてもわかった。打たれ弱いせいで心を砕かれかけたところで、クロロさんの表情がからかい混じりなことに気づく。
「……そんなこと言っていいんですか。落ち込みますよ、ものすごく。もう目も当てられないくらい」
「初めて聞く脅し文句だな」
 くつくつと肩を揺らすクロロさんをじとっと睨みつけて、鞄に放置していた携帯を取り出す。あの日から電源を落としたままだったから充電があるかどうかが心配だったけれど、まだなんとか生きていたらしい。画面が光った瞬間、携帯はけたたましい音を発しながらメールや留守電を受信し続けた。
 ディスプレイに映る上司の名前を見た瞬間に思い出したかのようにばくばくと心臓が激しく鳴って、それを悟られないようにそっと深く息を吐いた。この騒音の中でも平然とした表情を崩さないクロロさんに視線を向ける。
「明日の予定、決めました。新しい携帯を買いたいです」
「オーケー。それがいい」
 やかましく騒ぎ続ける携帯を抜き取られたかと思うと、クロロさんはそのまま勝手に電源を落とした。ときどき見せるこういう遠慮のないところはさっぱりしていて嫌いじゃない。クロロさんの手の中で静かになった携帯がただの役立たずの鉄の塊になったけど、どうせここまでの旅路だって一回も使わなかった鉄屑だ。枷になるなら無い方がいいに決まってる。


 翌日、訪れた携帯ショップの押しの強い店員さんの営業トークに負けそうになる私を見かねたクロロさんが、割と早いタイミングで横から口を挟んでくれたおかげでなんとか新しい携帯を契約することができた。だけど番号やアドレスごとまるっきり新しいものに変えるせいか、手続きに二時間ほどかかるらしい。ちょうどいいとランチを済ませることにして、少し先の通りにある中央広場に向かう。
 思っていたよりずっと近くにあった広場には大きな噴水があって、それを囲むように観光客がカメラを向けたりおしゃべりを楽しんだりしていた。繊細な彫刻が施された噴水とパレードのように噴き出す水は一種のアートのようで、観光地のひとつになっているのも納得の美しさだった。
 近くのベンチに腰を下ろしてその人だかりを眺めていると、視界の端からランチボックスが差し出される。
「はい。マスタード平気だった?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
 ランチボックスを受け取ってマスクを顎までずらす。腫れは内側だけで外からはほとんど目立たないし、色もそんなに酷くない。けどクロロさん曰く色はこれから変わる可能性が高いとのことで、念のためにマスクをつけていた。一緒にいるクロロさんが周りからDV男だとか思われてしまうようなことがあったら流石に申し訳なさすぎる。
 痛みも随分マシになったけど、まだ大きく口を開くと地味に痛い。クロロさんよりだいぶ食べるペースが遅くて慌てていると、ゆっくり食べていいと気を遣われてしまった。ホットドッグを頬張るクロロさんがなんだか新鮮で、少しずつ咀嚼しながらじっとその様子を見つめる。
「……なにか付いてる?」
「いえ。クロロさんもこういうファストフードみたいなもの食べるんですね」
「特にこだわりはないかな。なまえさんは?」
「私も特に。大抵はなんでもおいしく食べられます」
 そうは言っても、久しぶりにご飯をおいしいと思いながら食べるようになったのはこの旅を始めてからだ。それまではほとんどがただ動くためのエネルギーの補給でしかなかったし、食べ物がうまく飲み込めなくてできるだけ食べやすいものを選んでいたような気がする。流石にエピソードとしては重すぎて話せないけど。代わりに思い浮かんだことを口にする。
「でも、一人じゃない方がおいしいっていうのは最近気付きました」
 へらりと笑った頬が引き攣るように痛んですぐに顔を顰めた。気を抜くとこれだ。眉を寄せてじっと痛みに耐えている間、クロロさんは珍しく呆けているようにも見えた。考えごとを邪魔するつもりはないし、とホットドッグに意識を向ける。
 クロロさんと過ごす時間の中で多くを占める沈黙も間も居心地が良く感じるのは、初めてクロロさんと会ったときから変わらないもののうちのひとつだった。
 クロロさんに出会って旅を始めてからまだそんなに経っていないのに、一人じゃないという安心感から来るものなのか、隣にいるだけで不思議なくらい落ち着く。午後のやわらかい日差しと広場の緩やかな喧騒を心地いいと感じるくらいには。
 この広場の周りに高い建物があまりないのは、日が差すように計算されてのことなのだろうか。その覚えのあるあたたかい日差しと穏やかな気候は、故郷の春を思い出させた。
