- ナノ -



ふたりじめ



 海に向かう観光列車は一日に数回しか走っていないと聞いたのに、通路を挟んで二席ずつ配置されている車内はがらんとしていた。朝一番の便だからか、後ろの方に年配の夫婦が座っているだけで他の乗客は見当たらない。ここ以外の他の車両もこうなのだろうか。もしかしたら途中の停車駅で乗り込む人もいるのかもしれない。長旅が前提だからか座席がやわらかくて腰にやさしいのは嬉しい誤算だった。
 出発のベルがホームで鳴り響いて、列車がゆっくりと動き出す。少しずつ離れていく街を辿りながら、しばらくは訪れることがない街の景色を目に焼き付けた。本当にいい街だった。いつかここに住みたいと思うくらいには。
「あれ、昨日の?」
 近くで聞こえた声に車内を振り返る。乗車券を手にしたまま目を丸くして驚いている男は、昨日からやけに縁のある人だった。
「すごい偶然ですね」
「ええ。こんなこともあるんですね」
 その人は乗車券と座席の位置を確認して、通路を挟んだ反対側の席に座る。昨日ホテルで会ったときも思ったけど、ずいぶん荷物が少ない。仕事と旅行半々って言ってたっけ。そこまで考えてあまり人のことを詮索するのは良くないかと思い直し、再び窓の外に視線を向けた。
「いい街でしたね」
 しばらくの間流れる景色を眺めていると、突然声をかけられて目を瞬かせる。話しかけてきたその人は私の様子を見て、「すみません、やっぱりお喋りはあまりお好きじゃないですか?」と困ったように笑っていた。
「いえ、そんなことは……」
「よかった。降りるまで、良かったら話し相手になってくれませんか?」
 海が見えるまでまだ一時間以上かかる。寝てもよかったけど、こうやって誘われるとなんだか断りづらい。頷いた私に、その人は安心したように笑った。
「仕事柄色んなところに行くんですけど、やっぱり時々誰かと話したい時もあって。付き合わせちゃってすみません」
「いえ、ちょっとわかります。お仕事はなにを?」
「ブローカーです。色んな街をふらっと歩いて、いい美術品とか骨董品を買い付けて回ってるんです」
「ああ、それで」
 昨日のエレベーターの中での会話を思い出す。仕事と旅行半分ずつってそういうことか。確かに自営業やフリーで働く人ならよく聞く話だった。
「あなたは?」
「私は……ちょっと疲れたので、人生の休憩に出てるところです」
「いいですね。大事な時間だ」
 半分冗談まじりに言ったのに、予想に反して穏やかに返されて少し驚く。相槌が上手な人だ。変に深く詮索もしないし、人との距離感を掴むのも上手い。気を抜いたら一瞬で持っていかれそうだ。
「どこか行きたい場所が?」
「いえ、適当にふらっとしてみようと思って。ずっと同じところに留まっていることが多かったので……」
「仕事をしてるとそうなりますよね」
「はい。でも、本当は……ずっと、いろんなところを旅してみたかったんです」
 結局故郷を出てからも、自由だと感じたことは一度もなかった。旅だけじゃない。本当はもっと、日常の些細なことだって、思うままに過ごすことができるならなんだってよかった。金曜日の夜にお酒を飲みながらテレビを見て笑ったり、休日に友人と出かけたり、少しだけ早起きして丁寧に朝ごはんをつくったり。実際は平日と休日どころか朝と夜の境目もないような生活で、生きているのか死んでいるのかもわからなくなっていた。
「……もし良かったら、しばらく一緒に回りませんか?」
「え?」
 突拍子もない誘いに驚いてその人を見る。表情はやわらかいけれど、心の奥が読めない。黒い瞳と視線が絡んで、その底の深さに思わず息を呑んだ。黙ったままでいる私に、その人は言葉を続ける。
「オレも目的地っていう目的地はないし、昨日の街と違って結構治安が悪い街も多いし。女性ひとりだとかなり……すみません、おせっかいですよね」
「いえ、そんな。でも、やっぱりさすがにご迷惑なので」
「断る理由がそれだけなら、ぜひ付き合わせてください。この仕事をしてると人と過ごす時間が恋しくなるんです」
 この人が言うように、昨日訪れたあの街ほど落ち着いた街はそうそうない。自分がどちらかというと世間知らずだという自覚もあった。現にあの街でも、人の厚意のおかげで無事に一晩を過ごせたようなものだ。旅に慣れている人が一緒にいてくれるのはかなり心強い。
「……それじゃあ、よろしくお願いします」
 悩みに悩んで、恐る恐る頷く。今まで経験していないことをすべて経験するような気持ちで旅を始めたからには、これだって大切な一歩かもしれない。一世一代の決意とまでに体を固くさせて答えたのに、その人はこちらこそ、と軽やかに笑った。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。今さらだけど、クロロっていいます」
「あ、確かに……なまえです。……あの、敬語、外していいですよ。気遣わないでください」
「そう? じゃあお言葉に甘えて。なまえさんも気楽にしてよ」
「いえ、私は……なんとなくこの方がしっくりくるので」
 人懐っこいひとだな。綺麗な顔立ちでわかりづらいけど恐らくクロロさんの方が歳上だろうし、流石にいきなり砕けて話すのはハードルが高い。クロロさんはさして気にしていないのか、そう、と軽く流した。
「それじゃあ早速、まずはどこに行きたかったのか聞いてもいいかな?」
 組んだ足の上に手を乗せたクロロさんが伺うように私を見る。その格好がものすごく型にはまっていて、そこらのモデルよりよっぽどらしく見えた。
「私も、目的地っていう目的地は決めてないんです。でもとりあえず、海を見たいなって」
「いいね。行こう」
 クロロさんは間髪入れずに頷いた。ほんとにいいのか。私の意見をあっさりと通したクロロさんに呆ける。ここまで緩いとは思ってなかった。少しの不安と、それを上回る高揚感。まだ見ぬ景色や未知の体験への期待が自分の中で膨らみ始めていた。
 目的地がないもの同士、寄り道と回り道を繰り返しながらまだ決めていないどこかへ向かっていこう。今しか出会えないものを求めて。



