- ナノ -



いつか


 元旦から一週間も経つと、どこか浮足立った正月の雰囲気は薄れ始め、街中や駅構内には振袖姿でおしゃべりに花を咲かせる子たちが目に付くようになっていた。私にもあったはずのあの頃。もう十年近くも前のことだ。過去は遠ければ遠いほど、鮮明には思い出せない。
 十一時五十分。約束していた時間より十分ほど前に待ち合わせの駅に着くと、降谷さんはすでに改札の前で待っていた。柱に背を預けた降谷さんが私に気付くと、柔らかい笑顔を浮かべて片手をあげる。
「お待たせしてすみません。あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 はにかんでそう言った降谷さんに笑顔を返したけど、上手く笑えているか分からなかった。実家で見つけた写真と手紙やメールのやりとり。降谷さんを見た瞬間、あっと声を上げそうになった。見れば見るほど似ている。やっぱり、あの写真のゼロくんと別人だなんて思えなかった。


 駅から歩いて五分。神社は屋台と人で賑わっていた。元旦から一週間たったとはいえ、まだ参拝客はそこそこ多い。並んでお参りを終えた頃にはあっという間に三十分ほど経っていた。
 おみくじの列を見てまた今度でいいかな、と考えていると、降谷さんが屋台のひとつを指差して「甘酒、お好きですか?」と尋ねた。
「はい。正月感ありますよね」
「よかった。それじゃあ買ってくるので座って待っていてください」
「えっ、それなら一緒に……」
「すごい人混みですから。はぐれても大変ですし」
 ここにいてくださいね、と言い残して人の波に消えていった降谷さんが見えなくなると、すぐ近くの木製のベンチに腰を下ろした。
 ひとりになると途端に自分の周りだけ静かになったように感じる。参拝に向かう人たちの雑踏が近いのに遠い。
 少し、迷っていた。このまま何も気づかないふりをして、ゼロくんと降谷さんは別で考える。いつかヒロに会えた時に降谷さんをゼロくんだと紹介されたら、それはそれでいいんじゃないかと。
 でも、そのヒロに会えない。連絡も取れない。降谷さんがゼロくんなら。東京に行ってからのヒロのことを知っているかもしれない人。いま何をしているのか。どうして連絡をしてくれないのか。理由があるならちゃんと教えてほしかっただけなのに。
「なまえさん?」
 え、と顔を上げると、両手に紙コップを持った降谷さんが心配そうな顔で覗き込んでいた。
「あ、すみません! お金、」
「大丈夫ですよ。温かいうちにいただきましょう」
 お礼を言って渡された紙コップを受け取る。冷えた指先がじわりと熱を取り戻していく感覚。紙コップに口をつける。口に含んだ甘酒は思っていたより甘さが強く、あれ、と首を傾けた。
「普通より甘い?」
「酒粕じゃなくて米麹で作ったんだそうですよ」
「へえ……」
 確かに、特有のアルコールのにおいは感じられない。甘酒なんていつぶりに飲んだだろう。冷えきった身体に沁みる。
「なにかありましたか?」
「え?」
「前にあった時より今日の方が距離を感じるので……って、僕が自惚れてただけかもしれないんですけど」
 困ったように笑った降谷さんがじっと私を見ていた。迷っている私を黙って待っている。半分ほど残っている甘酒はさっきよりもぬるくなって、緊張と不安でまた指先が冷たくなり始めるのを感じた。深く息を吐く。
「実家で……写真を見たんです」
「写真?」
「昔、幼なじみから送られてきた写真」
 顔は上げられなかった。横で、降谷さんが息を呑む気配がする。それだけで確信してしまった。
「降谷さん……降谷さんは、ヒロの……」
 久しぶりにその名前を口にしたせいか、それだけで泣きそうだった。喉の奥が詰まって、その先の言葉が出てこない。なにから聞けばいいのか。なにから話せばいいのか。降谷さんに会ったら聞きたかったこと、たくさん考えていたはずなのに。
「写真か……まさかそんなところから……」
「……降谷さんは、最初から知ってたんですか」
「僕も、時々ヒロから写真を見せてもらったりしていたから」
 私もそうだ。ヒロから送られてきたメールと写真でしかゼロくんのことを知らない。降谷さんは続ける。
「黙ってて、ごめん。会う回数を重ねるたびに、段々ヒロから聞いてたなまえが見えて……それが嬉しかったんだ」
