- ナノ -



どんな夢なら叶うのかな


 降谷さんから連絡がきたのは水曜日の朝のことだった。
金曜日の夜、よかったら食事に行きませんか
 シンプルだけど丁寧な文面。言われるがまま連絡先を交換したはいいものの、一週間、二週間とあっという間に時間が過ぎていき、もしかしたらただの社交辞令だったのかもしれないな、と思い始めていたところだった。
 悩んだ末に二十時以降でよければぜひ≠ニだけ返した。クローゼットの中で眠っている借りたままの服もようやく返せる。


 予定通り、二十時を少し過ぎたあたりで駅に着く。私の家の最寄りからほど近い、都内では小さめな駅のロータリー。車高が低めな真っ白な車と、その横に立ってスマホを弄っている降谷さんは人目を引いていた。近づくのを躊躇うくらいには。
 駅の前で不自然に立ち止まったせいか、不意に顔を上げた降谷さんと視線が絡んだ。私に向かって軽く手を振る降谷さんに覚悟を決めて近寄る。降谷さんは金曜の夜だというのに疲労感の欠片も感じさせない笑顔を浮かべていた。
「こんばんは。急に誘ってすみません」
「いえ、そんな……借りてた服もお返ししたかったですし」
 ありがとうございました、と紙袋ごと差し出すと、降谷さんは「わざわざすみません」と紙袋を受け取ってくれた。寒いので車に、と促されて助手席に座る。さっきまでエアコンがついていたのか、外より大分あたたかい。運転席に回った降谷さんがエンジンをかけると、あたたかい風が顔に当たった。
「なにか食べたいものとかありますか?」
「うーん……食べたいもの……あ、」
 そういえば、気になっていたディナータイム限定の喫茶店が割と近い場所にある。いつか行きたいと思ってはいたけど、仕事帰りは疲れて寄る元気がないし、休みの日の夜にわざわざ一人で出かけるのも億劫で行けていなかったお店。降谷さんも車でお酒は飲まないだろうし、ちょうどいいかもしれない。
「喫茶店とかどうですか? 夜限定で開いてるところがあるんです」
「へえ、いいですね。どのあたりですか?」
「えっと、そんなに遠くなくて……喫茶グリーンってお店です」
 スマホでマップを確認した降谷さんがここですか、と画面を向けてくる。
「あ、そこです! ただ、駐車場が少ないみたいなので近くにパーキングがあればそこから歩いていきましょう!」
「なるほど……ああ、ちょうど近くにありますね。とりあえず向かいましょうか」
 シートベルトに手を伸ばした降谷さんに倣ってシートベルトを付けると、それを確認した降谷さんが慣れた手つきでギアを動かす。人の運転だとブレーキやアクセルのタイミングが合わなくてちょっと緊張するけど、降谷さんの運転は自分よりもずっと丁寧でほっとした。
 十分ほど車を走らせると、駅前の大通りから打って変わって車がすれ違える程度の狭い通りに入る。家と家の間にある、五台ほどしか停められないような小さなコインパーキングに車を停めた。
「ここから歩いてすぐみたいですね」
「はい……うわ、寒い!」
 暖房であたたまった身体には冬の夜風がこたえる。思わず腕をさすって震えていると、近付いてきた降谷さんが手に持っていたマフラーをぐるぐると私の首周りに巻きつけた。
「え、いいですよ! 降谷さん使ってください、お店すぐそこですし」
「そんな耳と鼻真っ赤にして言われても……」
「え」
「それに僕はなまえさんが来る前に車で暖まってましたから」
 早く行きましょう、と手を取られて流されるままに着いて歩く。降谷さんの手がカイロみたいにあったかくて、思わず繋がれた手をそのままにしてしまった。ぐるぐるに巻かれたマフラーから降谷さんの家の匂いがするせいで落ち着かない。痛いくらいの冷たい風も、気を紛らわせるにはちょうどよかった。


 予約をしていなかったから入れるか心配していたけれど、開店して間もないからか店内は思っていたよりも空いていた。
 アンティーク調の装飾でまとめられた店内はBGMも相まって落ち着いた雰囲気で、天井から吊り下がる橙色のランプたちが店内を淡く照らしている。奥から出てきたエプロンをつけた女性が「いらっしゃいませ」と柔らかい笑顔を浮かべた。
「二名様ですね。こちらへどうぞ」
 半個室のようなつくりになっている席に案内されると、温かいお茶と一緒にメニュー表を渡された。二人で見えるように見開き一ページのメニュー表を開く。少し丸い手書きの文字で、喫茶店とは思えない食事のメニューが並んでいた。
「これは……悩みますね」
「どれもおいしそうだけど……このグラタンにしようかなぁ」
 かぼちゃのグラタンを指差すと、降谷さんは少し悩んでから「僕はこれにします」と特製ボロネーゼを指差した。
 タイミングよく席に来てくれた店員さんに注文を伝える。注文を取り終えた店員さんが席を外すと、途端になにを話せばいいか分からなくなって空気が重くなった気がした。喉が渇いているわけでもないのに間を埋めるためだけにあたたかいお茶に口をつける。
「連絡、遅くなってしまってすみません」
「いえ、その……むしろ本当に連絡が来るとは思ってなかったので」
「人の婚姻届を預かったまま消えたりできませんよ」
 まあ持ってても意味はないんですけどね、と軽い調子で笑った降谷さんに引き攣った笑顔を返す。
「あの……あの時の婚姻届、やっぱり破棄しませんか」
 言うならこのタイミングじゃないだろうか、と図って言った言葉に、空気がさっと冷める感覚を覚えた。店内のBGMは穏やかで、少し離れた席に座っている人たちの話し声も届いているのに、私たちの間だけ時間が止まったみたいだった。
「それは……友達からでも難しいってことですか?」
 困ったような、それでいてどこか寂しさが混ざった顔で降谷さんが言う。
「そういうわけじゃないんですけど。プレッシャーというか……」
 降谷さんが極悪人とかじゃないというのはわかっても、恋人や結婚相手との相性があるように、友達にだって相性がある。悪い人じゃなくたって、合わないなら友達になるのも難しいと思う。そうなった時にあの紙切れ一枚があるだけで、真正面からお断りする勇気がない。
「……そうしたら、これ。なまえさんが持っていてもらえませんか」
「え、」
 降谷さんの鞄から出てきた見覚えのある紙。花柄に縁取られたピンク色のそれは、紛れもなくあの日見た婚姻届だった。
「私が持ってるって……捨ててもいいってことですか?」
「もちろん、できれば取っておいてほしいですが……それも含めてなまえさんにお任せします。さすがに強引すぎたとは思ってたので」
 重荷になってるなら逆効果ですから、と降谷さんは苦笑いを見せる。そんなこと言われても。渡された婚姻届に視線を落とす。あの時は空欄だったはずなのに、降谷さんの証人欄は私の知らない人の名前で埋められていた。この人、まさか本気なのか。なんで。どうして。信じられないものを見るような目で降谷さんを見ると、降谷さんはいたって真剣な表情で口を開いた。
「正直、結婚はただの口実なんです。いきなりこんなこと決められないって、それくらい分かってます」
「じゃあ、どうして」
 私を見る降谷さんの目の奥には、懐かしんでいるような感情が時々見え隠れしているような気がする。どこか遠くを見るような目。
「なまえさんとの縁を切りたくなかっただけですから」
 そんな顔して言うようなことじゃないのに。降谷さんのことがどんどんわからなくなっていく。




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