- ナノ -



彗星みたい


「それでさ、ゼロが……」
「またゼロくんの話? 他に友達いないの?」
「いるって。ゼロといる時間の方が多いんだから仕方ないだろ。それになまえが変な写真ばっかり送ってくるからゼロだって……」
「ちょっと! なんで勝手に見せるの! やめてって言ってんじゃん!」
「急に大きい声出すなよ……それにゼロにだけだし、」
「それでもだめ!」
 ヒロとのやりとりはほとんどが手紙やメールだったけど、声を忘れかけてしまう頃、本当に時々、ヒロから電話がかかってくることがあった。昔は他愛もない話も多かったけど、大人になるにつれてメールで済ませることが多くなっていった。だから、電話がかかってくるのは大事な話があるときだった。
「犯人、捕まったんだ」
 あの時も、挨拶もそこそこにそう言った。電話越しに聞こえる声は思ったよりも落ち着いていて、それどころか少しすっきりしたような声色をしていた。励ますのも喜ぶのもなんだか腑に落ちなくて、そっか、とだけ返した。ヒロはありがとうな、と溢すように言った。
 そんなことないのに。声が出ないと知った時も、ヒロが東京に行くと聞いた時も、私はなにひとつヒロのためにならなかった。東京でできた友達のおかげで声が戻ったと聞いたときも、喜んだのは嘘なんかじゃない。
 でも、本当は会ったこともないゼロくんが羨ましくて仕方がなかった。突然理不尽な出来事のせいで環境ががらりと変わったヒロに対して、なにも変わらない穏やかな日常を送り続ける自分。感じる必要のない罪悪感だとわかっていたけど、他人事になんて思えなかった。私はなにもできなかった。ゼロくんと違って。


 あれはいつ頃だっただろうか。お互い社会人になってからは特にメールでのやり取りばかりだったのに、その日は珍しく電話できないか、と聞かれた。その日の夜、着信を知らせる音に確認もしないで通話ボタンを押した。
「もしもし、ヒロ? 珍しいね」
「ああ、たまにはと思って」
 久しぶりに聞いたヒロの声はまた少し柔らかく、落ち着いた声色になっていた。長い時間がヒロに対する罪悪感を溶かしてくれたせいか、あの時感じたもどかしさはどこにもなかった。ほんの少しの沈黙。なにか話したいことがあるのだろうと思っていたけど、今日のヒロは話し出す様子がない。
「そういえばこの間メールで言ってたやつ、覚えてる?」
「新しい上司がくるって話?」
「そう! 先週から来てるんだけどもう本当最悪だった!」
 いつもはメールで話すような内容を直接話すのも案外悪くない。それでも、ヒロの声が段々暗くなっていくことに気づかないはずがなかった。
「……どうしたの? 体調悪い?」
「いや。……実はさ、今日は話しておきたいことがあって」
「電話したいっていうからなにかあるのかとは思ってたけど……なに?」
 一拍置いた後、小さく息を吐く音が聞こえる。重たい口調でゆっくりと話し始めた。なにかを覚悟するような声だった。
「しばらく忙しそうで……連絡できないかもしれない。時間が取れたら俺から連絡するから、しばらくなまえからも連絡しないでほしいんだ」
「え……しばらくってどれくらい?」
「わからない。何か月かもしれないし、何年かもしれない」
「なにそれ。海にでも出るの?」
「うーん、そういう感じ」
 誤魔化せているつもりなのだろうか。警察官になれたとあんなに喜んでいたのに。これだけの年月話していれば、探られたくない話なんだと嫌でも気づく。
「ゼロくんは?」
「え?」
「ゼロくんとは時々会えてるの?」
「うん。本当に時々だけど……」
「そっか」
 あの時の私のままだったら、きっとまたゼロくんを羨ましがっていた。
「よかった」
 お兄さんと離れ離れになって、自分を取り巻く環境が変わって、あの頃のヒロはどれだけ不安だっただろう。東京でヒロがひとりぼっちじゃなくて、時々でも会って話せる友達がいてよかった。今は心からそう思える。
「じゃあ、落ち着いたらまた連絡してね」
「わかった」
「絶対」
「……ああ、」
「またね」
「うん、おやすみ」
 電話が切れる。たったの十分にも満たない短い通話時間が画面に表示されていた。永遠の別れでもないのに、言葉にできない物悲しさを覚えるのはなぜなのだろう。


