- ナノ -



かつて星だったもの


「大丈夫?」
 電車の端の席、衝立にもたれかかって眠りこけている女性に男が話しかける。二十三時五十分。終点はまだ少し遠い。頭を少し俯けたまま返事をしない女の頬は少し赤らんでいて、酔っ払っているのだろうと安易に予想がつく。終電間際の車内に人は疎らで、同じようにうとうとしている人がほとんどだった。
「おーい、大丈夫? 次で降りられる?」
 女を覗き込むように少し屈んだタイミングで電車が止まる。男がその女の腕を掴んで立たせようとすると、そこでようやく女が怠そうに頭を持ち上げて小さく唸った。
「……う、」
「ほら、立って」
 ドアが開く。男が女を支えるようにぐっと腕を引いた。僅かに顔を顰めた女がされるがままに引き上げられそうになる。咄嗟に近付いてそれを遮るように男に掴まれた彼女の腕を取った。
「なまえ」
「は?」
「なまえ、」
「……、なに……」
 女の名前を呼んだ俺に、彼女は寝ぼけたまま掠れた声で気怠そうに返事をする。それを見た男はバツが悪そうな顔を隠しもしないで彼女の腕を離し、そそくさと電車を降りていった。腕を掴んだままの彼女を見ると、さっきまで顔を顰めていたというのに穏やかな顔で寝息を立てている。思わず呆れ混じりのため息を吐いて、彼女の隣に腰を下ろした。
 写真の中でしか見たことのなかった彼女は、思っていたより落ち着いた声をしていて、思っていたより華奢で、あの写真の中の面影を残したまま、思っていたよりずっと大人になっていた。


 * * *


 ふくらはぎに当たるあたたかい風が気持ちいい。たまに開くドアから入る冷気で沈みかけていた意識が一瞬浮き上がって、またすぐにうとうとと沈んでいく。電車の揺れもアナウンスも気にならない。
 そうして夢の中と揺れる電車を行ったり来たりしていたはずなのに、なぜか私の肌にやさしく触れる手がある。それは火照った私の体温よりほんのり冷たくて気持ちいい。眠気に逆らって、重たい瞼を持ち上げる。薄く開いた視界の先にぼやけて見えたのは、目前まで迫る深い青だった。


