- ナノ -



つれづれ



「魂を映す宝石?」
「正確には指輪だな」
 殺風景な部屋は少し前まで人がいたとは思えないほど色がない。棚には薄らと埃が積もっていたがテーブルはほとんど新品と変わらないほど綺麗なままで、部屋の端に寄せられたベッドの崩れたシーツだけが人間の痕跡を残していた。
 ようやく見つけた指輪の持ち主は、すでにそれを手放していた。海を渡った指輪を追いかけてきたというのに、目当てのそれは部屋のどこにもない。面倒なことになった、と無意識に溢れたため息が静かな部屋に消える。
「で、誰を追えばいいの?」
 話が早い。シャルナークの後ろからキーボードを叩く音が聞こえる。部屋の隅に寄せられたゴミ箱から一枚のハガキを拾い上げる。賃貸マンションの更新の引き落としを知らせるハガキは、不用心にも名前や住所がそのまま記載されていた。
「みょうじなまえ。ヨークシンの三番街にあるアムールマンション、五◯二号室だ」
「……ああ、これか。うわ、ほんとに惜しいね。そこ出たの四時間前っぽいよ」
 シャルナークの言葉に再び深いため息を吐いてハガキをゴミ箱に戻す。笑いを堪えたような声で「ごめんって」と慰めにもならない言葉を返された。玄関の横の棚に置かれた写真立てが伏せられていて、なんとなく手を伸ばす。まだ幼いひとりの子どもと年配の女が、木造の古くさい部屋の隅であどけなく笑っている写真だった。
「飛行船は取ってないね、じゃあ陸路かなあ……まだ出入国記録も更新されてないし、地道に街の防犯カメラでも追わないとわからないかも。骨が折れそう」
「頼むよ。どうしても欲しいんだ」
「はぁ……まあいいけどさ。とりあえず駅が先かな。分かったらまた連絡する」


 * * *


 凄まじい速さで駆け抜けていく景色をただ眺める。行き先も決めないまま乗り込んだ列車はひたすら海に向かって走り続けていたけれど、そのだいぶ手前で終点の小さな街に着いた。
 日が変わってまだ一時間しか経っていない。真夜中でも喧騒が止まないヨークシンと違って、取り残されたように静かだ。駅の案内掲示板の前で夜をどう過ごそうかと悩んでいたところで、駅員室から顔を覗かせた年配の駅員さんが声をかけてくれた。
「まだ寒いだろう、お茶でも淹れようか。おいで」
 案内されるがままに入った部屋は、こぢんまりとした一室だった。周りの棚には書類やファイルが積み上がっていて、それのせいで部屋が狭く感じるんじゃないかと思うほど。それを避けるように真ん中にテーブルとストーブが置かれていて、壁際に寄せられたソファにそっと腰を落ち着けると、目の前にマグカップが差し出された。少し酸味のある紅茶のにおい。紅茶なんていつぶりだろう。ここ数年はずっとコーヒーやエナジードリンクばかりだった。やさしい香りに肩の力が抜ける。
「ありがとうございます」
「いいんだよ。酷い顔だ、少しでも寝ていきなさい」
 それから駅員さんはなにも聞かずに、眠気がくるまでぽつりぽつりと話し相手をしてくれた。
 海に行きたいと話すと、そこまでの行き方を丁寧に教えてくれた。どうやら海に向かうには観光列車に乗る必要があるらしい。観光列車が出ている駅は街の外れにあるらしく、そう遠くないから歩いていけるよと目尻の皺を濃くして柔らかく笑った。
 ふと気がつくと、いつの間に寝てしまっていたのか、ソファに体を倒していた。壁にかかった時計は朝の九時を指している。こんなに穏やかな気持ちで迎えた朝は久しぶりだった。かけられていたブランケットを丁寧に畳んでソファの上に置く。駅員室を出ると、改札の前のカウンターに出ていた駅員さんが私に気づいておはようと声をかけてくれた。
「すみません、なにからなにまで」
「いいよいいよ。まだ若いんだから、溜め込みすぎないで気楽に生きるんだよ」
 気持ちばかりのお礼を渡そうとしたけど頑なに断られてしまって、いつかまたこの街に来て元気な顔を見せると約束をした。ここもいい街だよ、とおすすめのお店をいくつか教えてくれた人のいい車掌さんにお礼を言う。どうせなにも決まってない旅だ。一晩だけこの街に寄り道することにした。
 ダメもとで駅のそばのホテルの空きを確認したのに、部屋はかなり余裕があるらしく、一番高い階の眺めのいい部屋を取ってくれた。予約もなしに一晩泊まりたいと言ういかにも怪しい女に対して、冷たい態度は微塵も見せない。
「観光かい?」
「いえ、せっかくなのでちょっと寄り道しようと思って……車掌さんがいい街だって教えてくれたんです」
「そうかい! メインストリートの中央にある、リャードって店がうまいんだよ。このあたりはそこそこ海が近いから海産物の料理屋が多くてね。夜は酒も出してるから、嫌いじゃなかったら寄ってみて」
「はい、ありがとうございます」
 そういえばお酒ももう随分口にしてない。たまにはいいかも。部屋番号が刻印されたアクリルプレート付きの鍵を受け取ってエレベーターに向かう。部屋に着いたらまずはシャワーを浴びよう。それから気持ちの整理をつけて、この先どうしたいかを考える。電源を落としたままの携帯は、まだ見る勇気はない。エレベーターに乗り込んで十一階を押す。
「すみません、乗ります」
 声に気づいて慌てて開ボタンを押す。閉じかけていたドアが歪な動きと共に再び開いて、すぐに乗り込んできた男の人がありがとう、と言いながら九階のボタンを押した。ドアが閉じて、エレベーターがゆっくりと上がっていく。
「旅行ですか?」
 黒髪を揺らしながら僅かに首を傾けたその人に顔を向ける。思わず目が惹かれるような綺麗な顔立ちをしていた。こんな人も普通にいるものなんだな。女がひとりで荷物を抱えていると結構聞かれるものなのか、さっきホテルの受付の女性に聞かれたばかりのことを訊ねられて少し笑う。
「そんな感じです。そちらは?」
「オレも似たようなものです、といっても半分は仕事なんですけどね」
 エレベーターが止まる。九階のランプが付いて、ドアがゆっくりと開いた。
「それじゃあ、良い旅を」
「はい。あなたも」
 九階で降りていったその人の背中を見送って、エレベーターの扉が閉じる。その寸前に振り返ったその人の夜の空みたいな目の色が、やけに印象に残った。