 * * *


 地元までは新幹線で一時間半、そこからまた数駅でたところに実家の最寄り駅があった。座りっぱなしで凝り固まった身体をうんと伸ばすと、背中からぱきりと軽い音がした。運動をしないせいか、最近は膝を曲げるだけでも骨が鳴る。キャリーケースを転がして駅を出たところで、ロータリーに見覚えのある車が停まっていた。近付いて運転席をのぞき込む。私に気付いた父親が少し皴の増えた顔を和らげて片手をあげた。後部座席にキャリーケースを押し込んで、そのまま自分も車に乗り込む。
「迎えに来てくれてありがとう」
「ああ。こっちの方が寒いか?」
「ちょっとだけね。向こうはまだ雪が降ってないし」
「そうか」
 おしゃべりなお母さんとは違って、お父さんは昔からあまり多くは喋らない人だった。お父さんの運転はブレーキが少し遅くて、赤信号のたびにドキッとする。そういえば降谷さんの運転はそんなことなかったな。迎えに来てもらっておいて人の運転にケチをつけるわけにもいかない。前を見ないように窓の外をぼうっと眺めた。見慣れていたはずの家までの道は、いつの間にか知らない建物ばかりになっていた。
「ただいま」
 玄関にキャリーケースを置いたまま廊下を抜け、少し低く感じるリビングのドアノブを回す。数年ぶりの実家に懐かしさを覚えながらも、見覚えのない家電や位置が変わった家具にどことなく寂しさを覚えた。
「おかえり、外寒かったでしょ?」
 キッチンから顔を出したお母さんがお父さんと同じことを言った。それに笑いをこらえながら同じようにちょっとだけと返す。
「あれ、荷物は?」
「タイヤ汚れてるから玄関に置いてる。布巾ある?」
「布巾? うーん……ああ、前に何かでもらった手拭いがあった気がする」
 洗面所に行って戻ってきたお母さんの手には袋の中に入ったままの白い手拭いがあった。
「え、新しいの開けちゃっていいの?」
「使ってないしいいよ」
 じゃあいいか。受け取った手拭いを軽く濡らして玄関の段差に腰かける。キャリーケースをひっくり返してタイヤを綺麗にしていると、今度はリビングから顔を覗かせたお母さんが「なまえ、あんたそろそろ部屋片づけてよ」と言った。
「ええ? なんで今更? 部屋狭いから置く場所ないんだけど……」
「全部じゃなくていいけど、いらないもの捨てるくらいはしてから帰ってよ。お姉ちゃんが来年里帰りしたいっていってるから」
「え、赤ちゃんできたの?」
「連絡取ってないの? まったく……」
「今年は帰ってくるの?」
「年明けに旦那さんと来るって言ってたけど」
 姉の部屋はずいぶん昔に家族の趣味の物置になっていた。今はもうほとんど実家に帰らないし、使える部屋は私の部屋くらいだろう。それなら仕方ないか、と綺麗になったキャリーケースを抱えて段差の高い階段を一段一段踏みしめて二階に上がった。
 私の部屋のドアノブにはシールをはがしたような跡が残っている。小さい頃に遊んで家中の壁に貼って怒られたのが懐かしい。部屋の中は少し埃っぽいけど、思っていたほどじゃなかった。時々掃除してくれていたのかもしれない。キャリーケースを部屋の隅に寄せて置く。どこから手を付けようか迷って、とりあえず締め切ったクローゼットの扉を開けた。
 洋服は今と趣味が違うものばかりだしいらない。なんとなく捨てられなかった制服ももういらないかな。漫画は今の部屋に置くスペースはない。でも置いておいたら誰か読むかも、それこそお姉ちゃんとか。ゲームも今はすっかりやる時間がなくて手を付けていない。学生時代のアルバムは捨てるには惜しいから、かさばらないし持って帰ろうかな。卒業アルバムの横に並んでいたフォトアルバムを開く。
 小学生の頃の遠足の写真。この頃はまだヒロがこっちにいたな。中学生の時の写真は部活で日焼けしていて過去一番に真っ黒だ。高校生になると写真が急に少なくなる。この頃にはもう携帯で写真撮ったりしてたからだろう。ふと思い出す。そういえば、前に使ってたガラケーのデータを確認しようとしてたんだった。あれ、どこにしまったんだっけ。段ボールの中に入れてクローゼットの奥に何でもかんでも詰め込んでいたことを思い出しながら、記憶を頼りに段ボールを引っ張り出す。
 封のされていない段ボールを開くと、そこには手紙の束とお目当ての携帯があった。でもやっぱり充電がない。手紙を取り出すと、段ボールの底にガラケーの充電器があった。まだ使えるかな、と試しにコンセントに繋いでみると、赤いランプが薄く光った。まだ使えるみたいだ。確か緑のランプに変われば充電完了だった。
 携帯が充電されるのを待つ間、手紙を手に取ってみることにした。そのほとんどはヒロからのものだった。ひとつずつ開いて、まだ褪せていない便箋に目を通す。
みんなやさしくしてくれるから大丈夫
友達ができた。声が出るようになった
修学旅行で京都に行った
ちゃんと勉強してる?
零と同じ高校に行くことになった
 その封筒には便箋だけでなく、ポストカードのような紙が一緒に入っていた。それは一枚の写真だった。校門の前。胸に入学おめでとう≠ニ書かれた花飾りをつけて、およそ十五年も前の姿のヒロとその横に並ぶ男の子が、二人そろってピースを作って照れくさそうに笑っている。
「ゼロくん」
 思わず口からこぼれたその名前は、もう何年も口にしていなかったものだ。ゼロくんの話がでるのは、ヒロと話すときだけだったから。婚姻届に書かれた名前を見たときに感じた違和感はこれだった。写真の中のゼロくんは私が知っている降谷さんより年相応に幼く見える。なんで気付かなかったんだろう。それでも全然変わってないのに。
 まだ充電されきっていない携帯の電源を入れる。電池マークがまだ一本分しか充電されていないことを示していたけど、そんなことどうだってよかった。震える指先で過去のメールを遡る。
部活はなににした?
こっちはまだ雪降ってない
今度兄さんと会えることになった
なまえにもいつかゼロを紹介したいな
零以外にも友達ができたよ
 他愛もないことばかりのメールに時々添付された画像は、さっき見たばかりのゼロくんがうつったものから手振れのひどいよくわからない写真まで様々だった。途中で携帯を変えたタイミングがあったせいか、メールのやり取りは途中で途絶えている。
 最後にヒロと電話をしてから数年、毎日が忙しくてヒロのことを思い出す回数が段々減ってきていた。それなのに、こんな昔の手紙やメールに写真まで見てしまったら、途端に感じたことのない寂しさが溢れてどうしようもできない。ヒロのことは大好きだった。それは恋じゃない。でも、自分の中のヒロの存在は他の人で埋められる類のものじゃなかった。
 降谷さんに会いたい。私の知らないヒロを知っているかもしれない人。今のヒロがどうしているのかを知っているかもしれない人。ヒロの友達としての降谷さんには、まだ会ったことがないから。




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