 さむい。昨日エアコン入れ忘れたっけ。二の腕あたりまでしか覆われていなかった毛布を口元まで引っ張る。毛布が斜めになっているせいで今度は足先が曝け出されて冷たい空気に触れた。寝ているうちにいつの間にか毛布が変な角度になっているのはいつものことだった。目も開けずに慣れたように毛布を蹴飛ばして、正しい位置に直そうとする。
「痛、」
「……?」
 毛布越しになにかを蹴っ飛ばしたかと思った瞬間、横から男の声が聞こえた。寝ぼけた頭で一拍置いた後、慌てて身体を起こす。掛け直した毛布がずるりと素肌を滑った。壁際に寄せられたシングルベッド。私はそのベッドの壁側に寝ていたらしい。隣に寝ていた男性が瞼を持ち上げて、起き上がっている私を見上げた。今震えてるのは、寒さのせいだけじゃない。
「風邪引きますよ」
「え、あ!」
 下着しか付けていない自分の身体に気付いて、慌てて身体を隠すように毛布を引っ張る。男性はちゃんとシャツを着ていた。枕元に置いていたスマホを手に取った男性は「七時か……」と呟いて同じように身体を起こした。反射的に身を引くと、下着しか身に着けていない背中に冷たい壁がぴったりくっつく。心臓が内側から激しく叩かれているような緊張感で、身体中に薄く鳥肌がたっていた。
 男性はそんな私を見て、困ったような表情を浮かべていた。気を遣ってくれたのか、ベッドから降りた男性はそっと距離をとってくれる。その様子から悪意は欠片も感じられない。私の肩の力が抜けたことを確認したのか、男性はテーブルの上のリモコンを手に取ってエアコンを付けた。
「あ、あの、ここ……」
「僕の家です。昨日酷く酔っていたみたいで……戻して服が汚れたので洗いました」
「えっ」
「勝手にすみません」
 顔から血の気が引くのが分かる。恥ずかしさを上回る申し訳なさで情けなくて泣きそうだった。かろうじて口から出た「すみません……」という掠れた声に、その人は「いえ。服、多分まだ乾いてないのでこれどうぞ」とTシャツとハーフパンツを貸してくれた。うそ、めっちゃいい人じゃん。心の中で呟いたつもりだったのに口に出ていたのか、その人がふっ、と口を押さえて笑った。そのまま後ろを向いてくれたので、慌てて貸してくれた服に着替える。体格がいいとは思っていたけど、半袖のはずなのに肘の先まで袖が余る。せっけんと花の香りを混ぜたような柔軟剤の匂いがした。
「着替え……ありがとうございます」
「いえ」
 寝起きでまだ頭が働いていない。何を話せばいいのかも分からず、沈黙が流れる。ものすごく気まずい。どうしようかと思ったのも束の間、自分のお腹から音が鳴った。そういえば昨日戻したとか言ってたっけ。空気を読まない自分のお腹を握り拳で強く抑えると、男性が「朝ごはん、軽くでいいならなにか作りましょうか」と柔らかい声で言った。
「いえ、そこまでお世話になる訳には……」
「自分の分のついでなので。お気になさらず」
「……えっと、じゃあお願いします。何から何まですみません……お手伝いします」
「僕が準備しておくので、その間にシャワーでもどうぞ。昨日持っていた荷物はそこに置いておいたので、一応中身確認してみてください」
 ベッドの死角になるところに置いてあった鞄を指差したその人は、部屋を離れてどこかに行ってしまった。鞄を手繰り寄せ、内ポケットに入れていたスマホを手に取る。昨日一緒に飲んでいた友人から「無事に家ついた?」と連絡が来ていた。三十間近になって酔っ払って知らない人に介抱してもらってたとは言えず、「とりあえず無事」とだけ返した。財布の中の身分証やカード類が無事であることを確認して顔を上げると、ちょうど男性がタオルを持って戻ってきたところだった。
「荷物は大丈夫でしたか?」
「はい、ありがとうございます」
「それはよかった。タオルはこれ使ってください。お風呂はこっちです」
 男性の案内でお風呂まで行くと、彼は「シャンプーはそこ、隣がコンディショナー、そっちがボディソープ。化粧水とドライヤーはそこです。ごゆっくり」と淡々と説明して脱衣所のドアを閉めた。よくよく考えると、寝起きに突然出会った全く知らない男性の家でお風呂に入るって結構勇気がいる。だけど冬とはいえべたついた肌に多少の不快感を覚えていたのも事実で、恐る恐る袖を通したばかりの借り物のシャツをそっと脱いだ。
 今日ほどクレンジングを持ち歩いていなかったことを後悔した日はない。それでも髪と体を洗い流すだけで薄らと体に染みついていたお酒のにおいが洗い流されていくような気がして大分すっきりした。
 用意されたバスタオルで身体を拭き、再びシャツに袖を通す。ドライヤーで粗方髪を乾かし終えると、自分のものじゃない柔らかいシャンプーの香りに。
 脱衣所を出ると、焼きたてのパンの匂いが部屋に広がっていた。テーブルに並べられたお皿にはバターの乗ったトーストにスクランブルエッグとベーコン、それからミニトマトとレタスのサラダが添えられている。
「簡単なものですみません」
「え、これが?」
 割と急いでシャワーを済ませたからたいした時間はなかったはずなのに。カフェのモーニングのような朝食に目を丸くしながら素っ頓狂な声でそう返すと、そんなに変な顔をしていたのか、男性は吹き出した口元を押さえて顔を背けた。
「すみません、ただの思い出し笑いです。食べましょうか」
 用意された朝食は見た目通り文句なしの味だった。せめて洗い物は自分にさせてほしいと頼み込むと、渋りながらも任せてくれた。
「コーヒーか紅茶、どっちがいいですか?」
「え、いいんですか! そしたらコーヒーでもいいですか?」
「コーヒーですね。砂糖かミルクは?」
「ブラックで大丈夫です」
 コーヒーの匂いが部屋に広がった頃、洗い物を終えて振り返る。朝食をとったテーブルの上、椅子の前にコーヒーの入ったマグカップがふたつ。その真ん中に置かれていた一枚の紙から目が離せなくなった。
 見開きのA3サイズ。ピンクの枠の外には綺麗な花柄がプリントされていて、その中の欄はほとんど埋められている。少し歪んでいるけれど、確かに自分の字で署名されていた。夫の欄には降谷零∞二十九歳≠ニ記されている。零。珍しい名前だけど、どこかで見聞きしたことがある気がする。どこで聞いたんだっけ。というか同い年なんだ。整った顔立ちのせいか、勝手に年下かと思っていた。紙を凝視する私に気付いた降谷さんが「ああ、」と軽い調子で口を開く。
「昨日の夜、酔っ払ったあなたが結婚しようっていうから……コンビニで雑誌買ってきたんです」
「あ、だからお花の柄なんですね。かわいー……」
 震えそうになる声が抑えられているか、自分ではわからなかった。間違いなく自分の筆跡だけど、酔った勢いで書いた婚姻届なんてただの紙切れだ。でも、ただの紙切れにしておくには重すぎる。
 咄嗟の判断でその紙を破ろうと手を伸ばした瞬間、さっと横から伸びてきた手に取り上げられる。血の気が引いた顔でその紙を辿るように視線を上げると、怖いくらい綺麗な笑顔を浮かべた降谷さんが丁寧な手つきで紙を半分に折りたたんでいた。
「あとは証人欄となまえさんの捺印ですね」
「え、え、え、待って、待ってください」
「僕もそろそろ婚活しようかと思っていたところだったのでちょうど良かったです」
「待って、嘘ですよね、出さないですよね」
「残念ながら証人はなんとかできても、なまえさんの捺印がまだなので勝手には出せません」
「勝手にハンコ押したりとか……」
「私文書偽証罪なのでしません」
 あ、そうなんだ。少しほっとして、それでも降谷さんの手の中にある婚姻届をどうするのかと心配せずにはいられない。それが顔に出ていたのか、降谷さんは「すみません、怖がらせるつもりはなくて」と困ったような顔で言った。
「いったん、友達から始めてみませんか」
「え」
「人を見る目はあるつもりなんです。悪い人じゃなさそうですし」
 出会ってからたった数時間。しかも私吐いたって言ってなかったっけ。少し降谷さんが心配になった。それに私は見る目がないから、降谷さんがいい人なのか悪い人なのかどうかなんてさっぱりわからない。
「ということで、これは念のため預かっておきます」
 どちらかというと怪しい気がする。なにを考えているのか探ろうと降谷さんの目を見つめ返しても、取り繕っているようにしか見えない笑顔を返されるだけだった。




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