 * * *


 日が傾いた十九時。街のお店が人を誘うように煌びやかに輝き始める。その一角、料理がおいしいと勧めてもらったリャードという店に立ち寄り、カウンター席でお酒と料理を存分に楽しんでいた。あまりおしゃべりではない様子の店主の雰囲気も心地いい。まだそんなに飲んでないはずなのに、久しぶりのお酒とおいしいご飯に頬のてっぺんが熱を持ち始めていた。
「あれ、また会いましたね」
 声をかけられると同時に肩を叩かれて振り返る。黒髪の似合うその人の綺麗な顔立ちには覚えがあった。日中にホテルで会った人だ。その人はにこやかな表情のまま「受付の方におすすめだって教えてもらったんです」と教えてくれた。
「あぁ、私もなんです。おすすめ通りほんとに美味しいですよ」
「へえ。せっかくなのでご一緒しても?」
「はい。……ただ、あまり話は上手くないんですけど」
「はは、オレもです。せっかくなので美味しいご飯を楽しみましょうか」
 カウンターの隣に腰掛けたその人が私のグラスを覗き込んで「せっかくだからオレも飲もうかな」とメニューを吟味している。橙色の灯りに照らされた横顔がありえないくらい綺麗だ。不思議な出会いもあるものだ。ずっとあのまま過ごしていたら、きっとなにも変わらない毎日を過ごしていたのかな。思考が遠くに行きかけたところで、私に向けられた声によって引き戻される。
「この街にはあとどれくらいいる予定なんですか?」
「今晩だけの予定です。でも、結構気に入っちゃって。どうしようかな」
「いい街ですよね」
「はい、みんな穏やかで……こんな街に生まれたかったな」
 グラスの縁に反射している光が眩しくて、そっと遠ざける。ちょうど中身がなくなっていたせいか、お代わりと受け取った店主が「お次は?」と言いながらグラスを引き取ってくれた。少し悩んで、ファジーネーブルを頼む。
「生まれた場所はどんなところだったんですか?」
「うーん。どんなところ……島国だったんですけど、その中でもそこそこ田舎のほうで。小さな村のコミュニティがすごく……言葉を選ばなくていいなら、鬱陶しかったなぁ」
「鬱陶しい?」
 不思議そうな声でそう言った男にはい、と頷く。そこで店主がオレンジの差し込まれたグラスを目の前に置いて、飲みすぎないようにと一杯の水も出してくれた。お礼を伝えて水を一口飲んでからお酒を喉に流すと、爽やかなオレンジの甘みが広がる。
「お互いがお互いを監視しあってるんです。あそこの家がなにしたとか、あの家の息子がどうとか。嫌でしょ?」
「確かに。でもあまり聞いたことないな」
「私の故郷じゃ他の村でもたぶんこんな感じだと思います。息苦しいったらないですよ」
 きっと世界のどこにでもああいう場所はあるけど、外に出てみると全然違う。自分以外の誰も信じられなかったヨークシンでさえ、あの村よりはずっとマシだった。半分に満たないグラスを傾けて息を吐く。久しぶりだからか少しペースが早すぎた。ぐだぐだとつまらない話をしすぎてしまった。
「すみません、暗い話ばっかり愚痴っちゃって。喋りすぎましたね、酔いが回ってきたみたいで」
 熱を帯びる頬を冷ますようにぱたぱたと手のひらで扇ぐ。男の人は首を振って「知らない話が聞けて楽しかったです」とフォローを混ぜて笑ってくれた。
「じゃあそろそろ戻りましょうか」
 あ、そうか、同じホテルなんだった。やっぱりずいぶんお酒が回っている。頷いて背の高いカウンターチェアから降りようとすると、すごく自然な動作で手を差し出された。こういうのも、故郷を出てからしばらくは慣れなかったな。お礼を言って、差し出された手を取って降りる。
 ホテルまではほとんど会話はなかった。不思議と気まずくはなくて、これもたぶんお酒のおかげかな、と浮つく頭で考える。故郷を出てから友だちとも疎遠になって、こうして人とラフに話せたのも久しぶりだったから。乗り込んだエレベーターが九階で止まる。男の人は降りる前に振り返って、綺麗な口元をやわらげて笑った。
「部屋まで行けますか?」
「はい、大丈夫です。おかげで楽しい夜でした、ありがとう」
「こちらこそ。それじゃあ改めて、いい旅を」
「ふふ、はい、あなたも」
 朝のやりとりを真似して笑い合う。エレベーターの扉が閉まって、その姿が完全に見えなくなった。楽しい時間だったせいか、ひとりになった途端に浮かぶ寂しさが切ない。旅の始まりにしては悪くない出会いだった。名前くらい、聞いておけばよかったな。


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