 どの季節よりもいちばん緑が鮮やかで、土のにおいと太陽のにおいが混ぜこぜになる。山の陰りに残っていた雪が溶けて、小川のように坂の下に流れていく一筋の水をどこまでも追いかけた。どこからか飛んできた桜の花びらが地面に薄く散らばって、味気ない土道に彩りができる。家の前に並んだプランターに小さなイチゴがなっていて、それを外の水道で軽く流して口に放っていた。売り物とは比べ物にならないほど酸っぱくて、それでも冬にほど近い、春のいちばん初めにしか食べられないその酸っぱいイチゴが好きだった。
「口、痛む?」
 駆け巡る記憶のままに思考を漂わせていると、横から顔を覗き込まれてハッとした。手が止まったことを気にしてくれたらしい。旅を始めてから、今までなにも考えることができなくなっていた分を取り戻すかのように、ときどき自分でも気付かないうちに物思いに耽るようになっていた。すべてを見透かされてしまいそうなクロロさんの目からそっと視線を外す。
「いえ、あったかくて。ついぼーっとしてました」
 残っていたひと口ぶんのホットドッグを口に放る。クロロさんは特になにも言わなかったけど、勝手に気まずくなって誤魔化すように人だかりができている噴水の一角を指差した。
「あそこだけずっと人が集まってますけど、なにかあるんですか?」
「噴水の底にグラスがあるんだ。水面から落としたコインがグラスに入れば幸運が訪れるっていう、言わばチャレンジスポットかな」
「よくあるやつですか」
「よくあるやつだね。やる?」
「……せっかくだし、運試しでもしましょうか」
 腕まくりをしながら挑戦的に口の端を持ち上げてやる気を見せると、クロロさんはなぜかおかしそうに笑いながら手に持った紙ナプキンを私に伸ばした。
「決まらないな」
 そのまま口元を拭われて目を瞬かせる。離れたナプキンにはケチャップがついていて、じわじわと頬が熱を帯びた。いい大人が子どもみたいな真似して、恥ずかしいにもほどがある。小さくお礼を伝えてマスクを目の下まで引き上げる。熱がこもって鬱陶しいけど、赤くなった顔を隠すのにはちょうどよかった。


 噴き出した水が張った水面に落ちる音が、ひたすらに激しいのになぜか心地いい。人の声をかき消さんばかりの水の音を耳にしながら、人だかりの外側から覗き込むように背伸びをする。そんなに高くない身長も相まって、二重にも三重にも重なった人の背中しか見えなかった。
「見える?」
「いえ……クロロさんは?」
「こっち」
 不意に取られた腕を引かれるままに足を進める。人の隙間を縫って最前列まで出たクロロさんは、埋もれる私を引っこ抜くようにして私を前に立たせた。
「抜かしちゃっていいんですか?」
「ほとんどギャラリーだよ。鞄だけスられないように気をつけて。こういうところはその手の人間も集まりやすいから」
「えっ」
「不安なら持ってようか?」
「……お願いします」
 肩にかけていた鞄をクロロさんに預けると同時に水面を覗いていた人が悔しそうな顔でその場を退いて、クロロさんにそっと背中を押される。本当に抜かしていないのかと順番ばかり気にする私を他所に、ギャラリーは新たな挑戦者を迎えるように高らかな口笛を鳴らした。ぱらぱらと振ってくる拍手の音に目を瞬かせる私を見て、クロロさんは口の端を緩く上げる。
「ね」
「……はい」
 クロロさんに預けていた財布からコインを二枚取り出す。水面を覗き込むと、思っていたより深いところに口の細いワイングラスが置かれていた。その中にはいくつかのコインが沈んでいたものの、周りに散らばるコインの数とは比べ物にならないほど少ない。
「絶対入んない……」
「さっきまであんなに威勢がよかったのに」
 横から飛んできたクロロさんの茶々にうっと眉を寄せる。確かにそうなんだけど。かといってここまで来てやっぱりやめるとか、そればかりは絶対ない。よし、と意気込んでコインを指で挟み、再び噴水を覗き込む。ゆらゆらと揺れ続ける水面が底に沈むグラスの場所を曖昧にする。
 道筋なんて読めるはずもない。言った通りただの運試しだとグラスのほとんど真上で離したコインが、円を描くように明後日の方向に進んでは折れてを繰り返しながら、グラスの縁にぶつかってそのまま噴水の底に落ちた。
「うわ、やっぱ無理だった。でもちょっと悔しい……」
「もう一回やったら?」
「こういうのは一回きりだからいいんですよ。じゃ、次はクロロさん」
「オレも?」
「もちろん!」
 差し出したもう一枚のコインを受け取ったクロロさんが、噴水のふちに手を掛ける。中心の噴水から噴き出す水が激しく流れ込んで、揺らぐ水面にクロロさんの顔が映ってはぼやけてを繰り返していた。
 クロロさんの手から離れたコインが、何度か水の中を折り返しながら底に向かって泳いでいく。数秒もしないうちに、吸い込まれるように真っ直ぐグラスの底にコインが沈んだ。
「えっ、入った! 入りましたよ! すごい!」
