- ナノ -



迷いながら生きてる


 約一か月後の日曜日。降谷さんと会うのは三回目の今日、「今度はご飯だけじゃなくてちょっとお出かけしませんか」と誘われて都内の水族館まで遊びに行くことになっていた。
「水族館、お好きなんですか?」
「うーん、人並みですかね……? でもここの水族館は他よりちょっとだけ気に入ってるんです」
 派手なイルカショーがあったり大きなシロクマがいるような大きい水族館というわけじゃないけど、見通しのいいひらけた水槽にたくさんのペンギンが思い思いに過ごしている様子はいつまででも見ていられる。そこまで話して降谷さんを見上げると、降谷さんは柔らかい表情で私を見下ろしていた。説明に思っていたより熱が入ってしまったことに気が付いて黙り込む。
「すみません、一人で騒がしくして」
「いえ、僕も楽しいですよ。水族館はあまり来ないので……それになまえさんがこんなに生き生きしてるのは初めて見ました」
 からかうように笑った降谷さんを目を細めて睨みつけると、降谷さんは口元を隠してまた笑った。館内が薄暗いおかげで、顔に集まった熱は降谷さんにはばれていないはずだ。
 楽しみにしていたペンギンのコーナーは館内の中央にあった。二階から見下ろす形でペンギンたちを見ていると、肩を叩いた降谷さんがペンギンが見れる位置にある空いたばかりのソファを指差す。
「ルート通りに行くと下から見れるところもあるんですよ」
 隣に腰を下ろした降谷さんは興味深そうに階下のペンギンを眺めていた。やっぱりそんな人には見えないけど。友人が言っていた言葉と結婚詐欺師の特徴をまとめたあのサイトを思い出して、少し気分が落ち込む。
「……? どうかしましたか?」
 そんなに暗い顔をしていたのか、気付いた降谷さんが心配そうな顔で覗き込んでくる。
「……降谷さんって……」
「はい」
「…………結婚詐欺師とかじゃないですよね」
「はい……?」
 ぽかんとした顔を見せる降谷さんの顔をじっと見つめる。降谷さんのちょっと抜けた顔というか、素の表情に近い顔を見せたのは初めてかもしれない。いつもは隙のない完璧な笑顔を浮かべてばかりな印象だったから。
 降谷さんは一拍置いた後、堪えきれない笑いを吹き出すように笑い出した。こんなに砕けた笑い方をする降谷さんも初めて見る。今日は見たことがない一面ばかりだ。
「すみません。あまりにも真剣な顔で聞いてくるから……」
「だって……この間友人と話してて。ちょっと否定できなかったというか、むしろそうなのかなって」
「というか、本当に疑ってるならそういうことは本人に聞かない方がいいです」
「え……あ……勉強になります……」
「ぶっ、ふふ、もう勘弁してください……」
 肩を震わせて笑っていた降谷さんがひと呼吸置いてやっと落ち着くと、「やっぱりちょっとズレてますね」と言った。まただ。どこか懐かしむような表情。それに「よく言われます」と返すと、降谷さんはまた笑った。
「でも、違うって言っても疑いは晴れませんよね。どうしたら信じてもらえるのかな」
「……そう言われると難しいですね」
「ちなみに、もし僕が結婚詐欺師だって言ったらどうするんですか?」
「え……普通に逃げます……」
「一応言っておくと、もちろん冗談です」
 降谷さんと顔を見合わせて、どちらからともなく笑いがこぼれる。三回目にしてやっと打ち解けたような気がする。
「なまえさんは年末年始のお休みあるんですか?」
「はい。そんなに長くはないんですけどね」
「それじゃあ、もしよかったらまたどこかに出かけませんか?」
 降谷さんからのお誘いに年末年始の予定を思い浮かべて顔を曇らせる。
「すみません。久しぶりに帰省する予定で……」
「ああ、そうですよね」
「……だから、あの。もしよかったら、帰ってきたら初詣とか行きませんか?」
 勇気を振り絞って言ったつもりなのに、降谷さんは驚いた様子のまま固まっていた。でしゃばりすぎたかもしれない。返事をくれない降谷さんに誘ったことを少し後悔した。
「あ、あの、すみません。もちろん断っていただいて大丈夫です」
「いや! 違うんです、初めてなまえさんから誘ってくれたので……驚いて」
 口元を隠すように覆った降谷さんが息を吐く。
「もちろん。嬉しいです」
 降谷さんの返事に落ちかけていた気持ちがパッと浮かんだ。
「初詣にはちょっと遅いけど、その次の週の連休のどこかとか……私は特に予定もないので。降谷さんはお休みありますか?」
「多分どこかしら空いてるはず……帰ったら確認して連絡しますね」
「はい、待ってます!」
 口にしてからハッとする。待ってますって、なんかちょっとあからさまだったかな。そっと降谷さんを見上げると、降谷さんは目の端を緩めて柔らかく笑っていた。心の底から大切なものを見るような目。自分に対してそんな顔を向けてくる人を見たのは、小さい頃に見た親の顔以来だろうか。うるさいくらいばくばくと音を鳴らす心臓と、どこか冷静なままの頭の中がちぐはぐになる。
 どうして私にそんな顔を向けるの。自惚れそうになる。このままじゃ、後戻りなんてできない。息の仕方を忘れるくらい、ただぼうっとその顔を見つめていた。


 * * *


 降谷さんからメッセージが届いていることに気付いたのは、寝る前にアラームをかけようとした時だった。
今日はありがとうございました。話していた初詣ですが、ちょうど祝日が休みでした。楽しみにしてます
 お礼の返事を考えようとしたところで、自分の頬が緩んでいることに気付いて途端に照れくさくなる。初めて会った時とは比べものにならないくらい、降谷さんに絆されてしまっている。
 張り詰めていた気持ちを少し緩めただけで、あっという間に降谷さんへ向ける感情が変わった気がした。一か月後の予定が遠く感じて、会えない時間を寂しく思う。瞬きするたびに過ぎる時間が切なくて、別れ際には惜しくなる。指先ひとつの動きでさえ、つい目で追ってしまう。頭じゃなくて心が追いかけている感覚。
 その時に感じたことをふと思い出した。声を上げて笑った時の笑顔。なにかデジャビュを感じたのはなんだったのだろう。やっぱり前にどこかで会ったことある気する。
 地元で会ったことがあるのか、顔が整ってるしテレビの中で見たことがあるのを勘違いしているだけなのか。でも一つだけ心当たりがある。社会人になってから会った記憶はない。会ったことがあるとしたら学生のころだろうか。
「……もしかして」
 ひとつの朧げな記憶を辿るようにアルバムを一番古いところまで遡る。いくつか前のスマホの時の画像が並んでいるけれど、その中に思い浮かべていた写真は出てこない。
「おかしいな……あ、」
 そうだ。ガラケーからスマホに変えたときにメールもその時の画像も移せなかったんだっけ。あの時のガラケーなら実家のどこかに残ってるかもしれない。帰省した時にでも見てみようかな。
 ヒロに聞くのが一番早いんだろうけど。ヒロからしばらく連絡ができないと言われた後、たったの一回だけヒロに送ったメールを久しぶりに開く。それは私からヒロに最後に送ったメールだった。
東京に転勤が決まったの。そっち行ったら久しぶりに会えるかな?
 何度もヒロからの返信が届いていないか確認した。宛先が間違ってるのかもしれない、迷惑メールとして省かれているのかもしれないと、何回も、数え切れないくらい。どれだけ待ってもそのメールに返事は来ることなく、いつの間にか数年がたっていた。




prev | back | next