 海沿いを走り続けた電車を降りる。凝り固まった肩や腰をうんと伸ばすと、軽く骨が鳴る音がした。眼下に広がる街並みは白い建物と赤い煉瓦の道を基調に作られて統一感がある。少しリゾートっぽい雰囲気を醸していた。
 駅が少し高いところにあったおかげか、街の奥に焦がれていた水平線が見えた。限りなく広がるその水平線を太陽の光がきらきらと縁どっていて胸が高鳴る。
「目を輝かせてるところ悪いけど、まずは宿を探そうか」
 横から降ってきた声にハッとして顔を上げると、私の顔を覗き込んでいたクロロさんが笑いを含ませた声で「せっかくだから海の近くにしようか」と言った。からかわれている。それでも提案したのはクロロさんだ。せっかくなら、と素直に頷くと、普通に笑われてしまった。
 海にほど近いペンションをあたってみると、平日だったおかげか一軒目にして二人分の空き部屋があると案内してくれた。
 少ない荷物を解きもしないで、履いていたシューズをサンダルに履き替える。持ってきた靴はこの二足だけだったけど、早速役に立つとは思わなかった。向かいのクロロさんの部屋のドアを軽く叩くと、少しして開いたドアから顔を覗かせたクロロさんが「早すぎ」と言いながら笑った。確かに、浮かれている自覚はある。
 もう既に潮の香りがしていたけれど、ペンションからビーチまでは歩いて十分もしないうちに辿り着いた。サンダルを脱いで素足で砂に触れる。水を含んでいない砂がさらさらと指の隙間を抜けて、潮風に乗ってあたりに散らばっていく。顔を上げると遠くに見えていたあの水平線がすぐ目の前にあった。
「海だ……」
「入る?」
 首を傾けたクロロさんにいえ、と首を振る。足くらいならつけてもよかったけど、タオルを持ってきていない。せっかくだからと砂浜を少し歩くことにした。裸足の足跡をつけて歩く私の横に、クロロさんの靴の跡も残っていく。クロロさんの足跡と大きさが全然違って面白い。歩いても歩いても折りたたまれて迫る波は綺麗で、いくらでも眺めていられそうだった。
「海ってどこもこう綺麗なんですか?」
「ここはかなり綺麗な方じゃないかな? 観光地だからかもしれないけど、他はもっとゴミとか浮いてるし水の色も濁ってる」
「へ、へえ……」
 当たりでよかった。故郷の海は幼い頃に一度だけ行ったことがあるけど、海が荒れていて黒い波が打ちつけていたことしか記憶にない。
 砂浜をゆったりとした足取りで歩きながら、どこまでも続く海を眺める。やっぱり寒いからか、泳いでいる人はどこにもいない。その代わりビーチにはぽつぽつと人がいて、時折しゃがみながらなにかを拾う仕草をしていた。
「あれは……?」
「ビーチコーミングじゃないかな」
「ビーチコーミング?」
「流れ着いたガラス片とか貝殻とか、そういうのを拾ってるんだよ。シーグラスって聞いたことない?」
「ああ! 聞いたことあります」
 クロロさんは本当に物知りだ。また会話が途切れて、私たちの間には波の音と街から聞こえる騒めきだけが流れる。それでも沈黙が苦じゃない。この人の持つ不思議な雰囲気がそうさせていた。穏やかな自然の音に耳を傾けていると、沈黙を破るように自分のお腹が小さく音を立てる。
「…………」
「お昼でも食べに行こうか」
「はい……」
 海を目にして考える前に飛び出してきたけど、そういえばお昼の時間は過ぎていた。飽きないな、と呟いたクロロさんの言葉が誉めているのかそうじゃないのかわからなかったから、とりあえずなにも聞かなかったことにした。


