- ナノ -



ここではないどこかへ



 祖母の訃報を知らせたのは、前触れもなく家に届いたひとつの小包だった。味気ないクラフト紙で包まれたそれが、折り合いの悪かった両親からの最後の施しなんだとすぐにわかった。
 結局、一度も顔を出せなかった。三ヶ月前のままのカレンダーを視界から外す。いつぶりかも思い出せないほど久しぶりの休日にこの荷物を受け取れたのは、本当にただの偶然だった。
 麻の紐を解いて包みを開ける。そこには手のひらに収まる小さな箱と、一枚のメッセージカードがあった。小さな箱は周りが黒のベロアの生地で覆われていて、私には見合わない上品さを醸していた。前に一度見たことがある。おばあちゃんが大事にしていた指輪の箱だ。
 金属の軸が古くなっていたようで、そっと開けても微かに軋むような音がする。プラチナの軸に宝石がはめ込まれた指輪は、おばあちゃんがとても大切にしていたものだった。そっと箱から取り出して、蛍光灯の光を当ててみる。宝石の色を見てハッとした。おばあちゃんがこの指輪を持っていたときの、海のような深い青の気配が無くなっている。代わりに夕陽のように美しく輝く石がそこにはまっていた。折りたたまれたメッセージカードを開く。懐かしいおばあちゃんの字。白檀のにおいが薄らと香ったような気がした。

やっぱり自由の赤なのね
思うままに生きなさい

 せっかく家を出た先でも窮屈に暮らしていたことに、おばあちゃんは気づいていたのだろうか。殺風景な部屋はしんとしていて、自分の呼吸の音しか聞こえない。もう一度、メッセージカードに視線を落とす。少し丸くて、文字が右上がりになっていく癖は最後までそのままだったみたいだ。握力が弱っていたのか、文字の端が震えて歪んでいる。
 携帯が鳴った。この音を聞くと心臓が縮むように怯えるようになったのはいつからだろうか。ディスプレイに表示される上司の名前が流れては消えていく。一コール。終わってしまった。二コール。今出たらきっと遅いとどやされる。三コール。
 私の思うままに。
 衝動のままに立ち上がる。片手で抱えられるくらいの小さなボストンバッグに、最低限の衣類と財布を詰める。適当に便箋を用意して、震える字で殴るように字を並べた。封筒に入れて、退職届と書いた。破られてシュレッダーに入れられた五度目のそれは、今までで一番汚くて適当で、一番自分らしかった。携帯はまだ鳴り続けている。
 炎みたいに激しくはないけど、夕陽みたいに橙が混ざった穏やかな赤色をしているのね。そう言うおばあちゃんの膝の上に頭を預けて、うとうととしていたいつかの記憶。しわだらけの手が私の髪を梳くように撫でて、あの頃はあまり得意じゃなかった白檀のにおいが昼下がりの太陽のにおいと混ざって、私たちをやわらかく包んでいた。時間を重ねるたびに薄れていく思い出は、どれも手放したくないものばかりだった。だけど時間は止まってくれない。生きている限り。
 着信はいつの間にか止まっていた。そっと携帯を見る。届いていたメッセージはひたすらに私を責めるものだった。電源を落としてボストンバッグのポケットに突っ込む。
 臆病で意気地なしの私の背中を押してくれるのはいつもおばあちゃんだった。これからはもう、ひとりで踏み出さなくちゃいけない。寝るためだけに帰るこの家に愛着なんてひとつもなかった。荷物を抱えて夜が訪れたばかりの外に向かう。思うままに。ここではないどこかへ。


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