 唐突に呼び方が変わったことに心臓が跳ねる。驚いて目を瞬かせると、それに気づいた降谷さんが手で口を覆った。
「……すみません、つい。なまえさん、のままの方がいいですか?」
「いえ、それは全然……私も、ヒロから聞いてたゼロくんとはちょっとイメージが違ったから。話しやすい方で大丈夫」
 突然目を丸くして黙り込んだ降谷さんに眉を顰める。訝しげな私の表情に気付いた降谷さんは、迷った素ぶりを見せながら口を開いた。
「……いつもそう呼んでたのか?」
「え? ああ、ヒロがゼロって呼んでたから……それ以外の名前は知らなかったし」
 零だからゼロなんだね。なんとなく言った言葉に、降谷さんは懐かしさと照れ臭さが混ざったような表情で頷いた。
「ヒロと最後に電話したときに、ゼロくんとは時々会えてるって言ってたの」
 降谷さんの表情は変わらない。それでも、目の奥が揺れたように見えたのは気のせいだろうか。降谷さんはなにも言わない。迷っているようにも見えた。さっきまでの私と同じように。そのせいか、なんとなく察してしまう。
「ゼロくんも、ヒロに会えてないんだね」
「……ああ」
「どこにいるのか、何してるのか……ゼロくんは知ってるの?」
「……今は、話せない。隠したいからとかじゃなくて、ただ、まだ……俺が、君に話す勇気がないだけ」
「そっか。いつか、話せる時がきたら話してくれる?」
 寂しさを隠したような顔をした降谷さんが頷く。今はそれだけで充分だった。湿った空気を変えようと明るい口調で「降谷さん、本当は俺って言うんだね」と言うと、降谷さんは「変?」と首を傾けて言った。
「ううん、全然。話し方も、そっちの方がずっといいです」
 目を瞬かせた降谷さんがふっと気の抜けたような笑顔を浮かべる。跳ねる心臓を誤魔化そうと残った甘酒を流し込んだ。
「婚姻届、どうしましょうか」
「……もう捨てたのかと思ってた」
「迷いましたけど、勝手に捨てるのも怖いし……」
「迷ってるなら捨てないでおいて」
 はっきりとした声でそう言った降谷さんの顔を見る。思いがけず真っ直ぐな目を向けられて戸惑う私に、降谷さんはいつになく真剣な声色で言った。
「まだ、諦めてないから」
 初めて会った時も、その後のご飯やデートも。距離は縮まった気がしたけど、降谷さんが私を好きだとは到底思えなかった。だから結婚の話も冗談だと思ったし、私が降谷さんに惹かれていくたびにその先が見えなくて怖かった。
 それなのに降谷さんは、簡単にその一線を超える。
「一度も会ったことないのに、ずっと忘れられなかった。だから離したくなかったんだ」
 降谷さんの手が伸びて、冷たい空気に晒されて冷えた私の頬に触れる。降谷さんが私に触れるのは初めてだった。私を見る降谷さんが目を細めて笑う。
「真っ赤」
「……ふ、降谷さんて、そういうとこありますよね」
「吹っ切れただけだよ」
 頬に触れていた手が離れて、今度は私の手を取る。ひと回りもふた回りも大きくてあたたかい手が、包み込むように私の手に触れている。
「浮気もタバコもギャンブルもしない」
「それは私もです」
「……寂しい思いは時々させるかも」
「……」
「でも、絶対帰ってくる」
「……絶対?」
「絶対」
 降谷さんの言う絶対は、本当に絶対叶いそうだ。黙ったままなにも返さない私に、降谷さんが握ったままの手に力を込めた。その表情がどこか不安そうに見えるのは気のせいだろうか。
「……私、たぶん、降谷さんが思ってるよりずっと、降谷さんと一緒にいたいって思ってます」
 声も、繋がれたままの手も、震えていた。それでもいい。他人のことを考えて、想って、泣きそうになる。こんなの、一生で一度きりかもしれない。
「もっと、降谷さんのことを知りたい」
 行き交う人の喧騒にかき消されそうなか細い声だった。それでも、伝わってほしい。握られたままの手を精一杯握り返す。
「敵わないな」
 甘やかすような声に、伏せていた顔をそっと上げる。あの目の端を緩めた、柔らかい笑顔。水族館の薄暗い光と違う、眩い陽の元で晒されたその顔が、ただ私だけを見つめていた。




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