 わっと上がる歓声に巻き込まれるままにクロロさんを見上げた。止まない拍手に釣られて取り囲む人の層が厚くなっていく様子を眺めながら、あっさりと「意外と簡単に入るんだね」と言ってのけたクロロさんに微妙な顔を返す。盛大に的を外した人の前でなんてことを言うんだ。クロロさんは「冗談だよ」と笑うと、人垣に割り入ったときと同じように私の腕を引いて群衆から抜けた。
 知らない男性の「いい旅を!」という明るい声に背中を押されながら、変わらず穏やかな陽が注がれる広場を抜ける。深く考えていなかったけど、今から携帯ショップに向かえば案内された受け取り可能時間にちょうどよさそうだ。
「幸運、訪れますかね」
「どうかな。迷信だしね」
 私の歩幅に合わせて歩きながらそう言ったクロロさんの口調が他人事のようで、それをなんとなく不思議に思う。思っていたよりずっと現実的らしい。
「意外と夢がないなぁ……それに、たかが迷信、されど迷信ですよ」
 遠くを見ていたクロロさんの視線が私に降りて、その目がぱちりと瞬く。
「……え、なんか変なこと言いました?」
「いや。そういうポジティブな考え方、自分にも当てはめたらいいのにと思って」
「それができたら苦労してないですよ」
「それもそうか」
 緩やかに笑ったクロロさんに釣られて、同じように頬を緩めた。そうして十分もしないうちに着いた数時間ぶりのショップはさっきよりも人がまばらで、近くにいた店員さんに声をかけるとすぐにカウンターに案内された。外で待ってる、と指で合図をしたクロロさんにひとつ頷いてカウンターに着くと、選んだ携帯と古い携帯が並んで目の前に差し出される。
「説明は以上になります。古いものはどうされますか?」
「できれば処分をお願いしたいです」
「かしこまりました。それでは処分品の預かり証明にサインを」
 こんなにしっかりしたショップもなかなか珍しい。故郷を出てすぐの頃は書き慣れなかった公用語のサインも、知らず知らずのうちにすっかり書き慣れてしまった。適当に流し書きして書類とペンを返す。確認した店員さんは晴れやかな笑顔で「ありがとうございました」と言いながら深く頭を下げた。それに軽く会釈を返して、ショップの外で待つクロロさんのもとへ向かう。人の視線を集めがちなクロロさんの横に並ぶのも、初めに比べてずいぶん慣れたような気がする。
「お待たせしました」
 受け取ったばかりのショップの袋から取り出した携帯をお好きなように、とクロロさんに差し出す。それを受け取ったクロロさんは携帯を弄りながら「あの携帯はもういいの?」と私を伺うように見た。
「はい。どうせほとんど仕事関係の人ばかりだったので」
「故郷の知り合いは?」
「あの携帯は家を出てから契約したものなんです。だからどうでもいい人ばっかり」
 すぐに返された携帯の一番上に登録された「クロロ」の名前がなんだかおかしくて、名前の後ろに「さん」を足しながら思わずふっと笑う。気づいたクロロさんが「どうかした?」と不思議そうな顔を浮かべた。
「いえ、ずいぶんさっぱりしたなと」
「やっぱり寂しい?」
 クロロさんの言葉に首を振る。確かに、心残りが全くないわけじゃない。それでも寂しいかと言われるとまたちょっと違う。どちらかというと、クロロさんと旅をすると決めたあの時に近い感情を抱いていた。また一歩だけ、前に進めたような。
「自分でも驚くほど、全く寂しくないです。でも、」
 でも、そう思えるのは、ひとりじゃないからなんです。言葉にする前になんとなく恥ずかしさが勝って、寸でのところで吐いた息だけが空気に溶ける。
 背中を押してくれる人はもういないからと、自分の思うままに生きられるようになりたいと思って始めた旅なのに。結局誰かのやさしさに甘えて、それでも少しずつ変われている気がする。間違いなく、良い方に。
 変なところで止まった言葉の続きを待つクロロさんは、黙ったまま私を静かに見下ろしていた。自分の意識を取り戻すようにゆっくりと瞬きをして、その遥かな双眸を見つめ返す。
「クロロさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
 飲み込んだ言葉の代わりに、もう何度も口にした、それでも伝えきれない言葉をまた伝えた。脈絡もない言葉を静かに聞いてくれたクロロさんは、いつものように深くは聞かずに「どういたしまして?」と返してくれる。
 それに私がどれだけ助けられているのか、クロロさんはきっと知らない。
「記念においしいものでも食べて帰りましょうか」
「いいね。でも何の記念?」
「もちろん、携帯のリニューアル記念です」
「もちろんなのか」
「もちろんなんです」
 音の違う緩やかな笑い声が重なる。こんなふうに笑える日がくるなんて、少し前の自分からは想像もできなかった。毎日が夢の中みたいで、眠るのが怖いくらい。だからこそ、いつかは必ず訪れる別れを考えて、ほんの少しだけ泣きたくなった。


prev | top | next