 * * *


 まだ薄暗い部屋を、音を立てないようにそっと抜け出す。冷え込んだ空気が肌を撫でて、もう一枚羽織ってくればよかったとほんの少し後悔した。
 昨日の昼の様子とはうって変わって、人工的な音は揃って気配を潜めている。唯一、街の外れにあるハイウェイから時折エンジンが唸る音が聞こえては離れてを繰り返していた。その音の合間に聞こえる波の音を辿って、誰もいない街をゆっくりと歩く。
 やわらかい砂の感覚が足の裏に伝わる。脱いだサンダルを持って歩くのが鬱陶しくて、適当に砂の上に放った。三秒ごとに押し寄せる波が砂のついた足を洗い流していく。潮風に飛ばされた砂が隠したのか、昨日の昼間にクロロさんと歩いた足跡はもうどこにあるのかもわからなかった。
 一昨日に出した退職届は、今日には届いているだろうか。もしかしたら昨日のうちに届いているかもしれない。これでいいんだという気持ちとついにやってしまったという気持ちがせめぎ合って、胸の奥に錘をぶら下げていた。後悔はしてない。してないけど、私と同じような状況のまま今日も生きている同僚たちへの罪悪感が胸を突いて痛い。
 スカートの裾をたくし上げて、足首まで押し寄せる波に逆らいながら歩き続ける。前に踏み出した足と波がぶつかって、水滴が大きく跳ねた。
 いつの間にか空が白んできていて、もう朝が近いんだと悟った。そこでようやく、私以外にビーチに伸びる影があることに気づいた。その影を辿るように振り返る。
「物足りなかった?」
 そう言ったクロロさんの手には、ビーチに放っていたはずの私のサンダルがあった。いつから見られていたんだろう。
 ようやく足を止めた私に、クロロさんは素足になってボトムスの裾を捲った。自分の靴と私のサンダルを砂の上に並べて、そのまま押し寄せる波に足をつける。波に逆らって私のところまできたクロロさんに、ゆっくりと首を振った。
「いえ、ただ、夜の海も見てみたいなって思っただけなんです。ちょっと寝過ごしちゃいましたけど」
「そう。どうだった?」
「なんとなくですけど、昼の海より夜の海の方が好きかもしれません」
 街が静かなせいか、夜のほうが波の音がよく聴こえる。目の前に押し寄せる波だけじゃなくて、ビーチの端の波の音さえも。時間差で打ちつけた波が耳にこだまして、自分の気持ちを整理するにはちょうどいいんじゃないかと思っていた。
「クロロさんはどうして、っ!」
 言いかけたところで急に腰を掴まれて、ぶわりと身体が宙に浮く。見上げた位置にあったはずのクロロさんの顔が自分の真下にあった。驚きに声を上げる間もなく、ふらつく体を支えようと慌ててその腕に捕まった瞬間、一際大きな波が宙に浮いた私の爪先を掠めていった。クロロさんの膝から下を飲み込んで。
 クロロさんは何事もなかったかのように引いていく波をかき分けながら歩くと、波の届かないところに私を下ろした。水を吸ってまとわりつく砂の感触を覚えながら、クロロさんを血の気が引いた顔で見上げる。膝より下で捲っていたクロロさんの裾は、海水を浴びて色を変えていた。
「……あ、あの、すみません……」
「いや、オレが勝手にやったことだから。潮が満ちてきはじめたみたいだし、もう戻ろうか」
「はい、あの、タオル! すぐ持ってきます!」
「いいよ。ゆっくり行こう」
 転びそうだし、と付け加えられて少しショックを受ける。そこまで鈍臭くはない、と思いたい。クロロさんに比べたらそうだろうけど。あの波だって、私が被っていたらそのままのまれて転がっていただろうし。項垂れる私の肩をクロロさんの手が軽く叩く。
「ほら、朝焼け」
 顔を上げて振り返る。明るんだ空に、夜を割るような橙色の太陽が海の表面を波ごとに照らしていた。水平線の向こうから少しずつ顔を出す太陽が、こんなに離れているのに眩しい。自然が作り上げる色はどうしてこんなに幻想的なんだろう。夜を連れてくる夕陽とは少し違う。なにひとつ遮るものがないこの朝焼けは、今だけは私たちのものだった。


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